肆
その子を拾ってから、毎日が喜びに満ちていた。
その子は鬼である黒曜に怯えているのに、黒曜が転けたりしたら飛んできてくれるような優しい子だった。
すぐに消える怪我など見せられなかったから隠していたら、沢山のヨモギを摘んで、震える手で渡してくれた。
「これ貼ったら……怪我が治るって……母さんが……」
奪われるばかりの黒曜の手に渡されたヨモギは、少年の手の熱で温かくなっていた。
それはこの子の心の暖かさのように感じた。
悪夢に追われ、その子は夜によく泣いた。
無理もない。
目の前で家族を奪われたのだ。
「たんと泣いて惜しんでおあげ。そなたの涙は、そなたの家族のためじゃ。もう涙を流せぬ家族の代わりに沢山泣いておあげ」
怖がられるだろうと頭を撫でるだけに留めていたら、寝ぼけているのか、夜のうちだけピッタリとくっついて眠るようになった。
胸に寄り添う温もりは、柔らかで、確かな重量があった。
抱き締めると、不思議と自分の体の芯から暖かになるようだった。
自分に怯えているのに、他に頼る物がなくて寄り添ってくるその子が可哀想なのに、愛しくて。
癖の強い髪を撫でながら泣き疲れるのを待った。
警戒心の強いその子との生活は面白かった。
少しずつ、少しずつ彼は寄ってくる。
一日、一日と少しづつ距離が狭まって行くのがわかって、毎日興味深く彼を観察していた。
夏は冷やした瓜を切っておくと、そっと寄ってきて、気がついたら夢中で食べていた。
秋は月見をしようと誘えば、背の丈より大きなススキをとってきてくれた。
冬は寒さに負けて、彼はついに横にくっついてきて、火鉢で餅を焼きながら共に雪を見た。
人の子の学校にやれば、こちらに帰ってきたがらなくなるかもしれないと寂しく思っていたが、その子はいつも寄り道もせず黒曜の庵に帰ってきた。
「俺が居ないと黒曜様、困るでしょう!」
そんな事を言って、いつも彼は外界の話をしたり、花なんかを摘んで帰ってきてくれた。
今のうちに人間たちと慣れていて欲しいと、遊んで帰っておいでと言っても彼は飛んで帰ってきた。
「良いんだよ。他の子には沢山友達もいるし、家族もいる。黒曜様は俺だけだから!」
そんな事を言って寄り添ってくれた。
寂しい黒曜の心内を知っているような不思議な子だった。
スクスクと育つのが嬉しくて、どんどん賢くなるのが誇らしくて、それなのに心根はとても優しいままで、幸せな時間だった。
一緒に過ごせる時間が終わりに近づくと、切なくて堪らなかった。
一緒に老いる体があればと何度思ったか。
「貴女の永遠の一部を俺にください」
だから再会した彼の望みを断る事は出来なかった。
自分が厄災を運ぶ事も、大事な子の時間を食い潰してしまう事からも目を逸らした。
いつかはこの子もつがいを見つけて、世話を焼く自分は必要ではなくなる。
その時までだ。
そう言い訳して、再び共に過ごせる貴重な時間を噛み締めた。
その子が。
「貴女が全部欲しい」
などと。
———愛してる
———俺が守る
———全部欲しい
———俺だけのものになって
流れ込む、強烈な求愛。
勘違いではない。
心の声を欺ける者はいない。
こんなに強烈に求められた事がない。
どうしたら良いのかなわからない。
どうしたいのかもわからない。
あの小さな子が求愛を。
「……………………は!!」
黒曜は飛び起きて、周りを確認する。
薄暗いそこは黒曜に与えられた寝床だ。
「………ふぅ……夢かえ」
そう呟いて額の汗を拭う。
生々しい夢だった。
「残念ながら、現実です」
「ひぇっ!!!」
ホッと息を吐いていた黒曜は飛び上がる。
