月読(つきよ)の輪廻-原題「雑木林でかぐや姫を拾ったら大変なことに」-
新井荒太
第一夜 かぐや姫、雑木林より現る①
こんな雑木林の中に、なぜ幼女が・・
ここは自宅マンションの近くにある雑木林の中の抜け道である。県立青南高校二年生の
そこでよく使うのが、このショートカットの抜け道である。健造が住むマンションは、多摩丘陵の外れに位置している。宅地造成が進んでいるものの、周囲には開発を免れたクヌギやコナラなどの広葉樹林や竹林が残っている。その林の中を突っ切って市道に出る抜け道があるのだ。道と言っても、木々の合間を人ひとりがようやく通れる幅しかない。おそらく、丘の中に分け入るのに植林を免れたわずかな空きスペースなのだろう。
地権者の了解があって、昼間は地元の人だけが通行する。しかし、夜は暗くて人家の灯りや街灯の照り返しだけが頼りの淋しい道である。とっくに人通りが途絶えているのだが、迂回するのは面倒なので、コンビニへの行き帰り、健造はこの細い抜け道をよく使っている。
その晩は月が明るく気温が高いので、夜の散歩を楽しむには絶好のコンディションだ。いつものようにコンビニで週刊誌を立ち読みし、翌朝の朝食用にパンやヨーグルトを購入した帰りのことである。突っ切ってしまえば二分とかからない、そんなけもの道もどきを通っていると、がさりと何かが木の葉を踏むような音がした。はっとして、目を林の中に転じると一瞬、黒いかたまりのような影が静かに揺れるように動いた。
健造は、ざわっと身震いをした。リスかネズミのような小動物にしては、影が大きすぎる。音のする方へ一歩踏み出し、改めてしっかりと視線を向けた。黒い影は、逃げる様子もなく、その場所に佇んでいた。さらに一歩、大きく踏み出す。薄明かりに浮かぶ、そのシルエットは、紛れもなく人間の子どもであった。
迷子・・・!?
まず脳裏に浮かんだのは、この子を保護しなくてはいけないという使命感である。親とはぐれて迷い込んだか、あるいは・・考えたくないが人目の付かないところに置き去りにされたのか。
木々の中を分け入り、子どもに近付く。子どもは怖がる様子もなく、ただじっとその様子を窺っていた。
健造は、子どもに近寄り改めてその姿を見た。自分の腰の高さほどもない幼子。まだ二、三歳だろうか。ぽっちゃりと膨らんだ頬に、黒々とした瞳が輝いて見える。近付いてみて、顔立ちから、はっきりと女の子だと分かった。黒髪はまだ肩に達していないがきれいに整えられている。見慣れない銀色の光沢のジャケットに、黒色のズボンがタイツのようにぴったりと脚に密着している。
「こんばんは」
とりあえず、声をかけてみる。健造は腰を下ろして、目線を子どもに合わせた。
「きみ、ひとりなの?」
子どもは、きょとんとした表情を浮かべるだけである。
「おかあさんは、いるのかな?」
返事がないところを見ると、まだ言葉をしゃべれないのだろう。しかし、一人でいるのに泣く様子も見せない。両親とはぐれて、探しているうちに林の中に迷い込んでしまったのか? 状況が理解できていないのだろうか?
