第八百五夜『アズライルの書-Hi,jack!-』

2024/12/30「西」「妖精」「魅惑的な技」ジャンルは「指定なし」


 あるところにジャックという男が居た。

 このジャックという男は外面が良く、それでいて悪魔あくまの様な才覚を持ち、けれども勤勉きんべんではない、ようするにありふれた人物だった。


 ある日の事、ジャックが酒場でチビチビと酒を舐める様に飲んでいる時に、転機てんきが訪れた。

「ああ、何か美味いもうけ話は無いものか……」

「ありますよ」

 ジャックが声のした方を見ると、声の持ち主は燕尾えんび服に身を包んだ女性で、肌色はチョコレートの様な色で血色や肉付きが良く、頬や口唇こうしんは健康的でセクシー、山高帽から零れたる一房ひとふさにまとめた長髪は色濃く黒く、体躯は女性的なあまり燕尾服が悲鳴を挙げているとすら表現出来る様子であった。

「はあ、それは本当に美味い儲け話なのか? 美味い儲け話というからにはうらがあるのでは?」

 ジャックは目の前の女性をいぶかしみ、疑ってみていた。

「ええ、勿論。実は私、死神をしている者でして、最近は何と言いますか、寿命? 運命? そう言った物を金品と交換するサービスを始めたのですよ」

「はあ? 死神ですか?」

 ジャックは女性の言う事を更に訝しみ、疑ってかかった。

「ええそうです、此度こたびはあなたの運命を買い取りに参りました」

「俺の名前を?」

 死神を名乗る女性に対し、ジャックはわざと大袈裟おおげさおどろいてみせた。どこから自分の名前を知ったか知らないが、油断のならない女である事にはちがいない。

「ええ、そうです。あなた様の運命を買い取る場合……そうですね、これくらい値段になります。こちらは前金になります、どうぞお収め下さい」

「おいおい待ってくれ! 運命がどうとか言って、それで金を貰うのは訳が分からない。そもそも死神とか運命とか、そんな事をいきなり言われても信じられん」

 ジャックがそう言うと、死神を名乗る女性はニヤリと口角を上げた。

「そうですね……うん。あそこの席の方、名前をディキシーと言うのですが、

 死神を名乗る女性が指を指した先には、仲間内で杯で酒をあおる集団が居た。なるほど、あんなに酒を呷って飲んでいては、命を落としてしまっても不思議ふしぎではないだろう。

「おいおい、確かにああいう飲み方は命取りかも知れないが、ってのはいつの事なんだ?」

「間も無くは間も無くです」

 ジャックが死神の言う事を、胡乱な者の言動だと聞き流していると、その時の事だった。

 破砕音、水の弾ける音、重い物が倒れる音がひびき、途端とたんに酒場は大騒ぎになった。

「ディキシー! おい、大丈夫かディキシー!?」

「息をしてない!」

「誰か救急車を呼んでくれ!」

 酒を呷っていたグループは急遽きゅうきょ阿鼻叫喚あびきょうかんとなった。

 自称死神はジャックの方を見て、勝ち誇った様な笑顔を浮かべた。

「何かのトリックでお前が殺したのか?」

 ジャックが半ばふるえた声でたずねるも、自称死神の女性は余裕を崩さない。

「それは私は死神ですからね、相手の名前と運命が分かるんですよ」

 自称死神の女性はさも当り前の事を説明するかの様に言った、まるで太陽が西へと沈んで東から出ると説明しているかの様。

「それでは取引の方を。あなたの運命を金品と交換しましょう」

「いやまってくれ。名前と運命が分かるってのは、養子縁組とか結婚をした場合、名前はどうなるんだ?」

 死神の女性はおかしな事を尋ねるものだと首を傾げて見せた。

「養子縁組や結婚? それは勿論、私が分かるのは今の名前です。もっとも、人間の法律だと同一人物を指す名前は全部同じ人の名前として扱うそうですが、私は死神なので」

 これを聞き、ジャックは黙り込み、そして熟考じゅっこうをした末、顔を上げた。

「分かった、取引に応じよう」


 ジャックと死神は、運命と金品を交換する取引を交わした。

 しかし人間の運命を全てうばってしまっては、いくら金があっても意味は無い。

「だから、前金という形で金品や小切手をお渡しする事になっております。プランなどは、要相談ですね!」

 快活に笑う死神の女性に対し、ジャックはリターンの大きい取引を要求した。何せ死神に何かを売り渡す人間なんてものは、太く短く生きる事をえらんだ人間なのだ、これは必然と言えよう。

「分かりました。では来月、あなたの元に参ります。それではごきげんよう」

 死神の女性は山高帽を脱いで会釈えしゃくすると、ごく普通に酒場から出て行った。

 ジャックの元には、一生遊んでらせそうな額の書かれた小切手が残されていた。

 ジャックは小切手をふところに入れ、ほくほく顔でいた。

「さて、それじゃあ戸籍こせきを売りに行くか」


  * * *


 ジャックは小切手を現金に換えた後、戸籍を売り払った。即ち、ジャックはジャックでなくなった。

 勿論ジャックという戸籍でなくなっても、ジャックと呼ばれてしまってはジャックと言う名前であるのと変わらない。故に、元ジャックは知人が誰一人存在しない遠くの街まで移動した。

「こうすれば俺はジャックじゃないし、俺の事をジャックと呼ぶ人間も居ない。だから死神からは別人にしか見えないって訳だ!」

 しかし、人間とは呼び名が無いと何かと不便だ。しかし名前があると、あの死神に殺される可能性も出て来る。なので、元ジャックは便宜上の呼び名が必要なさいは『おい』とか『お前』と呼ばれる事にした。

 『おい』とか『お前』とか呼ばれる人間はこの世界にどれだけいるだろうか? そんなのが名前として通ってしまっては、死神だろうが人間だろうがたまったものではあるまい。何せ『お前』と呼ばれている特定個人から魂をうばって来て、人違いを起こさないなんてのは不可能に近い。

「ははは、死神をだましてやったぞ! 俺はなんて賢いんだ!」

 元ジャックは勝ち誇り、新たな住居であるはしの下で高笑いした。何せ宿を借りるにも名前が必要なのだ、宿を借りるという事は死神に付け入るすきを与える事に外ならない。


 そんな元ジャックの様子を、橋の上から見下ろす燕尾服姿のかげがあった。

 燕尾服姿の人物は、とても滑稽こっけいなものを眺める様子でニヤニヤ笑いを浮かべて、ただただていた。

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