第二百三夜『ユピテル・コンプレックス-Junior-』

2022/12/20「雨」「洗濯機」「荒ぶる物語」ジャンルは「ラブコメ」


 皆さんはユピテル・コンプレックスと言う言葉をご存知だろうか?

 ユピテル・コンプレックスとはルーツを辿たどれば神代ギリシャにまでさかのぼると言う、ナルシズムやエディプス・コンプレックスと同じく由緒正しい神話由来の心理学用語と言える。

 事の起こりはローマ神話の全能の雷神ユピテルの心のしこりが発端ほったんとなっている。ある時ユピテルは妻の妊娠にんしんを知り、これをうれいた。自分が父王を玉座から引きり下ろしたように、自分もまた我が子に玉座を引き摺り下ろされるのでは無いか? と懸念けねんしたのである。

 しかしこの神話の肝要かんようなのはこれからである。ユピテルは自分の妊娠した妻を胎児たいじごと飲み込んだのである。この時ユピテルの妻はユピテルの肉体の一部として生きる事を承諾し、彼の頭脳となったのだ。しかし胎児の方はそうは行かない、折角もうすぐ産まれそうだった所を、父親のエゴで父親の肉体の一部になる等承諾しえない。ユピテルの娘はユピテルの肉体の中で癌細胞がんさいぼうの様になり、やがて人の形になるまで育った所をユピテルの頭部を突き破って生まれ出た。ユピテルは彼女を娘と認知し、彼女に地上の都を与え、結果として地上の繁栄は都が移るまでの間ずっと娘の物となったのである。

 即ちユピテルは男神おがみであるにも関わらず、紆余曲折の果てに妊娠と出産を行なったのである。

 しかし、ユピテル自身の出産に関するエピソードはそれだけではない。彼は後に本妻ジュノをめとる事になるのだが、その一方で恋多い男神としても知られていた。ある時彼は浮気相手に身分を偽って不倫ふりんを働くのだが、ある時不倫相手に雷神である証明を立てろと言われ、自分が雷神の姿をあらわにした途端とたんに感電死してしまった。しかし不倫相手の胎内に居た、彼の不義の子は無事であった。父親となって丸くなったユピテルは、この子を不憫ふびんになって自らの肉体に入れた。何せ彼は全能の雷神なのである、体内で胎児を誕生まで育てるのも可能である、慣れたものである。

 この様な神話は世界各地にある。アフリカでは嵐の男神セトが奸計かんけいによって妊娠したと神話にあり、ヨーロッパでは悪戯を司る男神ロキが責任を負う形で馬と交わって多脚の馬スレイプニルをもうけている。神話ではないが、中国では西遊記で三蔵法師と猪八戒ちょはっかいが勘違いから神秘の水を飲んで妊娠してしまう。日本ではイザナギがイザナミと根の国のにあてられ三貴子みはらしのうずのみこと呼ばれる三柱の子供を儲けている。

 神話にいては、男性の妊娠や出産はあり得ない事では無いと言うのは地域を問わない事だと言えよう。しかしユピテルは一線を画している、彼は他の神々と異なり自分自身の意思で、消極的選択でもなしに自ら子供を産む選択をしているのだ。これこそがユピテル・コンプレックスである。

 ユピテルが不倫相手の子供であるバッカスを出産した際、彼の本妻であるジュノは危機感を覚え、単為生殖を試みた。しかし事実と見聞は異なる、浮気相手の子供を体内で育てたのは単為生殖とは本質的に違う、彼女が単為生殖を試みた結果生まれたウルカヌスは生まれつき足が曲がっていた。この事を恥じたジュノはウルカヌスを捨て子にしたと言われており、後にユピテルが出産した女神ミネルヴァに求愛したと言われている。

 即ち、ユピテル・コンプレックスとは男性が子を産みたい、或いは妊娠した妻から我が子を奪いたいと言う鬱屈うっくつした感情を指す言葉なのである。

 前述の通り、ギリシャ神話は心理学の源泉とも言うべき土壌どじょうであり、そして男性が妊娠をすると言う幻想も世界各地にある。しかし繰り返すが、自らの意思で妊娠を選んだ神であり代表はユピテルに外ならないのだ。

 今日こんにちユピテル・コンプレックスと言う言葉が世界各地で、男性が妊娠を望んだり、妻から胎児を奪いたい心情を表わす言葉として広く知られているのも道理であると言えよう。


 ミンメイパブリッシング社刊行『神話に見る心理学―人の心は神の心』より



     *     *     *



 洗濯物せんたくものの乾きが悪くなりそうな印象を覚える様な、憂鬱ゆううつになる様な天候の日の出来事だった。

 警察署内に二人の警察官が居た、刑事ドラマで見る様なベテランと若手の二人組だ。二人は自分達の仕事や、検察の仕事について話していた。周囲にはその二人しか居らず、大声でなければ話をしても周囲にれる事は無い環境だった。

「先輩、聞きましたよ。僕が居ない間に、自分の妊娠ウンカ月の妻を刺し殺して自首して着た人が居たんですってね?」

 若輩の警察官が先輩の警察官に言った。単純に仕事の内容と言うよりは、今どき自首だなんて珍しいとでもいう様な、眉唾物まゆつぶもののゴシックの内容を聞くような、怪訝けげんな声色の質問だった。

「ああ、それな。精神科でカウンセリングを受けてもらう事になった。治療を受ければ、社会復帰できるだろうからな」

「いや、待って下さいよ先輩。それって精神鑑定の結果無罪放免むざいほうめんで、ムショにブチ込まれないって事に聞こえますよ? 例え胎児が法律上人間でないとしても、一人の殺人、由々しき事件ですって!」

 若輩の警察官の言葉はあせりをはらんだ物で、先輩の警察官はそれに対して落ち着き払った様子でこう答えた。

「まあ待て、それはその通りなんだが、語弊ごへいがある。まず第一に、そいつに妻は元より子供も居なかった」

「はい?」

 これには若輩の警察官も呆気だ。何せ、自首して着た男は妊娠した妻を殺したと自供したと聞いていたのだから、前提が変わってしまった。

「第二に、そいつが妻と呼んでいたのは自分のまくらだ」

「はい?」

「大方人恋しさか、親や他人から配偶者や子供に関するプレッシャーをかけられ続けた結果、自分の頭の中に妻を作り出したのだろう。それから想像上の妻を相手に痴情ちじょうのもつれか、何かしら夫婦喧嘩ふうふげんかか、どうでもいいが想像上の妻を手にかけたのだろう」

「はあ……? 何と言うか、そんな事って本当にあるんですか?」

「あるんだよ。心ってのは、権力だとか焦りだとか企みだとか責任追及だとか早とちりだとか環境の変化だとか、そう言う物のせいで簡単に壊れたりするもんなんだ」

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