健造は、そのほうがいいと思った。子どもが迷い込むにしては、ひと気のあるところから遠くて、わざと置き去りにされたと考えるのが素直な状況だからだ。
健造は、子どもの手を握った。とにかく保護しなくてはならないと思って、ここから連れ出すことにした。
林を抜け、市道を歩きながら、健造はこれまでの情報の整理と対応策を考えていた。子どもは無論警察に送り届ける。しかし、警察へはなんと申し開きすべきか。林の中に子どもが立っていました。周囲に人影はなく、身の回りにも目視できる範囲に遺留品はありませんでした、というような、この都市近郊の住宅地で通常はあり得ない状況を事細かく説得的に話すのは大変だろうと思った。
ひょっとすると、自分も疑われるかもしれない。そう思うと、なぜこんな面倒事を背負(しょ)いこんだ後悔の念がよぎる。
健造は、子どもの様子をちらりと見た。親とはぐれてどんなにか心細かろうに、健造のことを人見知りもせずに、健気に付き従って歩いている。事情が理解できないとしても、さすがに親が近くにいないのは心細かろう。健造は、いたたまれなくなって子どもをひょいと抱き上げた。ちょうど健造の胸に収まるくらいの大きさだ。
「よし、よし。もう大丈夫だからな」
思わず、そう呟いていた。この子をなんとかしなくちゃ・・ 先ほどの後悔を否定するように、健造は改めて強く決心した。
健造はいったん自宅に戻ることにした。事情を説明し理解を得るのに、相当時間がかかるだろう。また、交番は最寄駅前にあり、健造の家から歩いて二十分はかかる。自宅に立ち寄っても、さほど遠回りにならない。いかにも怪しいと自白するような、トレーナーにジャージのズボンといういでたちを改めねばならない。身分を証明するIDとして、学生証も持っていこう。
健造は、子どもを抱きかかえて、足早に自宅への道を急いだ。
マンションの自宅に入り鍵をかけ、子どもの靴を脱がせると、多少落ち着いて状況を整理する余裕が生まれた。
健造の住むマンションは、農地を整理して切り開かれた住宅地の外れにあった。周辺はぽつりぽつりと戸建て住宅が散在するような寂しい区画に位置し、部屋から見るとすぐ近くには果樹園が広がるのどかな場所であった。その分、2DKの間取りの割に家賃は安く、高校生の下宿先としては相当恵まれた住環境であった。
買い物袋を食卓に置き、部屋に入って着替えようとすると、「うー、う~」と言いながら子どもが袖口を掴んで引いた。言葉にならないが、買い物袋の中身が気になるらしい。お腹がすいているのか。警察に行くと時間がかかるだろうし、なにか食べさせないと。
健造は、子どもを抱きかかえて洗面所で手を洗った。食卓の椅子は落ちそうなので、フロアに新聞紙をひいて座らせた。そして、朝食用に買ってきたサンドイッチとおにぎりを皿に載せて、小さめのグラスに注いだオレンジジュースと一緒に子どもの前に置いた。よほど空腹だったらしく、子どもは夢中になって小さな手でつかんだパンを勢いよく口の中に運んで頬張っていた。いまにも落ちそうなほっぺの肉が、さらに丸く膨らんでいた。
「かわいいよな・・」
健造は、その姿に見とれながら、子どもの頬についたバターとご飯粒をティッシュで拭き取ってやった。親とはぐれたのにぐずりもしない様子が、たまらなく健気で愛しく思えた。これが保護者になるって感覚かと、一瞬、自分が子持ちになった気がした。
食べ終わったところで、健造は浴室に行っていつもより少なめにお湯を張った。長い時間、外にいたのか、服には土ぼこりがついていたし、さっき洗った手も食べ物でべとべとになっていた。警察に行けば、今日はそのまま泊まりだろう。そう思うと、せめてお湯に浸かって体をきれいにしてやりたい。捨て子かもしれないという、この子の身上を思うと、警察に預ける前にできるだけのことをしておいてやりたいという気持ちが湧いてくる。
健造は子どもを抱きかかえて、浴室に連れて行った。脱衣所で子どもを下ろして、
「さあ、お風呂だよ。わかるね? 服をここに脱いで、ひとりではいれるかな」
子どもは言ったことを理解したらしく、自分で上着に手をかけた。銀色のジャケットはファスナーがついていなかったが、襟の部分を引っ張ると、緩んで首から脱ぐことが出来た。ズボンも同様に腰の部分を引っ張ると、ウエストに
