59話 君のことを知らず…②

 休日までも仕事をしているような仕事人間。それが周囲からの彼の印象だった。だから初めて彼が始業開始時刻を過ぎてから体調不良の連絡をしてきた時、職場の人間たちは本来はそれを責めるべきだろうに、雹でも降るのではないのかという心配の方が勝った。それに、ユキに対して、これっぽっちのことで非難するような人はこの部署には誰もいなかった。

 あまりにも心配になって、何回かかけてみたものの電話にも出ず、仕方ないと2,3回しか訪れたことのない部屋に向かった。まさか死んでるんじゃないかと不安になってしまったのは職業病だろう。


「彼女なんだもん、いいよね……」


 彼のプライベートに無断で踏み込むのは結構勇気がいるのだ。まるで触れないでほしいと言いたいかのように、詮索されるような話題になる前に話をそらされる。ご家族への挨拶をしたいと言った時は、あんな人会うだけ無駄だ。と言い捨てられた。お陰で仕事じゃない時間も仕事の話ばかりしている、それはそれで楽しいのだが。


「……」


 マンション玄関のインターホンを押してもなんの反応もない。確かここに挿せばいいんだよな、と合鍵を鍵穴に入れるとオートロックの扉が開いたのでちょっと安心した。ボロアパートに住んでいるとこういった建物は縁がない。


「ユキー、生きてる?」


 部屋前のインターホンに呼び掛けてもまたも反応なし。恐る恐る鍵を開けて部屋に入るとカーテンも開けずに真っ暗で空気が淀んでいた。相変わらず殺風景だなと足を踏み入れると、違和感があった。流し台には夥しい量の空になった缶ハイボールが並んでいて、いくら人よりだいぶ酒に強いと言っても一晩で飲んでいい量じゃないことは素人でもわかる。居室に向かうとベッドのぐちゃぐちゃになった布団の上に当の本人はうつ伏せに埋もれていた。


「ユキ、大丈夫?」

「……」


 肩を揺すると目が覚めたらしい。明らかに機嫌が悪そうで、体調の方も心配だけれどなにかあったとしか思えなくなる。


「……いつきた?」

「さっき」

「そう……」


 よく見ると服装は昨日退勤した時と全く同じ格好で、そのまま呑んで倒れ込んだとしか思えない。声をかけても全くこっちに興味もなさそうで、いつものユキと全然違うものだから、どう接すればいいのか分からない。


「大丈夫?どれだけ呑んだの?」

「…………どうでもいいでしょ」

「よくないよ。二日酔いでしょ?まだ抜けてない?」

「……うるさいなぁ」


 今まで何回か飲み会だってしてて、お酒を入れるとちょっとダウナーになるってことは知ってたけれど、ここまではあまりにも酷すぎる。まだ酔っているのか、それとも二日酔いで気持ち悪くなっているのかすら分からないが、どうしたのと聞いてもこのままだと多分取り合ってもらえない。仕方なくシンクにたまった缶をゆすいで、捨てながら落ち着くのを待つしかなかった。


「……お腹空いてない?」

「……」

「なにか食べる?買ってくるけど」


 相変わらず醤油とか最低限のものしか入っていない冷蔵庫を開ける。ユキは冷蔵庫のことなんだと思っているのだろう。これじゃ何も作れないな。ふと、空いた段ボールがあったのでよく見たら飲んだお酒と同じ銘柄のものだった。買いだめしていた分全部飲んだってことだろう。


「いらない」

「まだ吐き気する?」

「……少しは」

「薬は?ある?」

「ない」

「……こんなに飲んだの、初めてでしょ」

「……普段からこんなに飲むわけない」


 声色に怒りが混ざったような気がした。そもそも、ユキが怒っているところすら見たことがないのだけれど。


「何かあったなら言ったほうが楽になるんじゃない?右から左に聞き流すから」


 なにをそんなに隠しているのか、聞いてないよと言ってあげないとこの人はなにも教えてくれない。別になにを言われても……そもそも変に期待なんてするほうが悪いのだ。勝手に崇めて、人を神様扱いして……。私はユキに神様になんてなってほしくなかった。


