弐
尊い。
彼の視線の先には、磨き抜いた鉱石のような輝きを持つ黒髪が広がっている。
夜明け前の薄闇の中でもその黒髪は美しさを損なわれない。
そしてその黒髪の持ち主は暗闇でも輝くような白肌で、健康的な寝息をたてて眠っている。
もう夏の始まりがそこまで来ているので、少し蒸すのか、時々小さな声を出しつつ布団の上を転がる。
はだけた胸元と、無邪気な寝顔の取り合わせは至宝だ。
彼はそんな事を思いながら、うっとりと彼女を見つめる。
この黒髪の女性の名は黒曜。
『困ったのう……名前かえ……。なんと呼ばれていたかのぅ……』
初めて出会った時に名を聞くと、困り顔で答えた彼女に彼が名付けた。
そしてその黒曜もまた、彼に名前をつけた。
彼女の従者兼保護者の右太郎、左太郎に因んで、中太郎、と。
彼女の名付けのセンスは壊滅的であったが、彼は殊の外、この名を気に入っている。
彼女が愛おしそうに中太郎と呼ぶ、この名こそが自分の本当の名だとすら思っている。
今では生まれ持ってつけられた和総という名前が、他人の物のようにすら感じる。
「ん………」
コロンコロンと寝返りをうっていた黒曜の瞼が震える。
それを見て慌てて『中太郎』は襖を跨いだ自分の布団に転がる。
そして薄目を開けて黒曜の観察を続ける。
朝日が差し込むと、彼女は起き上がり、座ったまま、大きく伸びをする。
そして中太郎の方を見た黒曜は、小さな笑い声をあげる。
「寝相の悪い子じゃのぅ」
そう言って中太郎に薄い布団を掛ける。
そしてついでのように頭を撫でて、黒曜は再び自分の方の部屋に戻る。
襖の影で身支度を整える音がする。
一緒の部屋で寝られたら、その姿も見られたのだろうが、流石にそれは叶わなかった。
『離れてからずっと独り寝で寂しかった』と言って黒曜の情に訴えようとしたのだが、黒曜は盛大に悩んだ後に、首を振った。
『男女七歳にして席を同じゅうせず。……庵の時は場所がなかったから仕方なかったが、この家は部屋数も多いじゃろう?母子でも距離が近過ぎるのはいけない事じゃ。ちゃんと弁えねば』
家は手狭にすべきだった。
そう後悔しても遅い。
それならと、隣の部屋同士で寝て、襖を開けておく事を交渉で勝ち取った。
間に襖はあるが実質同じ部屋で寝ているような物だ。
後はいかにこの距離を詰めるかだ。
身支度の終わった黒曜が雨戸を開けたり、朝食の支度をする音を聞きながら、中太郎は画策する。
会いたくて、恋しくて、捕まえたくて。
必死に追いかけてきた初恋の
今まで想いを寄せてくる女など腐る程いた。
その辺の男達より多少外見が良く、華族という肩書きを持っているからだろう。
何をすれば好感を得て、何をすれば失うか。
その向けられる感情の避け方、利用し方。
大体理解している。
自分に興味がない女性でもどう扱えば、思い通りに動かせるようになるかも弁えている。
そうやって世を渡ってきた。
しかし黒曜にだけは培ってきた技能が通じない。
黒曜はかなり初心だが、世の女性と大きく特性が異なるわけではない。
しかし唯一点。
大きく違う所がある。
中太郎に対する打算抜きの深い愛情だ。
愛しくて、愛しくて仕方ない。
黒曜にとって中太郎は、どんなに成長しても可愛くて仕方ない『息子』なのだ。
今のまま、どんなに好意を伝えても『母』として喜んで受け入れられ、倍になって返ってくる。
そして自分だけ溺れて、ますます泥沼にはまるのだ。
まず『息子』の枠から出て『男』である事を認識させないといけない。
中太郎が黒曜の中で、縁もゆかりもない、ただの綾藤和総であった時の方が『男』として扱われていた。
頬を染めたり、困ったり、戸惑ったり。
それは愛らしい反応の数々だった。
思えばあの状態で黒曜を落として、正体を明かすべきだった。
……などと、今更後悔しても遅い。
『中太郎』として彼女に愛される事は無上の喜びで、我慢することができなかった。
何より彼女に甘やかされるこの生活は、阿片よりも強力く中太郎を惑わせる。