下を見れば、黒曜の布団に大きな人影か寝転がっている。
……この光景一度見た事がある。
以前はもっと狭い寝台で、中太郎はニヤニヤと笑っていたが。
「俺の求愛で倒れるって酷くない?」
今の中太郎は大いにいじけた顔をしている。
黒曜は驚きすぎて声が出ない。
口をパクパクと動かす事しかできない。
「俺なりに頑張って正直に黒曜様が欲しいって言ったのに、白目むいて倒れるってどういう事」
もそもそと動いた中太郎は、逃がさないと言いたげに、上半身を起こした黒曜の腰に手を回す。
「しかも夢と思って安堵するってどういう事?俺の物には絶対なりたくないって事?」
グイグイと彼は腰の手に力を込めて、身を起こしながら、黒曜に顔を押し付ける。
「こ、こりゃ!!何をしておる!!」
「愛情表現」
「何も表現されておらんぞ!!」
「求愛行動」
「そなたは人間じゃろうが!!」
「人間も動物だよ。あ〜柔らかい」
「や、やわらか……………変態かえ!!」
「欲情もするよ。そりゃあ」
「よ………!!?」
臍の少し上あたりにある顔を黒曜は押し返す。
しかし中太郎はビクともしない。
「こりゃ!何の悪ふざけかえ!!こういう婦人に向けた冗談は悪質じゃぞ!!」
「冗談じゃないから大丈夫。あと、俺がこんな事をするのは黒曜様だけだから世間的にも問題なし」
「問題だらけじゃ!!取り敢えず一度離れぬか!!」
「もう我慢するのやめたから無理」
「何を駄々っ子のような事を言っておる!!」
腰にしがみついていた中太郎は、上に移動して黒曜の上半身にのしかかる。
「ぅのっ!!」
非力で無能な妖である黒曜は抵抗するすべもない。
上に移動してきた中太郎の重みに負けてひっくり返る。
肩の辺りに取り付いた中太郎と一緒に寝転がる形になり、顔の近さに驚いた黒曜は背を張って逃げようとするが、やはり中太郎はビクともしない。
「中太郎……一体どうしたというのじゃ」
「言ったじゃないか、黒曜様。我慢をやめたんだよ。……真剣に求愛したら気絶されるって。俺、立つ瀬がないじゃないか。………開き直るしかないじゃないか」
クシャリと歪んだ顔を見て、黒曜は「あ」と口を押さえる。
「違う!違うのじゃ!中太郎が嫌とかなんとかいう話ではないぞ!?あ〜〜……ちぃと驚き過ぎての。曽々々祖母よりも歳上の者に求愛と言うのは、世間的にはまずないことじゃからの」
「……まず、普通はその年齢差で人間は生きてないからね」
「うむ……まぁ、おかしい事なのじゃ。気を迷わせてはならぬ」
中太郎の顔が益々歪む。
「気を迷わせるって何?俺の要求はいつも一つだけだよ。黒曜様と一緒にいる事。添い遂げる事。全く迷った事ないよ?」
「……一直線に迷っておるな。妾はそなたが必要なくなるまで側におるが、そなたが添い遂げるのは人間の娘じゃ」
ジリジリと距離を狭める中太郎の顔を黒曜は押し返す。
「残念ながら俺は他の女に興味はないから、俺が死ぬまで黒曜様は俺のそばにいる事になるよ」
歪んだ顔の中太郎に黒曜は溜息をつく。
どうも中太郎は黒曜が離れたがっているように思っている節がある。
黒曜がどれ程彼を大事に思っていることが通じていない。
「妾はそなたの元を離れたいとか思ってるわけではない。よいか?そもそも妾は……」
「五百年生きている鬼で人間じゃない。知ってるよ。それでも黒曜様が良いんだ」
横に転がった中太郎は黒曜を引き寄せる。
———こんなに愛してるのに伝わらない。
中太郎の胸元に顔が触れ、中太郎の心が黒曜の中に伝わってくる。
———触れたいと思うのも俺だけ。
———寂しい。
———愛して欲しい。