「……親が、うちに来た」

「……」

「どっから聞きつけたんだろ。安曇の市役所に勤めてることは流石に知られてたけど。一人暮らししてからも何度か引っ越してるのに」

「……」

「結局金の無心だったよ。お母さん困ってるの~って」


 ユキが母親のことを嫌っているのは、挨拶する必要なんてない、という言葉でなんとなく感じていた。だから以降話題にはしていない。


「……言って楽になるなら、話してよ」

「…………げんめつしない?」

「ユキとこのまま一緒に生きてくなら、私はちゃんとユキのことを知りたい」


 幻滅なんてしないよ。それに、これからずっと一緒に生活していくというのに、彼のことを知らないでいるというのはどこかできっと破綻する。それなら、もう知っていてしまった方が私だって覚悟できる。人間には誰だって大なり小なり抱えているものがあるのだ。私だってそうなのだから。


「……昔からだよ。あの女、オレのことを金づるとしか思ってない。何が困ってるだよ、どうせホストと遊んでただけだろ。男遊びにしか興味のないくそ女が」


 私が想像していたのは、母親と何かで揉めた、とかそんなレベルだったけれど、実際はそんなもんじゃ全然なかった。


「名前も顔も全く知らないオレの父親からさ、慰謝料と養育費巻き上げて暮らしてさ。定職にもつかないで、昼間から酒を飲んでいるか男漁りして。オレがいないとその金すら手に入らないのに、あの女に親っぽいことしてもらったことなんて一切ない。飯なんて作ってもらったこともなければ、給食費だって払ってもらったことがない。毎晩500円握らされてそれで食えって言われて、コンビニの飯しか食べたことがない。ちゃんと払わなきゃいけないお金を払わないと母親が学校に怒られるからって、子供なりに考えてさ、おつりを貯めだして。おにぎり一つで我慢するようになって、それが見つかったら全部持っていかれた。何に使ったと思う?その金で付き合ってる彼氏にプレゼント買ってたよ。笑うよな。それ以来100円しか渡されないようになって。そんなんで足りるわけがなくて、倒れて、その時付き合ってたあの女の彼氏が学校に迎えにきて、お前の母ちゃん最低だなって言われるまで……そんなこと思ったことなんてなかった」


 今でこそ、児童相談所案件になるが、私たちの小さい頃は殴る蹴るだけが虐待だった。だから、誰も助けてくれなかったのは想像に難くなかった。ハーフだから、親が遊び歩いてるから、いつもボロボロの服を着ているから、そうやってみんな遠巻きに嫌悪して、誰も。


「そいつもさぁ、金目的だったんだよ。だからオレが倒れて親に迷惑かけたって言った時にドンびいてた。あんなクソ母ちゃんにそんなこと思ってんのって。その時初めて知ったよ、世の中の男女は好き同士で付き合ってるとは限らなくて、別に子供は親のこと好きでいなくたっていいんだって」

「……」

「……よくさ、親から子に向けられるのは無償の愛。なんていうけど、実際は逆だよな。いまだにあいつはそれを勘違いしてオレのことを愛してやってるつもりなんだろ。だから平気でそんなことができるんだ。自分が愛してやっているから嫌われているわけなんてない、って。こっちの気持ちも、人生もめちゃくちゃにして!」

「……ユキ、嫌いでいいんだよ」

「……嫌いだよ、とっくの昔にあんな、あんなクソ女嫌いだよ!」

「それでいいよ。ユキは悪くない」


 何を言ってあげたら良いのか、わからなかった。それでもなにか、言っておかないと私が辛かった。


「思い出したくもない、はやく忘れたい。忘れたいからずっと仕事ばっかりやって、逃げるように生活してるのに。なんで追っかけてくるんだよ。最悪」

「うん」

「忘れたくても、ボケっとするとあいつの顔が浮かぶし。寝るとたまにまだ夢に出てくるし。もう家を出て15年近くなるのに、いまだにアイツのせいでどうしたらいいのかわからない。服を選んでてもまともな服買ってもらえなくて、ずっと合わないサイズの服着せられてたのを思い出すし、飯を食べててもこんなもの親に食べさせてもらったことないって思うし、家にものがあると汚かった実家を思い出す。何しててもアイツの顔がちらついて、劣等感で潰れそうになる。まともな親元で生まれてたら、そんなこと絶対気にしなくていいだろ。なんでこんなこともわからないんだろう、できないんだろうって、そうするとあいつが出てくるんだよ。あんなやつの元に生まれたから、なにをしてもオレはだめで、だからずっと仕事ばかりやって、そしたら仕事以外のこと何をしたらいいのか全然わからなくなって、もうこんな歳だよ」

