第17話 滝園と伝承
「少し待ってろ」という宣言どおり、バディによる部屋の片付けは、本当に『少し』で終わった。
時間にして、一秒にも満たなかった事だろう。なんせ、アウルが瞬きを一つした次の瞬間には、部屋はアウルのよく知る状態に戻っていたのだから。
「え」とアウルが驚いて声をあげた時には、「行くぞ」と言いながら、部屋の外へ出ていくバディの姿があった。ハッと我に返ったアウルは、慌ててバディの背中を追った。
そうしてアウルはバディと共に、宿を後にした。
宿屋を出る直前、アウルの脳裏に母の事が思い浮かんだ。
出かける事を告げた方が良いのではないか、と思ったのだ。だがまぁそう遠くに行くわけでもあるまいし、しなくていいか、という結論に至った。実際、母の方はまだ自室に居るのか、アウル達が宿屋を出る時も、部屋から出てきたような気配は感じられなかった。
「それで。その蓮の花がある場所というのは、どこにあるんだ」
「えぇっと、
「こちらです」そう言って、アウルはバディの先に立ち、道案内を始めた。
宿屋の裏側に回り、その眼前に広がる林の中へ歩みを進める。
林の中は、やはり至るところ同じような光景が広がっていた。何処を見渡しても、木、木、木、木――。何も知らない者が歩みを進めれば、一瞬で迷うのは明らかだ。
だが、そんな林の中をアウルは迷う事なく進む。
似ているように見える景色の中にある、ちょっとした違いを見つけ、それを目印に、目的地へと向かっていった。
その間、バディは無言だった。
アウルの方も話しかけられる話題が見つからず、自然と無言になってしまう。
沈黙のみが満ちる空気はなんとも重たいものがあるが、改善すべき術はない。ただひたすら、2人は無言で林の中を歩き続けた。
しかしそれも長くは続かなかった。
なぜなら、少し歩いたところで、ある『音』が木々の間から聞こえてきたからである。
ゴオオォォォォ…………ッ。
「――川、か?」
聞こえてきた音に、声をこぼしたのはバディだった。
それは、川の水流と思しき音だった。音の勢いから、非常に激しい流れの川である事がわかる。
音は、アウルとバディが歩みを進める度に大きくなっていった。
どうやら、アウルの目的地はこの水音がする場所のようだ。
その不可解な事実に、バディの眉間に深いしわが刻まれる。
確かに蓮は、水の中で育つ水生植物だ。水底に根を張り、茎を伸ばし、その水面上で花を咲かす。
だが、それはあくまでも沼や池といった、波のたたない場所での事だ。
水が流れ行く川の、それもこんな激流の川で咲くような、正確には咲けるような花ではない。
一体、目的地には何があるのか。バディの頭の中に疑問が浮かぶ。
――その時だった。
「着きました」
そう言って、アウルが足を止めた。
「ここが、私がいつも蓮を採りに来ている場所――、ロータスの滝園です」
「ロータスの滝園……」
アウルの言葉を繰り返しながら、バディは彼女のむこう側に広がる光景に目をやった。
木々ばかりの林の中、まるでそこだけを綺麗に木々が避けているかのように、広く、ぽっかりと開けた空間があった。木々という邪魔者がないからか、陽の光がまっすぐに地に向かって降り注いでおり、今までの鬱蒼とした空気が嘘のような、明るく清廉とした、光の空間となっている。
そんな空間の奥に、ゴツゴツとした岩肌が曝け出された、巨大な岩壁がそびえ立っていた。まるで先ゆく者の道を阻む障壁のようだ。反射的にバディは岩壁の上を見上げたが、どれだけ目を細めても、天高くそびえるその頂きを捉える事は敵わなかった。
壁の両端は林の中へと続いている。その光景から察するに、どうやらここは、林の『端』に位置する場所であるらしい。そんな結論がバディの中で導き出される。
そして、何よりもバディの目を惹いたのが、この巨大な障壁の真ん中を縦断する滝だった。
ゴォオオオオオオオ‼‼、とまるで、獣の唸り声にも似た激しい水音をたてながら、洪大な滝が崖の上から降り注いでいた。
滝口はむろん見えない。だが、まるで豪雨の如く、狂ったようにとめどなく激流を降り注ぎ続けている光景からは、その滝口にあるであろう河川の広大さを嫌でも感じられる。もしかしたら、この岩壁の上は、巨大な河川のみがある世界なのではないのだろうか。そんな馬鹿げた可能性すらも感じられる光景だ。
そして、そんな激流の中を流れ行くもの達がいた。
幾重にも重なりあった花びらを、ふんわりと広げた、淡い桃色の花々。
それは確かに、蓮の花だった。
「これは……」
予想もしていなかった光景に、バディの口からあ然とした声がこぼれ落ちる。
そんなバディの様子に、アウルはくすくすと笑った。アウルにとっては、バディの反応は、予想どおりのものだった。
「凄いでしょう? これ全部、滝の上から流れてきてるんですよ」
言いながら、アウルは滝の根本に広がる池に近づいた。
不思議な事に、これだけな膨大な水量の滝を受け止めているのは、川ではなく池だった。ぐるりと滝の根本を大きく囲むように池はできていた。激流を受け止めている事がまるで嘘のように、その水面は凪いでおり、淵から水が溢れ返る気配もない。
時折、滝から流れてきた蓮の花が水面をなぞるように滑っていくが、それさえも、しばらくすれば勢いを失い、動きを止める。
花々で彩られる池を、陽の光が照らす。
その光を受けた淡色の花達が、ほのかに、優しく輝く。何者にも邪魔されない、静かで、穏やかな光景。
極楽浄土というものが本当にあるならば、正しくこのような光景なのではないだろうか。そんなたおやかな空気が、ここには満ちていた。
「私も、母から始めてここを教わった時は、びっくりしました。まさか、こんな林の中に、こんな綺麗な場所があるなんて思いもしなかったので」
池の淵に、アウルはしゃがみ込んだ。水面へ手を伸ばし、蓮の花をひとつ掬う。
それを眺めながら、アウルは初めてここに来た日の事を思い返した。
――今のように、まだアウルが母と共に宿屋の経営を行っていなかった頃の思い出。
幼く、何も知らない、小さな子どもだった頃。アウルは母に手を引かれ、この池に訪れた。
そしてこの美しく綺麗な光景を、母と2人、日が沈むその瞬間まで池の淵で共に眺め続けた。ただただ、その美しさを享受するように――。
この池に纏わるあの『伝承』を、アウルが母から教えて貰ったのもその時の事である。
「母が言うには、この蓮の花達は、ケイオスの民がお流しになってくださってるお花なのだそうですよ」
「ケイオスの民だと」
アウルの言葉に、バディが驚いたように声をあげた。
「ケイオス民というのは、あの『ケイオスの扉』の伝承に登場する民のことか」
バディがズカズカと勢いよく、アウルの方へやってきた。そうして、アウルの隣に腰を下ろす。
先ほどよりも真剣味が増したバディの眼差しが、ゴーグル越しにアウルに向けられた。
先刻とはまた異なった様子のバディに、アウルは思わず目を瞬いた。あっけに取られてしまい、「え、えぇ、そうです」と一瞬ばかり、返事をするのが遅れてしまう。
「伝説の異世界『ケイオス』に通じるとされる、『ケイオスの扉』。その伝承に出てくる、ケイオスの民の事です」
伝説の異世界『ケイオス』。
それは、何もかもが不確かで曖昧で不明瞭な混沌で満ちたカクリヨの園において、唯一、確かで明確で明瞭なものとして伝わっている伝承だった。
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