「ちゃんと湯船に浸かれるのかな」と不安がよぎり、しばらく扉の前に佇んでいた。ぽちゃりと飛沫が跳ねたり、お湯がざーっと流れる音もしない。無音の状態が続いていた。健造は、そろりと引き戸を横に開けて中の様子を窺った。案の定、子どもは浴室の腰かけの上に立ち、バスタブにしがみついたまま中に入れないでいた。
「ごめん、ごめん。やっぱりちょっと無理だったよな」
健造が浴室に入ると、子どもはびっくりしたようにその場にしゃがみこんで小さく屈んだ。何か、恥ずかしがっているような、そんな反応だ。健造は子どもの
健造は、心地よさげにお湯に浸かる子どもを見て、ようやくほっと和んだ気がした。孤独に耐えていたこの子を見ていると、せめて清潔にして空腹を満たしてやりたかった。
「お父さんか、お母さんか、早く見つかるといいよな」
健造が語り掛けると、子どもはそっと振り向いて、健造の顔を見上げた。健造は、小さく笑いかけた。そして、子どもの両腋をかかえ浴槽から上がるのを手伝った。
健造は、子どもを腰掛けに座らせ、手際良くシャンプーで頭を洗い、片手で子どもの目を覆いながら、頭からシャワーをかけた。そのあと、スポンジにボディーソープをかけて、背中をこすった。それにしても真っ白で瑞々(みずみず)しい肌だ。軟らかいスポンジ越しでも、その弾力が伝わってくるようだ。
浴室から出ると、健造は頭からバスタオルを被せて、丹念に水滴を拭き取った。子どもは頬を紅潮させて、抗力を失い最早、健造のなすがままであった。ドライヤーで頭を乾かし、ふらふらする子どもを抱きかかえて、健造は寝室にクッションを2枚並べてその上に寝かしつけた。よほど疲れていたのだろうか、子どもは横にするとそのまま目を開けることなく、すやすやと寝息をたてた。
子どもはこのまま寝かしておいて、あとで抱っこして連れて行けばいい。その間に、身支度を整えようと健造が立ち上がった矢先、玄関の呼出し鈴が鳴動した。こんな夜更けに誰だろう。まさか警察かと訝(いぶか)ったものの、出ないわけにはいかないと思い、健造は玄関のドアを半開きした。
「すみません・・」
外にいたのは二十代中ごろほどの若い女だった。細面で顔色は病的なほど白く、細い眉をしていた。目は細長く切れていて、長さが揃ったまつ毛がくっきりとその形を印象付けていた。ただ、身に付けていた服装は、薄手の黒のカーディガンに黒のロングスカート、そして足元も黒いヒールを履いており、年齢とは不釣り合いな、落ち着いた、というよりどちらかというと
「夜分に、すみません・・わたし、迷子の子どもを探しておりまして・・」
その言葉を聞いて、健造は冷静に身構えた。まず、この女。子どもの母親にしては若く、到底子どもを連れている風には見えない。子連れの母親であれば、普通、替えの下着、濡れティッシュ、マグカップなど、バッグに入れて子ども用品を持ち歩くはずだが、この女は手ぶらだ。それよりも、なぜ健造が子どもを連れて家にいることを知っているのだろうか。近所中を聞き回っているようには見えず、ピンポイントでこの家にやって来たような様子だ。とすると、健造らが家に入ったのを偶然見ていた。あるいは尾行して付けて来たのか。
とっさにそんなことを考えながら、健造は自己の警戒レベルを最大限に引き上げながら、まずは相手の素情を知らなくてはと思い、人の良さそうな体を装いながら訊ねた。
「あの・・どちらさまですか、ね?」
女は冷静に、「近所のものです」とだけ述べた。普通、姓くらいは名乗るだろうと思ったが、ここは努めて冷静を装い、
「そうですか・・男の子ですか? 女の子ですか?」
「女の子です」
「いくつくらいの?」
「まだ乳児でようやく歩ける程度です」
年齢も明確でなく、この女に子どもを返すのは危険である気がした。そもそも母親であれば、なぜあんなひと気のない雑木林に小さい子を放置したのか。いったん捨てた子をなぜわざわざ後をつけて回収しに来たのか、
「あの、実は女の子の迷子を預かってまして、これから警察に届けるところなんです。なので、交番に一緒に付き合ってもらえますか?」
そう言って健造は、中で眠る子どもを連れてくるため、いったんドアを閉め女を外で待たせようとした。
「う~」 寝言なのか、部屋の中から子どものうめくような声がかすかに聞こえた。
バッタン!!
次の瞬間、女の手がドアを軽々となぎ払うようにこじ開けた。その衝撃で、ドアノブと壁が激突する鈍い衝撃音が鳴り響いた。
「なっ!?」
無表情だった女の顔の眼球が発光し、瞳の中に
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