89話 そして恐怖が続き
「アイカ、荷物取ってきたの?」
「ああ」
「……なんかわかった?」
「なにも。ただ、満足はした」
まだ体調がよろしくなく、またあんなものを見せられたから精神的にも尾を引いているようで、全体的に調子がよくない。ホテルの布団に全身を預けながら、半分くらい意識を飛ばしていたところアイカが返ってきた。なにかつきものでも落ちたような顔をしていて、何かわかったのかと思ったがそうでもないらしい。
「……正体探し、諦めた」
「……諦めたって」
「もちろん、母さんのことを殺せとヒマリにそそのかした奴も、ヒマリを殺したやつも許すつもりはないし、それに関しては明らかになって欲しいと思ってるけど……自分については、もういいや」
ひどく穏やかな口調でそう告げられる。あれだけ固執していたのに、突然そんなことを言われてもこちらの腰が抜けるだけだ。
「何が原因」
「原因というか……拘ることはそれじゃないなと、すこし考えるきっかけがあっただけ」
「嘘つかないでよ」
「嘘って」
「顔見りゃわかる。人の心が読めるとか、嘘は全部わかるとか、そんなこと言うつもりは微塵もないけれど、何年一緒にいたと思ってるの」
彼の内心を全て知っているわけでもないのに、嘘をついていると断定するのはある意味誘導行為だ。そう指摘することで、表情に焦りが出る。それがどっちであるかを物語る。意地の悪い言い回しをしている自覚はあるけれど、こいつはそうでもしないと何も言ってくれない。
「……色々あったんだよ」
「アイカにとって、自分が何者であるかってそんなに簡単に諦められるものとは思えないんだけど」
「いいから」
「そんなに簡単に諦めがつくようなことなら!なんであんなに母さんのこと苦しめたのさ!」
「……それは、ごめん……」
彼にだって彼の考えがあったことはわかってる。母さんに甘えること、母さんの子供でいることを彼がよしと思えなかったのだって事情はこの間聞いたし、答えてくれなかったことに不信感を抱くのだって、彼の立場ならそうだったのだろう。だけれど、母さんだって苦しんだはずだ。彼がそれに拘らなければ、おれたちの関係だってここまでこじれることはなかった。
「本当は、わかったんじゃないの。わかったから……そんな顔してるんじゃないの」
「……」
「おれは、そんなに信用ない?」
「そういうわけじゃないけど……」
こんな聞き方するから嫌われるのだ。わかっている。相手の罪悪感に付け入るような酷いことをしていることくらいわかっている。けれど不安で仕方ないのだ、このまままた置いて行かれるのが。こうやってまた些細なことですれ違うのが怖い。
「教えてよ……おれたちは一体なんだっていうの、どこで恨みを買ったの。どうして母さんとヒマリは殺されなきゃいけなかったの、なんで、なんで……」
「ごめん……でも、知らないほうが良い……から……」
「知らないほうが良いってなに!?そんな碌でもないことなの!?もう十分だよ、今更なにを言われたって驚かないよ」
「……それでも、言えない」
「なんだよそれ……」
彼の煮え切らない態度に異様に腹が立った。自分は真実を知るに値しない人間だとでもいうのか、それとも耐えられないような人間だと思われているのか。いつも守られてばかりばかりだ。そればかりで、おれは一体どうしろというの?ニコニコ笑って、知らないふりをしていろとでもいうの。そうしたいよ、そうできるならそうしたいに決まっている。だけれど、今更もうそんなことできるわけがない。
「そうやって人を馬鹿にするのもいい加減にしろよ!」
「……っお前だって!じゃあ知っても、普通に生きていけんのかよ!」
「知らないのにそんなこと聞かれたって答えられるわけないでしょ!」
「いい加減にするのはお前の方だろ!」
かちゃり、と金属質な音がした。ホテルの一室には似合わない、黒光りする銃器が、彼の腕からおれの額まで伸びていた。
「なに……そんな危ないもの、手に……」
「お願いだから、お前は知らなくていい。聞こうとするな」
「なに、脅し?」
はらはらと感情が剥がれ落ちていくような感覚がする。顔が動かない、息がうまく吸えない。
「脅しだと思うならそう思えよ……お前は知らなくていい、知るな。知るくらいなら死んだ方がマシだ」
「……」
「お前が事実を知るくらいなら……じゃあ選べよ。真実を知ってこのままオレに打たれて死ぬか、何も知らずに生きてくか。オレのおすすめは後者だ」
「なん……だよ……そ、れ……」
なんで、なんで、知ってしまったら死ぬくらいのことなのかよ。なんで、どんどん訳が分からなくなる。額に当てられた銃口は冷たくて、そろそろ跡でもついているのだろうか、少し湿った感覚があった。
「……死んだ、ほう……いいなんて、い、うの……?」
「っおい、落ち着けって、おい!ミタカ!?」
だんだんと暗くなる視界で、突然彼が怒ったような緊迫した表情から突然焦ったような顔になる。なにお前からこんなことしておいて、焦ってるんだよ。なにか焦るようなことでもあった?ああ、おれが原因か。カヒュカヒュとした喘鳴すら少しずつ遠くなる、耳の先が重くなるようなしびれるような感覚がして、奥の方から暗闇が広がるようになにもなくなっていく。手足がじわじわ、ふわふわ、としてくる、ああ、これ一番まずい奴だ。息苦しすぎてどんどん他の感覚がわからなくなっていく。いくら吸っても息が吸えないし、肺の中にあるものが減っていく。吸おうとしてるのに胸元が激しく上下するだけでなにも楽にならない、むしろその辺りの筋肉が痛い、ならもう息を吸うのをやめてしまおうか?
「なぁおい!?しっかりしろって!?」
しっかりしたいんだけど、さっきからどうにも体が言うことを聞かないんだよ。
ああ、死ぬのかな。なんでおれはいつも━━大切な人に死ぬことを願われるのかな。
やり直したかったのに、結局だめだった。最後に考えることができたのはその一言だけだった。
『生きていたいなんて思って、ごめんなさい』
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