52話 甘美な猛毒を…①

「終活かぁ」


 朝にやっている情報番組の特集。父をデイサービスに送り出したあと、遅めの朝食を取りながらボケっとテレビを見るのが日課だった。母はベッドから少しだけ動いて音がなる箱に目を向けている。外部刺激があったほうがいいだろうと、寝ている時間はテレビをつけっぱなしにしているのだが、なんだか刺されているようで気分がいいものではない。


『お子さんなどとちゃんと、死後のことを話し合って……』


 うちの親はそんなことをする前にボケてしまったなぁ。と眠い頭で思う。けれど、まあおれがいるからいいか。理想の老後では決してないだろうけれど、誰にも情を持たれずに朽ちていくよりはマシだと思いたい。というか、マシでないとおれが報われない。結局のところやっていることは、親という生き物が子を作って養育するエゴの逆バージョンだ。父親はまだある程度の分別はつくものの、まあ母親に関してはもはや最後に会話が成り立ったのが2年くらい前だ。医者に急激にボケは酷くなる、と説明されていたが本当にそうだったなと改めて思いなおす。


『理想の葬儀の有り方などを……』


 ああ、何だか今日は虫の居所が悪い。食卓の上のビンに手を伸ばして角砂糖を3つほど取って、さっき淹れたインスタントコーヒーに落とす。ぴちゃぴちゃ、と茶色い液体が跳ねてテーブルにかけている透明なシートの上に丸くなった。もうすでにぬるくなった6枚切りのトーストをかじりながら一息つく。折角焼いたのに湯気で湿気り始めていてあまりおいしくない。


「おれも死ぬ準備、しとかないとなぁ」


 正直なことを言ってしまえば、この歳まで生きているつもりなど全くなかったのだ。入院していたころは明日を迎えることで精一杯だったし、15歳くらいの時はこのまま快楽に突き動かされて死ぬのだろうと思っていたのだが、まあ人生何があるかわからないものである。ここまで生きてしまえば、せめて両親を看取るくらいまでは生きないといけないなという、一種の諦めと希望が混じったような薄暗くて生ぬるい日常があって、ただまあなにもすがるものがないよりは随分とマシだ。ここで、両親がおれの意識を引っ張っていてくれなければ、どういう醜い生き物になっていたのか想像もしたくない。情というものは良くも悪くもあるものだ。


 昔から両親はおれに甘かった。丈夫に産んでやれなかったという罪悪感なのか、それとも待望の男の子だったからか……多分どちらもだろう。おれという存在は、おれの意志も全く関係なく両親を呪い続けている。

 物語が好きだった。人間というのは物語る生き物である。人生というのは一つの物語であって、誰もが主人公でありそれでいて誰かの物語の脇役だ。……というのが人間の好む定説であるが、残念ながら人生はそんな甘くドラマチックなものじゃない。幸福も不幸も、無から突然生まれる偶然によるものがほとんどで、その無から有があっという間に生まれてくることに多くの人間は耐えられないから、ものを語るのだ。偶然を必然だと無理やり人生の物語にこじつけて、それに慰められたいだけなのだ。それは一種の安らぎでもあるが呪いでもある。束縛を嫌がりながら別の束縛を求め、安心感を得たいというのが人間の性なのだから。結局のところ、おれもその一人だ。両親を呪いながら、その甘い蜜を吸っている。生きててもいいのだという大義名分という名前の甘い蜜を。


 服の上から心臓の傷口をなぞる。最初に傷がついたのは、抗生物質の投与で心臓の穴の炎症が治った後、その穴を塞ぐ手術をした時。その手術が成功して、退院の話が出た頃彼女は亡くなった。


 二回目は、彼女に首を絞められたことで、死にかけるような状態にしか興奮しないようになった頃。まさに思春期真っ盛りであろうという時期に周囲の同級生たちの下の話題にまったくついていけなかった。お前はどういうのがエロいと思う?なんて振られて、前日の晩にテレビでやったサスペンスドラマの殺人シーンで勃ったなんて言えるわけなかった。ふと不安になって当時仲が良かった友達に相談したら、お前男が好きなんじゃないの?なんて茶化されて、冗談でもそんなの本当に気持ち悪くて、友人の頬をひっぱたいた。こっちは真剣に困ってるのに、まだ男に興奮できる方がまだ良かったよと叫びたかった。グロテスクなものが好きなのかと思ったけれど、別にリストカットの写真を見てもやってみたいとは一切思わなかったし、普通にグロいなと思っただけで興奮したような感覚は一切なかった。気が付けば深夜に一人でずっと映画の人が死ぬシーンばかり見ては、こうなってしまいたいという欲ばかりが募っていった。自分の喉元にカッターを突き立てるのが気持ちよかった。あれだけ苦しいと思っていた発作すらも、苦しくなれば苦しくなるほどおかしくなってしまえそうで気持ちがよかった。呼吸が落ち着いたころにふと違和感を感じると下着がぐちゃぐちゃに濡れていた。あーあ、もうなにもかもおしまいだ。

 まだそんなものじゃ足りない。もっと直接的に死ぬようなものじゃないと、自分自身で行う首絞めも、ODもそうそう簡単に死ぬことはできない。何ならおれはもっと気持ちよくなれる?


