第26話 巣立ち

 網野は玲が取り返しのつかないことをしたのではないとわかると胸を撫で下ろした。それと同時にモップを握る手を緩めてしまっていたことを思い出したが、改めてこの男を攻撃する必要はなさそうだった。


 浦田は硬直したまま、ただ玲だけを見ている。


「玲……お前……」


 言葉が出てこない。浦田はただ玲の名前を繰り返し呼び続けるだけだった。


 やがて催眠班が研究室の前に集まってくる。彼らは目の前の光景に驚愕していた。倒れている飼育員に班員たち。網野光来に馬乗りをされている会長の姿。そしてスタンガンを片手に仁王立ちをしている玲。


「か、会長これは?」


 催眠班班長の問いに浦田ではなく玲が答える。


「君たちも今から僕が言うことをよく聞いておくといいよ」


 玲はスタンガンをポケットにしまい、班員の上に重なった飼育員の上に腰を掛けた。


「浦田兄さん。光来に奇襲をリークしたのは僕だよ」

「……は?」


 浦田だけでなく、催眠班も同様の反応を見せる。


「どうしてだ? お前のための計画だぞ? どうしてお前が裏切る?」

「まあ、形としては裏切るって感じになっちゃってるんだけど。僕今までに一回でも人魚を恨んでいるような発言をしたっけ?」

「……それは」


 浦田が言葉に詰まる。


 玲は座ったまま右脚の裾を捲り上げた。その脚を見て、網野はぎょっとする。何も喋ることができなかった。ただただ恐怖感だけが網野の体を震わせた。


「光来に見せるのは初めてだよね」


 網野の様子とは打って変わって、玲は冷静だった。その脚と何年も連れ添った貫禄が現れていたのだ。


「僕が人魚に噛まれた日、傷口から人魚のDNAが入り込んだ。それから人魚化が進行してる」

「お前はその脚で、何人もの海王会の人間を束ねてきた。この醜い脚を忘れるな、と。それが、それがお前にとっての人魚を恨む発言じゃないのか!」


 網野の下で浦田が唾を飛ばす。あれだけモップで擦ったのに、凄まじい肉体だ。


「何を言ってるんだよ。いつもいつも、僕の脚を見せつけているのは浦田兄さんだろ。心配してくれてるのは感謝してるよ。でも、勝手に僕が人魚を恨んでるだなんて勘違いしたのは浦田兄さんたちだ。母さんだってそうだ。いつ僕が人魚のことを嫌いって言ったよ。……僕は、人魚が大好きだ!」

「……玲」

「ティナ、にんぎょ、すき」


 網野に続いて、ティナも口を開く。人魚が好きだと言ってもらえて嬉しそうな様子だった。


 しかし、浦田は「嘘だ」と拳で床を何度も叩いていた。


「お前は、脳まで人魚に支配されてしまったんだ。ああ可哀想に! 絶対に、俺たちが助けてやるからな」


 上体を起こそうとする浦田を再び網野はモップで押さえつける。


「くそ、どうしてこんな奴に! ……催眠班! 玲を捕らえろ!」

「しかし……」


 催眠班員は浦田の指示を飲めていないようだった。玲は挑戦的な顔で彼らを見る。


「できないんだろ。僕は先導者だもんね。組織の頂点に裏切られたら、下っ端はどうすればいいかわからなくなるよね。わかるわかる」

「いいから、やれ!」

「り、了解」


 催眠班員が渋々了承するが、それでもなお玲は挑発をやめなかった。


「本当にやっていいのか! よく考えてみてよ。公安という肩書きの会長が、網野光来という研究者の下敷きだ。あのボスに返り討ちにされる未来が君たちには見えないのかい?」

「う、うう」


 浦田が公安の人間だって? 網野は玲の言葉を聞いて、初めてその事実を知った。公安となると警察の中でもエリート中のエリート。さして運動もできない自分になぜこうも劣勢なのだろうか、と網野は疑問に思ってしまう。いやしかし、理由はどうであれ優勢なら問題はない。今は目の前のことに集中するべきだ。