「ユキが頑張ってるから、助かってる人たくさんいるよ」

「……」


 仕事が好きで一生懸命だったわけじゃないのだ。それしか居場所がなかったから、それをするしかなかっただけ。土日に自主的に仕事をしてたのも、ずっとそうしてないと辛かったから。


「…………嫌でしょ。こんな男。仕事も別に、カオリちゃんみたいに理想があってやってるわけじゃない。ごめん」

「いやじゃないし、そんなこと気にしてたの?」

「……」

「ユキがどんなに自分のこと嫌いでも、私はユキのこと好きだよ」

「なんで」


 なんで、なんて言われると困っちゃうな。好きになってしまったからとしか言いようがない。


「まず顔が好き。変に勘違いしてないところが好き。ちゃんと考えて行動できるところが好き。自分勝手じゃないところが好きだし、責任感があるところが好き。なにより優しいところが好き」


 正直に言ってしまえば、一目ぼれだったと思う。異動してきたとき、こんなイケメンと同じ職場になれるなんて、なんて自分はついているんだろうって舞い上がった。顔だけに限ってしまえば好きな俳優たちのほうが整ってはいるけれど、どんどん馬場幸哉という一人の人間に惹かれてしまったのだ。画面の向こうの理想じゃなくて、目の前の生身の現実として。


「オレのどこが優しいの。最低だよ、こんなのだし」

「私が優しいと思ったから、それでいいの」

「……」

「言いたくないこと言わせてごめんね……ありがと、話してくれて」

「きもちわるいでしょ」

「ユキが誰から生まれてようと、ユキはユキだよ」

「……ごめん」

「言わせてるとか思ってる?気にしないでって言っても気にするんだろうけど、これが本心だから」


 ベッドに腰かけて、ユキの頭に手を当てる。想像よりもちくちくとしてくすぐったかった。普段は見えないところに、少しだけ染め忘れた金髪が見えていた。仕事の関係上、地毛だとやりづらいところがあるから染めている、って言ってたけれどきっとそれは半分だけ正解で、彼は自分の血縁を想起させるものを全部嫌悪していたのがもう半分の正解なのかと、私はその時気がついた。


「……風呂入ってないから触らないで欲しいんだけど……」

「ほんと気にしてるんだ」

「気にするよ、気にするでしょ…………」


 きっと彼は自分のことが嫌いなのだ。嫌いだから、汚いところを見せるのが怖くて、弱いところを見せるのが怖いのだろう。働いている時の”ユキさん”としての姿しか、彼は自分のことが認められないのだ。


「そっか。ごめん」

「……」


 しっかりした頼りになる人だなと思っていた。けれど、実際は背中だけが広くなってしまった子供だったのかもしれない。私だってそうだ、まともな大人になんて一生なれやしない。そんなもの、どこにいるのだろう。


「ねえ、ユキ」

「……なに」

「ここにいてくれてありがとう」

「……」

「一緒に幸せになろう」

「なんで、そんなやさしいの」

「優しいかなぁ。私が言いたいから言ってるだけだよ」

「……オレの母親も、カオリちゃんほどまでは行かなくても、もう少し優しかったらよかったのに」


 ぼそり、と小声で零した声はきっと本心だったのだろう。


「大丈夫。私たちの子供の母親は、私だけだよ……」

「ごめん、ありがとう」


 貴方がどんなに自分が嫌いだろうと、自分から幸せから逃げようとしても、手放してやるつもりはない。この人の優しさも、欠陥も、すべて愛おしいのだ。全て。どんなに錆びてしまった鋼の心臓だって、腐敗した燕の死体だって、手放してやるつもりなんて毛頭ない。


 これがきっと、人を愛するということなのだろうか。

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