60話 彼のことを知らず…①

「こんにちは~」


 古いタイプの呼び鈴を何度か押しているが出てくる気配がない。仕方がないので扉に手をかけると空いていた。不用心だな、でもまあ田舎だからそんなものかと声をかけて中に入る。いつもなら水曜はお父さんはデイサービス、お母さんは調子を崩して入院していると聞いていた。だから家の中はしんとしていて、いつもならついているテレビも消されて音がしなかった。


「さすがに出かけてるってことはないよな…」


 そこまで不用心な人だとは思わない。人の家に勝手に上がってうろつくのは罪悪感があるが、仕事だと割り切って足を踏み入れる。どうしても経験上最悪の事態を想定してしまうのと、茶の間以外足を踏み入れたことがないので間取りがわからないのを合わせて恐る恐る足を踏み入れる。


「……ん、……あれ、……んです……?」


 重そうな扉の向こうで人の声がする。浅間さんだ、とノックをして部屋に入ると、ぐったりとした様子でベッドを背もたれにして倒れている姿があった。


「……大丈夫、ですか」

「……たいしたことじゃないです、いつものことなんで」


 右手をひらひらとさせて、いつものこと、といいながら肩で息をしている様子を見てもなんの安心材料にはならない。よく見たら使用した後の吸引が影に隠れているし、大丈夫じゃないじゃんと言いかける。


「体調すぐれないなら別に明日……だと私がだめか、明後日出直しますが」


 数ヶ月彼と関わってみて、余計な心配をしてしまうと萎縮してしまうタチだというのはわかってきた、かといって心配をするのが仕事みたいなものなので気に掛けるところは気にかけて、踏み入らないところは踏み入らないのバランスをとるのが正直難しい。他に自分が担当している市民は高齢者だったり、若いのはチンピラ未満が多いので彼みたいにヘコヘコしているのは少ないのだ。というかこの街の治安が全体的によくないので荒々しい人が多いのと、自分がそこそこ大柄な男性ということもあって担当が偏っている面もあるのだが。そもそも同年代の相手をすることすら珍しいので接し方がわからない。


「大丈夫ですよ、いつもの場所でちょっと待っててください。すぐ落ち着くので」


 本人にとっては慣れている現象であっても、見ている側からしたら気が気ではない。けれどせっかく心を開いてもらった予感がしたのだ。また距離ができてしまっては困ると引き下がった。



「すみません、待たせちゃって。水飲んだらだいぶよくなったので、もう大丈夫です」


 渋々指定席になっているダイニングテーブルに座りながら、今日の面談のための資料を眺めて数分がたったころ、彼は戻ってきた。さっきよりかは幾分顔色がいいが、それでも明らかに調子がいいとは思えなかった。


「実はちょっと、話ししたいことがあって。雑談になっちゃうんですけど」

「……?」

「これ、馬場さんでしょ。名前聞き覚えあるなって思ってたんです」


 そう言って開いて見せたのは小学校の卒業アルバムだった。自分の分は実家に置いてきたまま何十年と放置しているので、自分のものと同じだと気づくのに少しだけ時間がかかった。


「おれ、昔は佳吉市に住んでたんですよ。父親が三年くらい単身赴任してて、赴任先で昇進しちゃって結局引っ越したんですけど。それがちょうど中学に上がるタイミングで。この間掃除……というか遺品整理の準備かな、してたらちょうど見つけて見てたら名前があって」

「……」

「髪染めてるんですね、見覚えある顔だなって思ってたんですけど全く気がつかなかったや。綺麗な金髪の子って印象だったから。同じクラスになったこと、一回くらいしかなかったからあまり接点はなかったですけど。マンモス校でしたし」

「7組くらいありましたもんね……いや、おどろいたな」


 まさかこんなところで自分の過去を知っている人間と会うなんて、全く気がつかなかった。佳吉と安曇は車で一時間くらいかかる距離だし、公共交通機関で移動するのは難しい位置関係にある。こっちの方が田舎だからそうそう地元の人間に会うことはないと思っていたのに。


「覚えてないと思うんですけど結構見かけてましたよ、話したこともあったんじゃないかな。よく図書室にいたでしょ馬場さん」

「ええ、まあ」


 よく図書室に居た、というよりかはそこくらいしか居場所がなかったが正しい。親の育児放棄が本格化してきて新しい服を買ってもらえなかったり、まともに食事してないのが目で見てもわかるようになってきた頃だろうか、クラスメイトから明らかに距離を取られることが増えた。そうと言っても体は大きかったし、この見た目なので虐められることはなかったが、居心地はよくなかったから、昼休みなどはよく逃げ場として使っていた。母親の彼氏にいたずらで殴られて怪我をしたからと体育の時間サボって図書室に居たこともあったか。正直読むのが好きだったわけじゃないから、見ている人がいなければ分厚い本を枕にして寝ていることが多かった気がする。