渦巻く中太郎の切ない想いに黒曜は困惑する。
黒曜は胸に抱かれたまま、何とか手を伸ばして、中太郎の頭を撫でる。
「中太郎、妾はそなたを愛しておる。……ちぃと中太郎が望んでおる形とは違うようじゃが」
ぎゅっと力を込めて抱きしめられて黒曜は苦笑する。
———拒否しないで。
———逃げていかないで。
中太郎の不安に揺れる心の声を宥めるように、優しく頭を撫で続ける。
「中太郎。妾はそなたを拒否したり、遠ざける事はない。むしろ逆じゃ。ずっと一緒にいたいと願っておるし、そなたが望む事を可能な限り何でも叶えてやりたいと思っておる」
そう伝えると、少し中太郎の力が緩み、少し離れる。
黒曜はそんな彼の顔を見て笑う。
「しかしの……業の深い事じゃ……」
あっという間に少年から青年になってしまったその鋭い顔立ち。
黒曜の微笑みは悲しさを増す。
「妾の思いは本当にそなたの思う形ではない。根深くて……歪じゃ」
自嘲混じりに黒曜は吐き出す。
「妾はそなたが可愛い。そなたが思う以上に、そう思っておる。………じゃからの、そなたを永遠に失う日が恐ろしい。その日を思うだけで苦しく、死ねぬこの体が憎くなるのじゃ」
彼の頬を撫でると、彼の困惑が黒曜に伝わる。
「だから、せめて………せめて、そなたの血を引く子供達が残ってくれれば、と、考えてしまうのじゃ。そなたがこの世から欠片もなく消えてしまう事はない。どこかしらに、そなたの面影を残す子等が生きているなら……この世が地獄になることもあるまい、と……」
黒曜の寿命はどうあがいても尽きない。
中太郎の寿命はどうあがいてもいつか尽きる。
「そばに居て、そなたが望むなら、それに応えることは可能じゃ。体も好きにすると良い。しかし……そなたを永遠に失いたくはない。妾は不老不死故、人の子は成せん。そなたは人間の娘を娶り、この世の何処かにそなたの欠片を残して欲しい。……そう願ってしまうのは妾の我儘じゃろうか?」
中太郎が黒曜を欲しいというなら全て与えていい。
しかし黒曜は人ではないのだ。
姿だけ同じなだけで、違う時間を生きる鬼なのだ。
鬼に惑わされて中太郎が道を踏み外せば、中太郎は寿命という別れによって、永遠に失われてしまう。
子は親と同じわけではない。
しかし愛しい者の血を継ぐ存在がこの世のどこかに居ると思うだけで救われる。
一緒に居たいのに、先ばかりを見て、一緒に居られる時間を手放すのは愚かだろうか。
今を大事にして、先の苦しみを見ないふりをする事の方が賢いのだろうか。
黒曜には判断がつかない。
中太郎は顔をクシャリと歪ませる。
「俺は……俺は黒曜様が欲しい。黒曜様だけが欲しい。……他の誰も要らない。黒曜様に、俺と同じように俺を求めて欲しい。それだけなのに……」
そして今度は中太郎が黒曜の頬に触れる。
「貴女を独りにしないと確約出来れば貴女は俺に振り向いてくれる?求められたからと義務のように俺に応えようとしない?ずっと慕ってきた貴女に……他の女を選べとは言われない?」
頬に触れた手からは深く傷ついている中太郎の嘆きが伝わってくる。
黒曜は大切な彼を傷つけている。
黒曜の望みは中太郎にとって残酷な要求だったのだ。
そして求められたからと自らの体を与えることも、残酷な事だったのだ。
しかしわかってもどうしたらいいのかわからずに、黒曜も中太郎の頬を撫でる。
長い時を経て、自分の心は何処かが死んでしまっているのかもしれない。
漸く黒曜はその事に思い至る。
