第七十七夜『ウェンディゴ症候群-be hide-』

2022/07/27「鳥」「歌い手」「消えた恩返し」ジャンルは指定なし


 ある所に空腹の熊と言う名の青年が居た。彼は名は体を表す筋肉質で高身長の男で、日に焼けて赤黒い肌も相まって周囲からは専ら熊と愛称で呼ばれていた。

 空腹の熊はこれまたその名の通り優秀な狩人であった。斧、投石、弓、罠、何を使ってもスタンドプレーでは集落一の実力で、危機感知や逃げるべき局面での嗅覚にも優れていた。乗馬やマンパワーに物を言わせた追いこみ猟こそ苦手にしていたが、彼は一人で狩りを出来るし、集落の仲間に合わせる狩りも嫌悪まではしなかったので何も問題は無かった。

 ある日、空腹の熊はいつも通り一人で狩りへ出かけた。一人で狩りを行なう場合、野牛等の大物を持ち帰る事が出来ないのがネックだが、野牛の様な大型の獲物は一人で食べきれないのでハナから眼中に無かった。

 空腹の熊が森の中に仕掛けた罠を確認したら、鳥がかかっていた。そして新たに罠をかけなおして狩場を後にする、必要以上に獣を食い散らかす事は我が身の破滅に繋がる。彼はそう教わっていた為、必要な獲物だけを狩り、残りは野の獣の為に残す。今夜は夕食は焼き鳥になるだろう。

 空腹の熊はそう考えて帰路につくと、何やら視線を背後から感じる。彼はハッとして振り返るが、背後には木々があるだけで人も獣も居ない。しかし、彼には確かにそこには何者かの視線が感じられた。

(これが話に聞くウェンディゴか?)

 一人で居る人の後ろを常に凝視し、振り返られると素早く隠れ、ウェンディゴに憑りつかれた人は食人衝動に駆られ、最終的にウェンディゴに憑りつかれた人間はウェンディゴになってしまう。それが空腹の熊がウェンディゴについて知っている事だった。

(冗談ではない、ウェンディゴに憑りつかれるいわれなんて俺にあるものか!)

 空腹の熊はウェンディゴの存在に気が付かなかった振りをして、家まで帰る事にした。振り返っても誰も居ない事がウェンディゴの特徴の一つであるならば、逆にウェンディゴの方に視線を向けなければウェンディゴは興味を失って俺を追う事を諦めるだろう。そう考え、彼は自分を奮い立てて足を動かした。

 しかしこれが難しい。何者かが自分を追跡している事を無視する事はまず難しいし、しかもこのウェンディゴと目される追跡者はこちらの気を引く為か、わざとらしい足音や息使いまで行なうのである。空腹の熊は自分のすぐ後ろで何者かが足音を立てながら首筋に息を吐きかけるのを感じながら、しかし振り返りたくなるのを堪えた。

(ダメだ、こいつは楽しんでいる。最初に振り返った時の反応で、俺がウェンディゴの存在を確信している事に気が付いている……)

 空腹の熊の脳裏には、様々な考えが浮かんでは消えた。遮蔽物が無い所まで誘導し、投石で倒すか? いやダメだ、俺が振り返った瞬間俺の背後に回る恐れがある。一人の人間を襲うのであれば、集落まで急ぐか? これは勝算がまだありそうだが、わざわざ俺を追跡していると言う事は、向こうにも俺をウェンディゴ憑きに出来る勝算があると結論付けるべきだろう。川のある方角を目指し、川の水に追跡者を写しながら石を投げるか? これが一番マシに思える、これしかない!

 一縷の希望が湧いた空腹の熊だが、身体の様子がおかしい。異常なまでの飢餓感を覚えるのだ。

 彼は激しい飢餓感が赴くまま、手に持っていた獲物の鳥を生のまま食べた。羽根も抜かず血も抜かずに齧り付き、肉をはんで血を飲んで非可食部は吐き捨てた。

 空腹の熊が正気に戻ったのは獲物の鳥を貪り終えてからだった。自分が生の鳥に噛みついて飢えを癒した事に酷く驚き、自分はもうウェンディゴの支配下にあるのだと嘆き、最早集落に帰る事も出来ないと悲しんだ。衝動に駆られた状態のウェンディゴ症候群の人間の目には、人間は肉にしか見えないのだと聞いていたからだ。

 しかしそれでも、空腹の熊の背後の何者かは追跡をやめなかった。空腹の熊は、これ以上自分を嘲るのか! と斧を抜いて振り上げながら後ろを振り向き、そして驚いた。

 自分の背後に居たのは、奇妙な生き物だった。痩せたクマの様な肉体か、体格の良い長毛のサルか、頭部は人間の様に大きいが、強いて言うならやはり猿の様な、人間程の大きさの生き物が前足を振りあげ、牙を剥いていたのだ。

 しかし、その生き物が空腹の熊を害するよりも、彼の斧がその生き物の脳天に直撃する方が速かった。そのクマの様なサルの様な生き物は脳天に深々と斧を喰らい、倒れて動かなくなった。

 この光景を見て、常人なら恐れおののくだろう。しかし、今の空腹の熊はウェンディゴ憑きの異常事態だった。この謎の生き物の死骸を見て、彼が感じたのは食欲だったのだ。


 場所は変わって集落、謎の生き物の死骸を殆ど全身一人で平らげて腹がくちくなった空腹の熊は、あのおぞましい飢餓感から解放され、何者かに追跡される様子も無く、友人である眠らない梟の家を訪ねていた。

「やや、お前を追いかけ回していたのは間違いなくウェンディゴだよ。この季節になるとちょくちょく被害者が出るからな、話しを聞く限りウェンディゴに間違いない」

「そうか、つまり俺はウェンディゴを殺して食った事になるのか。ウェンディゴを見ただけでも、俺の人生の一生分の驚きだと思うのだが……」

「ややや熊さん、それは違うとオレは睨むね。ウェンディゴは人間に憑りつく事はあっても、直接危害を加えないって話だからな」

 眠らない梟の否定に、空腹の熊は眉をひそめる。

「あれが俺をつけ回していたウェンディゴじゃないと言うなら、それは一体どういう事だ? あれはウェンディゴとは無関係の動物でも言うのか?」

「ややや、よそ者が来たのは知っているだろう? あれらが船に乗ってやって来た結果、よそ者の精霊も一緒に着いて来てしまったのさ。つまり、ウェンディゴに憑りつかれたお前の後ろに居たのは新しい別の追跡者って事になるな」

「そうなのか、それでよそ者の精霊ってのは何なんだ?」

「や、詳しくは知らん。だが、海の向こうには隠れている背中って精霊が居るらしい。精霊憑きになったお前がよそ者の精霊を打ち殺した事になるな、どうやら精霊の世界もよそ者は疎ましいものらしい」

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