「それにこいつらを連れて帰るだけで、十分手負いだろ?」


 と、玲は床で伸びている人たちを指し示す。それに浦田や催眠班は狼狽える。間違いなく今この場は玲の独壇場だった。


「撤退だ。降参するから解放してくれ」


 浦田が両手をあげる。ようやく諦めてくれたか、と網野も彼から降りて立ち上がる。


 網野から解放された浦田は机を支えにしながら起き上がり、玲に近づくと、


「お前も撤退だ。さあ帰るぞ」


 と、彼の手を引っ張るが、当然玲はそれを拒んだ。


「嫌だ!」

「大丈夫だ。どれだけお前が人魚に侵されようと、俺たちはお前を見捨てない。必ず救ってやるから」

「嫌だ。浦田兄さんたちに僕は救えない!」

「落ち着くんだ。大丈夫だから!」


 浦田は暴れる玲を抱き上げ、研究室を出ようとする。しかし玲の抵抗も止まらない。玲は自分の上半身が浦田の背中側に回っていたことを良いことに、勢いをつけたチョップを浦田の頸に打ち込んだ。


「ぐ、この!」


 痛みに耐えながらも、バランスを崩した浦田は抱えていた玲を床に投げ飛ばす。ビニールの床に叩きつけられた玲のポケットから反動でスタンガンが飛び出た。それを見逃さなかった浦田は玲よりも早くそのスタンガンを拾い上げる。そしてスイッチを入れると玲の方に向けた。


「痛いのは一瞬だからな」


 催眠班の五人は呆気に取られ立ち尽くしたままだったが、モップを持った網野が走り出した。床は滑るので、デスクの上に飛び乗り、窓から飛び出す。その勢いを利用してモップの先を浦田の左腕に叩きつけた。


「ぐあっ!」


 スタンガンが浦田の手から落ちる。網野はすぐにそれを回収して、玲に駆け寄った。


「大丈夫?」

「うん、僕は大丈夫」


 しかし浦田の方はモップを当てられた腕を押さえ、かなり痛がっていた。もしや骨折させてしまっただろうか。敵の心配をしてしまったが、浦田は悶絶しながら上体を起こす。


「網野光来、俺はお前を許さない」


 浦田は声を震わせながら、膝を使って立ち上がろうと試みていた。


 その様子を見た玲が網野の袖を引っ張る。


「逃げよう光来!」

「でもティナが!」

「ティナ?」

「僕の人魚!」

「それなら大丈夫だ! 僕の身が光来の元にある以上、あいつも迂闊に人魚に手は出せないはずだ!」

「でも!」

「大丈夫だ! 僕を信じて!」


 網野の手を取った玲は力強く床を蹴って走り出す。


「待って」


 目の前にティナを狙う敵がいる。それなのに彼女から離れたくない。ティナを守ると決めたのだ。


「彼女、ティナちゃんは必ず後で救いに来よう。このままじゃ僕らはティナちゃんを救えなくなるよ」


 一度、走るのを止めた玲が網野の方を振り返り、説得した。ここにいては浦田にやられてしまう。それはもうティナを救えなくなるということを示していた。今玲を連れて逃げれば、網野は玲という保険を持った状態でティナを助けにくることができる。もちろんそれがベターな選択だ。


 それでも、ティナに何も言わないまま逃走することは悔やまれた。


 たった数メートル先の部屋にティナはいるのに、今は近づくことができない。


 心の中で「ごめん」と呟く。どうか彼女に届きますように、と。


 今度は網野が玲の手を取って逃げ出した。


「角を曲がった先に人魚の搬入口がある! そこから脱出しよう!」


 駆け出した二人の背中が浦田たちから見えなくなる。催眠班の班員が浦田に「追いかけますか」と尋ねる。しかし彼は「必要ない」と返した。


「そもそも飼育員がこの状態では人魚を水槽から出して専用車に載せることは不可能だ。我々は既に敗北している」


 浦田は動かせる右腕で網野が落として行ったモップを拾いあげ、倒れている班員と飼育員に近づくと二回振り落とした。頭蓋骨が砕ける、鈍い音が静かな廊下に響く。続いて、研究室内にいる班員にも同じことをした。浦田は三人分の血がついたモップを投げ捨て、


「仕切り直しだ。網野光来を拉致・殺人の容疑者に仕立てあげる」


 と、催眠班五人を引き連れて施設を出た。


 一夜にして地獄と化したMML。この出来事は、一番初めに催眠から目を覚ました研究員によって警察に通報された。

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