第百九十夜『ムッシュ・レイをごしょうかいします-La Barbe Bleue-』

2022/12/04「現世」「十字架」「きわどい時の流れ」ジャンルは「悲恋」


 あるところにムッシュ・レイと言う男が居た。彼は世が世ならば陸軍元帥りくぐんげんすいをしていたかも知れない男だが、そんな事は全く無く、人生のどん底に位置している人間で、つまりはムッシュ・レイだった。

 彼は元々信仰心にあつい人間で、善人で、それでいてやる事為す事全て裏目に出る人間だった。青少年の頃は信仰を杖に生きており、常に喜んでいなさいと言う教え、怒りを夜に残してはいけないと言う教え、それらを守って生きて来たのだが、何せやる事為す事裏目に出るのだ。彼の心はくすみ、よどみ、すっかりゆがんでしまった。

 ムッシュ・レイはある時、地上に神の不在を証明して涜神とくしんを実現しようと思った。橋の上で通行人とすれ違いざま、体格の小さな人を橋から突き落とすのだ。犠牲者は無垢むくで罪を犯した事が無い人間が良い、この二つの条件を満たすのは即ち嬰児みどりごだと考え、ムッシュ・レイは計画を実行に移した。

「神様! あなたが実在すると言うならば、この無垢な嬰児を助けて見せろ!」

 ムッシュ・レイは端を通行する人々から嬰児を抱いた人を見つけると、その嬰児を奪ってそう叫び、その子を橋から運河へと投げ捨てた。

 しかし、ムッシュ・レイはやる事為す事が裏目に出るムッシュ・零なのである。丁度運良く船が通りかかり、丁度運良く甲板に船乗りが居り、丁度運良く船乗りが伸びをした腕中に嬰児が納まって無傷だった。

 しかし嬰児が無傷だとか無傷じゃないとかそう言う事はどうでもいい、ムッシュ・レイは通行人に暴行を働き安全をおびやかしたのである、なんじ神を試みるなである。あっと言う間にムッシュ・レイは取り押さえられてしまった。

 これには被害者も目撃者も船乗りも驚いていたが、一番驚いたのはムッシュ・レイ本人である。自分の様に取るに足らない人間の為に奇蹟の様な現象が起きたのだ、神様は実在する! と、そう確信し、彼の精神は若者の時のそれにすっかり戻っていた。

 そんなこんなで取り調べの時間に至ったのだが、言動から精神錯乱せいしんさくらんかその類であり、刑務所でこってり反省させた上で療養してもらおうと言う運びになった。

 しかしそこはムッシュ・零、やる事為す事起こる全てが裏目裏目に出続ける。

「私は正気だ! あの一件で正気に戻った! どんな刑罰も受けるし、社会奉仕もする!」

 自分を仕切りに正気だと涙を流しながら懺悔ざんげしつつ主張するムッシュ・レイの言動は、警察司法の目には正気でなく映った。ムッシュ・レイの刑罰は大分軽い物を言い渡され、療養を受ける様指示された。キチンとした罰を受けようと思った途端、通院さえすれば後はいい加減な罰しか受けられない。

 そんなこんなでムッシュ・レイは不本意ながら司法の下された罰を精算し、娑婆しゃばに戻った。今度こそ神に顔向けできるような正しい人として生きるのだ。

 しかしそこはやっぱりムッシュ・零。彼が娑婆で荒れていた頃の悪因悪果か、それともただの偶然か、それとも犯罪者は絶対に許さないと言う一種のミゼラブル的思想の持ち主か、ナイフを手にした通り魔に襲われてしまった。

「神様助けて!」

 ムッシュ・レイは助けを求めたが、腹部にナイフを受けて死んでしまった。一時は涜神に生きた人間ですらこれである。人間に涜神等と言う物は土台不可能で、構造上不可能なのである。


 レイと言う男が幼児を手にかけた理由は諸節ある。気が狂って凶行におよんだと言うのが有力説だが、異説もある。

 一説にはわざと地獄に行くために、罪無き子供を殺す計画を立てたと言う物。地獄へのフリーパスを得るために、考えつく限り最も悪い事をしたと言う物だ。

 別の異説では、神は人間の自由意志に全てを委ねており、神はその力は地上に及ばせていない。即ち地上は総じて無価値であり絶望に値する物、その事を証明する為に凶行に及んだと言う物である。

 しかし、総じてレイは精神を病んで正気を失っていたと言う評価を資料に下されており、彼が何を考えていたか、どの様な動機だったかは定かではない。

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