「泣かんでたも。すまぬ。義務とかではなく……妾は本当にそなたが大事なのじゃ。喜んでくれるなら何でもしたいし……そなたを失うのが恐ろしくて堪らんかったのじゃ……。泣かんでたも。もう無理は言わぬ。全てそなたの思うようにしよう。………お願いじゃ、泣かんでたも」
今にも泣きそうに顔を歪める中太郎に黒曜は何もできない。
今の黒曜には何もない。
甘い金平糖も、中太郎の好きな果物も何も持っていない。
そして中太郎が望んでいる形にもなれない。
彼の悲しみを止める術がない。
どれほど傷ついているのか伝わって来るのに、その傷の治し方がわからない。
「黒曜様……俺はそんなの望んでいない。無理に形を変えた貴女の心は要らない。………右太郎が言ってたのはこの事だったのか……」
中太郎が最後に小さく呟いた言葉の意味がわからずに、黒曜は首を傾げる。
中太郎の心の中に、『お前がどーしてもって思うんなら、まず、御方様の心を人間の小娘にもどさねぇと難しいだろうな』と言う右太郎が見える。
———孤独に食い破られた心を治す
———孤独から黒曜様を引き離す
唇を引き結んだ中太郎からそんな心の声が伝わる。
———でも今言うのは無責任かもしれない
———期待を裏切らない確信はない
同時に迷う心も聞こえてくる。
暫し目を閉じて迷った後に、中太郎は口を開いた。
「……確かでないから黙っていたけど……俺も黒曜様と離れない方法は探している。黒曜様の寿命に終わりを作るか、俺の寿命を伸ばすか」
頬を撫でていた黒曜の手をしかと握り、褐色を帯びた瞳が真っ直ぐに黒曜の目を見ている。
嘘のない言葉を黒曜に伝えようとしている。
「はっきりいって、どちらも上手くいっていない。今のところ上手くいきそうなのは転生後も記憶を残す方法くらい。……でも次、自分が人間に生まれて来られる確証はないからね。虫や植物になんかなってしまったら、記憶はあっても、それを使いこなせないし、その次の転生に賭ける為の準備もできない。そこで終わりだ」
黒曜は目を見開く。
「そんな……そんな事を……」
そんな黒曜を見て、その鋭い目が細められる。
「言ったでしょう?俺の望みは黒曜様だけだ。表稼業は書籍や最新の研究の情報を得られやすいからやってるだけだし、裏稼業は禁忌に触れる術も研究できるようにやってる。でも不老不死は大昔の皇帝がその権力を使っても成せなかった人類の悲願だし、その不老不死を取り消す方法なんかも勿論誰も研究したりはしてない。完全な手探りで、確約なんて全然できない状態だ。……最悪、犬神と同じ方法で妖になる事も考えている」
黒曜は鋭く息を飲む。
そして犬神を作り出す、その残酷な方法に身を震わせる。
飢餓に追い込み餓死する寸前に首を落とし、その首を辻に埋め、人々に踏ませる。
黒曜の頼りになる従僕・右太郎を、未だに激しい憎悪と捨てられぬ敬愛で狂わせる恐ろしい術だ。
「な……ならん!!そんな事、ならん!!!絶対ならん!!!」
「わかってる。そんな事をしたら黒曜様が悲しむって知ってるから、今の所はしない予定だよ」
声を張り上げる黒曜に中太郎は苦笑する。
「転生に賭ける方法も、今の所イカサマ野郎と博打するような状態だけど……そんな方法もある。俺はこの体が無くなっても、虫になっても木になっても絶対黒曜様を思って、この世にまた生まれて来ることだけはできるよ。何処かで貴女を思っている。……これでは俺の欠片をこの世に残す事にはならない?」
中太郎はそう言いながら黒曜の頬を撫でる。
「……虫なんかになったら鳥に啄ばまれるかも知れんし、妾も気がつかずに踏んづけるかもしれぬ」
「うん」
「木なんかになったら動くことすらできずに何千年も生きるかもしれぬし、草じゃったら、妾は気がつかず引っこ抜いてしまうかもしれぬ」
