第五百七十六夜『落ちている軍手-Tartarus-』

2024/02/09「朝」「蜘蛛」「業務用の流れ」ジャンルは「邪道ファンタジー」


 車が行き交う朝のファストフード店のテラス席で、あついコーヒーを飲みながら携帯端末けいたいたんまつに目をやる。

 俺の朝はコーヒーを飲みながら、携帯端末で各種朝のルーチンをする事で始まる。朝のニュースを読んだり、広告を見てわずかなデジタル通貨を得たり、もしくはアプリケーションを開いてインゲームアイテムを得たり……

 とにかく、中身は無い行動だが、俺にとっては一日の始まりを告げる神聖なる行動なのだ。

 その時だった、携帯端末に目をやったままの俺は横の席から子供と母親らしき声が聞こえて来た。

「ママー、てぶくろ落ちてる! なんでてぶくろ一つだけ落ちてるの?」

「あら、本当。手袋が一つ落ちてるなんて、きっと落とした人は困ってるわね」

 それは手袋じゃなくて、軍手だ。見なくても分かる。

 ここいら辺はトラックがよく通るのだが、トラックの燃料ねんりょうタンクから軽油があふれ出るのを防ぐふたの補強に使う布材だ。燃料タンクの蓋に布を被せる際に軍手を用いれば、軍手が軽油が溢れるのを防いでくれるし、何よりも蓋に被せるのが楽なのだ。

 故に、ここら辺で手袋が片方だけ落ちているなら、それはトラックの落とし物と決まっていて、母子の見当は恐らく大間違おおまちがいだ。

 手袋を片方だけ忘れる人間なんてそうそう滅多めったに居ないし、まかり間違っても体半分だけ服を着ているエルフや、千手観音せんしゅかんのんみたいなヒンズーの神も居やしない。

「すみません、この辺で落とし物をしたのですけど、そこの席に有りませんでしたか?」

「いえ、ありませんでしたよ」

 背後から声がして、俺は携帯端末に目をやったままに反射的に答えた。

「そうでしたか……ありがとうございます、どこで忘れたのだろう?」


 車が行き交う朝のファストフード店のテラス席に、ゆうに成人男性を抱きかかえられそうなサイズの蜘蛛クモが居た。

 巨大蜘蛛は人間の様な六つの手を有していて、しきりに何かを探し回っていた。しかし周囲の人間は車の方を見るやら、携帯端末に夢中だったり、単に車の運転で視界に入らなかったりして、誰も気が付かなかった。気が付かなかったと言う事は居ないのと同じと言う訳で、誰もこの事をさわぎはしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る