第17話 友達
大波田は水槽の横に取り付けられている機器のスイッチを押し、水槽内の水を抜き始める。人魚は水中でなくでも呼吸ができることがわかっているので何も問題はない。続いて、ティナをこの研究室に連れてきた際に入れていた小水槽をワイヤーとフックに吊り下げて、大きな水槽の中へ入れ込んだ。
網野は大波田の合図を受け、ティナにお願いする。
「ティナ、ちょっとの間だけでいいから、その小さな水槽の中に入っておいてくれない?」
「ティナ、これ、入る?」
「そうだよ。その中に入って」
「わかった」
ティナは元気よく返事をすると、尾ひれを揺らしながら小水槽へ移った。
網野としっかりとしたコミュニケーションを人語で取るその様子に大波田は感嘆の声を漏らした。
「噂には聞いてましたけど、本当に人語でやり取りできるんですね」
「まだ簡単な日常会話だけですよ」
「いやあ、それでもすごいですよ。それにティナちゃんはめちゃくちゃ素直な子で助かります。たまに暴れる子もいるので」
と、ティナが入った小水槽を繋げてあるワイヤーを大波田はテキパキと巻き上げる。それを研究室の床に下ろし終えると、大水槽に梯子を立てかけ、掃除道具と共に水槽の中へ入っていった。
「それじゃあ、後は任せてください。網野さんたちはもう講演会へ行く準備をされてください」
「ありがとうございます」
網野はまだ眠ったままの釣井の肩を毛布越しに揺らす。
「釣井、そろそろ着替えないとだぞ」
軽く揺らしただけではびくともしなかったので、さらに勢いよく揺らすと「ふぇ?」と、ようやく顔をあげた。目は半開きで、口からは少し涎が垂れている。どうやらかなり熟睡していたようだ。
「すみません、つい眠っちゃってました……って大波田さん?」
目を擦り、ようやく視界がはっきりしてきたところで研究室に自分と網野以外の人物がいることに気がついた釣井。寝起きの顔から一気に脳が目覚めた顔へと変わった。
「人来てるなら言ってくださいよ〜。網野先輩〜」
「寝たのは釣井だろ。別に僕が起こす必要ないじゃないか」
「網野さん、むしろ起こすまいとしてましたもんね」
「そんな気遣いしなくていいです!」
「つり、おもしろい」
と、大波田はおろか、ティナまで釣井をからかった。
「『つり』じゃなくて『釣井』だってば!」
釣井はティナにそう言い返すと、デスクの横に掛けていたスーツ一式を持って研究室を出て行った。総合更衣室へ向かったのだ。
目を覚ました途端、嵐が急に来て急に去ったようだった。網野とティナと大波田は目を見合わせると大きな声で笑い出す。しばらくして、笑いが収まると網野もスーツに着替えることにした。
「僕はここで着替えようと思うんですけど、気にしますか?」
「気にはしないですけど、なるべく見ないようにはしますね」
大波田は網野に背を向け、ブラシがけに専念し始める。続いて網野はティナの方を向き、
「ティナもあんまりこっち見ないでね」
と、お願いした。
「みざる」
ティナも自分の両手で目を覆い隠して網野に答える。
「それはちょっと違うけどね」
お茶目な一面を見せたティナに、網野も思わず頬を綻ばせてしまった。
手早く着替えを終え、ネクタイを締める。既に大人ではあるが、職業柄スーツを着る機会は少ない。そのため、スーツ姿の自分にはかなり違和感があった。
何度も鏡で着こなしを確認しているうちに、釣井も戻ってきて、大波田の掃除も終わった。
まずティナが入った小水槽と一緒に大波田が部屋を出て、その後に釣井と網野が出る。網野は研究室の鍵を閉めると、
「では、ティナをよろしくお願いします」
と、もう一度頭を下げた。
「ええ、任せてください」
大波田も笑顔でそれに応える。
「ティナ、また明日ね」
「またあした」
ティナも網野の言葉を繰り返しながら、手を降る。角を曲がる大波田とティナを見送ると、網野ら二人も反対方向のエントランスへ向かった。
入場ゲートではカウンタースタッフと、白い服の青年が揉め事をしているようだった。もちろん網野はその白い服の青年に見覚えがあった。
「レイ!」
網野が彼の名を呼ぶと、あの夜のようにレイは網野の方を向いた。その途端、彼の顔が明るくなる。
「光来。聞いてくれよ。僕ら友達だって言っているのに、彼女ったら信じてくれないんだ」
「え、本当に網野さんのご友人なのですか?」
「だからそう言ってるじゃん」
カウンタースタッフは網野の反応に対し、網野本人とレイに再度確認するように尋ねた。釣井にも以前、レイの話はしていたので、
「網野先輩、もしかして彼が?」
「そうだよ」
と、気がついていた。
「さあ光来、僕を中に入れても良いと彼女に伝えてくれよ。『人魚姫』はもう読んだかい? 早速語り合おうよ」
手を広げるレイに、網野は罰が悪そうに頭を掻く。
「悪いけど、今日はもう予定があるんだ。借りた『人魚姫』はもう読み終わっているから、日を改めてくれないか」
「そうか……。うん、それでもいいよ。どうせまたすぐ会えるさ」
「すぐ会える? どういうことだ?」
「気にしなくていいよ」
レイは網野の手を取り、両手で包み込みながら微笑んだ。レイの手に触れるのは初めてだった。随分と乾燥した肌だと思った。
「だって、僕と君は友達だからね」
彼の手が網野の手から離れると、「またね」とエントランスを出ていく。その後は右に曲がり、浜辺へ繋がる階段へ向かっていた。
生ぬるい風がエントランス内に吹き込んだ。
網野は初めてレイと出会った夜のような、言葉に出来ない感覚に襲われ、エントランスを飛び出した。レイが歩いて行った階段の方を見る。やはり彼の姿はもうなかった。砂浜を見下ろしても、レイどころか人間が見当たらない。
まさに神出鬼没だった。
彼は一体何者なのだろう。網野の中にその疑問だけが残っていた。
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