「うちの学校、体育休む時は図書室で過ごす、って謎ルールあったじゃないですか、おれはほとんど体育出られなかったのでよく居たんですよ。そもそも本は好きだったし、面白そうだった本は全部読んだんじゃないかな。委員会もずっと図書委員やってたし、それでよく顔は合わせてたんですよ。馬場さん当時から目立ってたから」

「……」

「……?」

「いや、ちょっと、困惑したというか」

「あまり、昔のことは思い出したくない?」

「……正直、まあ」

「……まあ、誰にでも触れられたくないことはありますもんね。でも立派だと思いますよ、ちゃんとこうやって働いててしかも役所勤めでしょ、片田舎では立派なもんです」

「……」


 この人は分かって言っている、昔の自分を。昔のみじめったらしかった、汚かった頃の自分を。やめてくれ、今まで”まともな大人”として生きてきたメッキを剥がそうとしてる。じゃなきゃこんな言い回し、しないだろう。


「大丈夫ですよ、特に誰かに言いふらしたいわけじゃないです」

「別に、そういうつもりじゃ」

「顔にやめてってかいてある」

「……」

「馬場さん気づいてないかもだけど結構表情に出てますよ。今日も困ってたでしょ……まあ、お仕事で関わる方々はあまり馬場さんの様子をじっくり見たりすることはないと思うから、気にしなくていい範囲だと思いますけど」

「なんか、ごめんなさい」

「すみません、こちらこそちょっと迂闊でしたね」

「別に浅間さんは悪くないですよ、ただちょっと、昔のことは」


 昔のことを思い出したくないわけじゃない。あのころの惨めな生活があったから、それから逃げ出して、結果今の自分があるのだから。だけど、昔の自分自身のことは思い出したくない。まともに風呂にも入れてもらえなくて、洗濯もしてもらえなくて、服のサイズもあっていなくて、不自然に痩せてて、ああ汚いガキだな。


「……多分どう見られてたのか、とか気にされてるんでしょうけど、小学生の頃のことなんてどうせみんな覚えてないですよ。特に自分のやったことなんて何にも覚えてない」

「そういうのは、別に」

「人間は自分が被害を受けたことしか覚えてないようにうまく出来てますから。加害して覚えていることがあるとしたら、やましさを元にした自己陶酔の材料です。結局自分のためです」

「……」

「少なくとも自分はそうです。そんなものですよ……」

「……浅間さんの言葉は難しすぎる」


 流石職業作家といったところか、絶妙にわかりやすくて難しい表現を口にする。口調こそは柔らかいのにどこか棘があって、怖かった。


「生きてる世界が違いますから、人間みんなそれぞれ。理解なんてしなくていいんですよきっと……少なくとも、おれから見た馬場さんはよく図書室にいるきれいなハーフの子ってくらいですよ。今ハーフって言わない方がいいんでしたっけ?」

「ハーフでいいです。オレはそういうのを気にする方がめんどくさいし。福祉の仕事でそんなこと言ったら怒られそうですが、本音と建前って大事じゃないですか」

「なんだ、理解してるじゃないですか。難しすぎるなんて言って」

「……言いたいのは、人間なんてそんなものだってことですか?」

「ええ」

「諦観できるのが羨ましいです。私は、いまだに諦められない」


 いまだに諦められない、こんなことを続けていても、平和になんてならないし、すべての人が安心して生活できる世界になんて絶対ならないんだと頭ではわかってはいるけれど、積み重ねれば何かがかわるかもしれないと、心の底で願ってしまっている。嫌いになれたらいいんだろうな、人間のこと。


「諦めてるんじゃないですよ、きっと拒絶に慣れすぎただけなんです。だから、唯一自分のことを大切にしてくれた両親のことは大切にしたいんですよ。せめて親孝行しないと、っていうのかな」

「……だから、施設に入れるの嫌なんですよね」


 今机の上に置いている書類の下に持ってきた施設の案内がある。今すぐ案内できるわけじゃないし、希望だけだして順番が回っても断っても大丈夫だからって、浅間さんのご両親のケアマネージャーにもらってきたものだ。見せてもどうせ断られるとわかってはいるけれど、仕事として持ってこないわけにもいかなかった。自分が彼にしてやれるのは残念ながらこれくらいしかない。

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