「うん」
「妾なんかの為にずっと酷い目にあうかもしれぬではないかえ」
「うん」
「ならん……そんな事はならん」
「でも、どうせ死んだら何かには転生するよ。地獄でお勤めにならない限り」
「中太郎は良い子じゃから、上に行く事はあっても下はない。……摂理を超えた事をせんでたも。人以外が人の心を引き継ぐなど、悪夢にしかならぬ」
中太郎の手が黒曜を宥めるように撫でる。
「大丈夫。最悪自分で動ける犬猫あたりに転生できるように、今、色々やってるから」
「犬猫では……妾が気がついてやれぬではないか」
「でも俺はきっと黒曜様を探し出して、近くへ行くよ。心だけはずっとそばにいる。それでは駄目?」
中太郎の姿が歪んで見えない。
黒曜の頬を撫でる、中太郎の手が水を拭う。
「黒曜様、泣かないで」
そう言われて黒曜は自分が泣いている事に気がついた。
目頭が熱くて、熱い雫が鼻を伝って冷たくなって溢れ落ちる。
何度も中太郎が拭ってくれるのに、それでは全く足りないほどそれは量を増して行く。
「な……何でじゃ………。おかしいの……止まらぬ……」
胸がひどく熱い。
その胸の熱い塊を押し出すように涙は出続ける。
こんなに誰かに、思われたことがあっただろうか。
決して中太郎を苦しませたいわけではない。
しかし独りにしない、ずっとそばにいるという、その気持ちに胸が熱くなる。
この気持ちにつける名前を黒曜は知らない。
はち切れそうな熱い感情と、温かい湯に身を浸したような緩やかな安堵が入り混じって、何と言えば良いかわからない。
「俺は子供を残さない。その代わりに必ず俺自身が黒曜様のそばにいられる術を見つけるよ。まだ、今は雲をつかむような話だけど」
ついにはしゃくりが出るほど泣き出してしまった黒曜を中太郎は抱きしめる。
「絶対に、と、言えないところが情けないけど。いつかずっとそばに居られるようにするから。だから……その時は俺をちゃんと見てね」
ポンポンと赤子を宥めるように中太郎は背中を叩く。
「な……何で……妾のために……そんなに………」
しゃくりも出るし、鼻水も出る。
まともに話せない黒曜に中太郎は笑う。
「そりゃあ……黒曜様は俺の通算十七年越しの初恋の人だからね。何でもするよ。命の恩人でもあるし。俺にとって黒曜様以上のものなんてないんだから、そりゃあ執着するよ。……男としては全くもって、爪の垢ほども、完全に歯牙にもかけられていないのは流石に堪えたけど」
中太郎は乾いた笑いを零す。
そしてグシュグシュと自分の胸に縋り付いて、子供のように泣いている黒曜を見て、眉尻を下げる。
「『人間の小娘』と言うより、幼児になっちゃったね。……いや、退行と言うより、これは生まれ直し、かな」
ヨシヨシと頭を撫でられ、これでは立場が逆ではないかと黒曜は思うが、心地良さにそのまま甘えてしまう。
何故だろう。
急に体から力が抜けている。
中太郎は無能で何もできない黒曜でも受け入れてくれる。
そして黒曜を突き放さない。
ずっと添ってくれようと思っている。
その事実が急速に体の中に安堵を満たす。
「黒曜様の育て直しもあるし、秘術の完成も目指さないといけないし、日々の糧も稼がないといけないし、やる事が多いな」
そんな事を言いながらも中太郎は嬉しそうだ。
何度も黒曜の髪を手に絡ませて梳く。
「そうそう、秘術を完成させたは良いけど、受け入れてもらえないなんてなったら立ち直れないから、男として見てもらうように努力しないとね。……もう我慢もやめたし」
そして指を絡めていた黒曜の髪をノックするように軽く引く。