 だから心臓を取り出そうとした。手術痕の上からカッターでざくりと骨まで切りつけて、ぐちぐちと胸元の筋肉を弄り、痛みに耐えながら少しずつ肉の中に指を押し進めた。冷静になってみれば、肋骨を折らないと取り出すことなんてできないのだけれど、当時の自分にはそんな知識もなく、冷静でもなかった。あるのはただ死を感じたいという欲望だけだった。


「なにやってるの!?」


 痛さにのたうち回っていた音が母親に聞こえて、扉を開けて母親が制止に入ってきた。おれの真っ赤に染まった胸元と、右手を見て悲鳴を上げながらも、自分が汚れるのも構わず抱きしめてくれた。


「そんなになるまで追い詰めてごめんね……ごめんね……丈夫に産んであげられなくてごめん……」

「ち、ちが……ごめんな……さ……ごめ……」


 違うんだよ。母さんは何も悪くないんだ。自分がおかしいから、こんなものでしか興奮できないから。違うんだよ、死にたいわけじゃないんだよ。母さんの泣いている顔を見て、親を泣かせたくてこんなことしてるんじゃないのにと後悔した。なんで自分は母親を悲しませるようなことばかりしてしまうんだろう。

 汚れてもいいシャツを着せられて、空いている左手で傷口にタオルを押し当てて、父さんが急いでエンジンをかけてくれた車に乗り込んだ。廊下で姉とすれちがった、まるで化物をものを見るような目でこちらを観ていた。病院に着くまでの間母さんがお湯で濡らしたタオルで血まみれになった腕を拭いてくれた。爪の間に入ってしまった血だけは拭ききれなくて、指との境目に赤い線が残った。


「痛いでしょう?もう少し我慢してね」

「……うん、ごめ……」


 少しずつ正気に戻るにつれて、ズキズキと痛みが響いてきた。普段全く汗なんてかかないのに、脂汗が止まらなくて、暑いのに寒気がして少しずつ気が遠くなった。こんな時に息苦しさが出てきて、吸ってるのか、吐いてるのかわからなくなった。診察室をすっ飛ばされて、処置室につれて行かれた。医者と親が何かを話していたけれど、何を言っていたのか理解できなかった。傷口を抑えていたタオルは、半分以上鮮血で染まっていた。

 目が覚めると、病室のベッドの上だった。朦朧とする意識の中、最後に腕にチクリとした感覚があったので、きっと麻酔でも打たれていたのだろう。恐る恐る胸元に手を当てると、血は綺麗に止まっていた。上体を起こそうとすると痛みが走ったので、誰かがくるまで横になって耐えることにした。しばらくして、看護師さんが声をかけてくれた。


「何か……辛いことととか、大変なことでもあったかな?」

「特に……なにもない、です……」


 食事をとって、しばらくして医者が問診にきた。ああ、自傷行為かなにかだと思われている。多分見る人からしたら同じものに見えるのだろうけれど、そんなつもりは全くなかった。ただ、気持ち良くなりたくて死にかけたかっただけ。けれど、そんなこと言ったら今度は性的倒錯を抱えている人間だと思われてしまう。自傷にしろ倒錯にしろ、どっちにしろ下るのは精神障害者の診断だ。そればっかりは嫌だった。偏見だと非難されそうだが、それでもこれ以上両親に迷惑をかけるのはごめんだった。体だけじゃなくて、心まで病気なんて言われたら、おれはどう生きたらいいんだ。


「ただ、ちょっと、心臓のほうが痛くて、変な感じがして……」

「そうだったのかい?……本当だ、心室中隔欠損か、5年前手術したばかりなんだね?」

「たまにそういうことがあって……気持ち悪くて……」

「じゃあ念のため心臓の検査もしようか。傷の方は痛い?」


 どうやらうまくごまかせたらしかった。どうか、自分が異常者なことだけは両親にバレたくなかった。その後、鬱と社会不安性障害のチェックシートを受けさせられた。どうかひっかからないようにと健常者のふりをして答えたら、どうやら正解だったらしい。一時的な気の迷い、高熱と喘息発作による錯乱状態で起こした奇行、ということで片付いて何事もなかったかのように退院した。


 なぜかみんな、おれを死にたい人だと定義したがる。かわいそうな人、苦しんでいる人、辛いでしょう?って。いくら自分が今の生活でいいと言っても、なぜか誰も納得してくれない。正直姉さんが出て行ってからは自分は随分と気楽だった。いろいろ小さいことはあったにせよ、帰ってくると姉がいる生活よりは何倍もマシだった。あの人はいつもおれの選択を尊重してくれないから、嫌なことがあると癇癪を起こして暴力に頼るから。

 姉からも、自分のことを弱者と定義したがる人たちからも逃げたくて、少しでもまともな人間になろうと努力した。ただ、それが難しくて、ぐちゃぐちゃになった気持ちは全部文章という形を持ってしまった。

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