涙と鼻水を出して、幼児のように見栄も外聞もなく、思い切り泣いている黒曜が顔を上げると、中太郎は小さく吹き出す。
ズボンを探って彼は手巾を取り出す。
そして丁寧に黒曜の顔は拭われる。
ホッとするような優しい感触に黒曜が目を閉じると、まだ涙が溢れ出る目頭も丁寧に拭われる。
そしてクスリと笑った声が聞こえた後に、布ではない感触が黒曜の頬に当たる。
柔らかくて、暖かい。
———愛してる
そして熱い感情が流れ込んでくる。
「んなっ!?」
驚いて目を開けると至近距離で中太郎と目が合う。
「噛み付いたりしないよ」
鋭い目が
「ひゃっ!!!」
そしてまたその目が閉じて、逆側の頬に唇があたる。
———可愛い
「な、な、な、何を……」
「愛情表現。食べたりしないよ。大丈夫」
慌てて離れようとしても、体は力強い手に押さえられてビクともしない。
———愛してる
右の瞼に。
———離さない
左の瞼に。
———ずっと一緒にいる
左の眦に。
———離れない
右の眦に。
次々と顔を啄まれ、その度に熱い感情を注ぎ込まれる。
「ちゅ、中太郎!!」
焦って黒曜が胸を押すと、わざとらしい、罪のない笑顔を返される。
「黒曜様、俺になら何をされても良いって言ったでしょ」
「言った……言ったがの……!!」
ますます中太郎の笑みは深くなる。
少し深くなりすぎて、罪のない笑顔から、何か黒い物が吹き出しているようだ。
「別に俺は黒曜様に肉欲をぶつけたいだけじゃないよ。挿れて快楽が欲しいだけじゃない。そりゃあ男だからね。抱きたいよ。でもそれは黒曜様を愛したいからだ。心が伴わない交わりは要らない」
そう言って中太郎は愛の言葉と共に耳の付け根に口づけをする。
「だから取り敢えず、こうやって思いを伝えて、心を交わらせる努力をしないとね。後、俺は絶対に黒曜様を食べないって身をもって知ってもらわないと」
そのまま首筋に唇が流れる。
「嫌とは言わないよね?俺になら何されても良いんでしょう?」
首筋を甘噛みされて黒曜は飛び上がる。
「ひぃっ!!………言った!言ったが……!!」
「男は女に乗って腰振ったら満足すると思ったら大間違いだよ。………俺は黒曜様の心ごと欲しいんだ」
笑って中太郎はまた頬に口付ける。
———貴女が丸ごと欲しい
ストレート過ぎる心の囁きに、黒曜は口をわななかせる事しか出来ない。
顔が火を噴いているのではないかと思うほど熱い。
「……よし、このまま、あの小説の冒頭を再現してみようか?」
「…………!!!!」
黒曜の叫びは声にならない。
中太郎はクスクスと笑い出し、そんな黒曜を抱きしめる。
「嘘、嘘。……俺からはこれ以上しないよ」
可笑しそうにそう言った後、彼は表情を少し引き締める。
「でもこれ以上されても良いと思ったら……黒曜様から口付けして欲しいな。唇に」
黒曜は戸惑うが、真剣に見つめられて、小さく頷く。
それを見て中太郎は大きく頷く。
「その時は積極的、かつ情熱的にお願いしたい」
「…………〜〜〜〜中太郎!!」
真面目な顔でふざけた事を言い出した中太郎を黒曜は睨む。
中太郎はまた笑いながら黒曜を抱きしめる。
楽しそうな彼の顔と、流れ込んでくる暖かい感情にいつしか黒曜も笑い出してしまう。
先の事はわからない。
でも今はとても幸せだ。
何故だろう、今だけは遠い未来を憂う気持ちが湧かない。
近い未来の幸せな生活だけが思い浮かぶ。
そう遠くない日に口付けを返す予感を感じながら、黒曜は中太郎の胸に顔を埋めた。
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