美味しい匂いが漂ってきた所で、黒曜が寝たふりを続ける中太郎の元にやってくる。
「中太郎、起きてたも。中太郎」
そう言って布団の上から体を軽く揺すられる。
「今日は中太郎の好きな、葱とお麩がたっぷりの味噌汁じゃぞ。ほら、起きて作りたてを食べてたも」
寝たふりを続けていたら、優しく耳に囁かれる。
(最高すぎる……)
内心悶えながら中太郎は今起きましたという顔で目を開ける。
すると割烹着で微笑む、可愛い
(福眼……)
毎朝の事なのに、感動に彼は打ち震える。
「ふふふ、お寝坊さんじゃのう。そのように惚けておらずに、顔を洗ってちゃんと目を覚ますのじゃぞ」
黒曜も毎朝惚ける中太郎に慣れていて、笑って手巾を手渡す。
完全に寝惚けていると思われている。
幸せを噛み締めつつ、中太郎は身支度を整える。
今のままでも凄く幸せだ。
彼女が生死不明だった時に比べたら、極楽のような生活だ。
しかし人間の欲とは際限がないものだ。
『奥様』
あの言葉が心を揺さぶる。
彼女が夫としても自分を愛してくれたなら。
自分の愛に応えてくれたなら。
自分と同じぐらい自分に執着してくれたなら。
そう考えただけで胸が高鳴り、想像に身をよじる。
「これ、上太郎。卓の上に乗ってはならん。高椅子を作っておるじゃろ?西太郎も箸で遊んではならんぞえ」
しかし現実はそうそう上手くいかない。
朝日の中で繰り広げられる朝餉の風景は、まるで百鬼夜行だ。
清々しさのかけらもなく、大衆食堂に集う肉体労働者の如く、妖怪たちが卓の周りにひしめき合っている。
「中太郎は右太郎の隣じゃぞ」
特に中太郎が上座ということもなく、特別に用意された席でもない。
皆と同じように用意された席に着き、丁度の量が盛ってある朝食を食べる。
「右、左、中と来て上と下。次に何とつけるかと思ったら方位できたか」
「ツッコミ所はそこか?全員が『太郎』だって事の方が俺は気になるぞ」
「それは今更だろう。私に左太郎と名付けた時にツッコむべきだったな」
ひしめき合う食卓で一際大きな妖二匹が、中太郎に気がつき、手を振る。
「今日も粘ってたのか?」
「毎朝ご苦労な事だ。御方様の気を引くために寝床でじっと待つなどと。『手のかかる子ほど可愛い』になっているぞ」
中太郎が卓に着くと、ニヤニヤと二匹が話しかけてくる。
犬神である右太郎と、猫又である左太郎。
二匹とも齢三百を超える大妖であり、家の中の妖で彼らだけ、中太郎の配下ではない。
故に「主人」「あるじ」と口々に言いながら場所を空ける妖怪たちと違って、彼らだけ食卓に堂々と座ったままだ。
「……妖が朝から清々しく食事に出てこないでよ……」
中太郎は溜息交じりに箸を取る。
「朝の味噌汁は一日の始まりだからな」
「今日の魚は鮮度が良い。これを食べずして何を食べる」
二匹は澄まして、毛むくじゃらの手で器用に箸を操り、獣の顔で人のようなことを言って食べ続ける。
中太郎は深々と溜息を零す。
黒曜の作る食事は、美味しい事は勿論のこと、その上、彼女の強い霊力が自然と溶け込むので妖達には大人気だ。
人の霊力は妖達にとって得難い力の源だ。
人を食って霊力を得ようとする妖もいるが、人は死んだ時点でその力が霧散するので、大した効果は得られない。
それに引き換え、黒曜の食事は、美味しく効率よく霊力が取れる。
そのため本来は食べ物など必要がないはずなのに、妖たちはきっちり食事時に集まる。
せめて卓を分けようと提案したのだが、黒曜は妖も人も区別しないので、あまり通じなかった。
卓が狭いのだと了解されてしまって、今では早い者順に食べ抜けていく、非常に落ち着かない食卓になってしまった。
(黒曜様と二人きり……いや、右太郎と左太郎くらいはいても良いけど……)
愛しい妻の顔を見ながら、会話を交わし、穏やかで楽しい朝のひと時を過ごす。
そんな光景を夢見て、中太郎は溜息交じりに味噌汁を飲む。
味は文句なく美味しく、胃に染み渡る。
「妾、賄い所でなら働ける気がするのじゃ」
黒曜といえば、中太郎の気持ちも知らず、そんな事を言いながら、食事の終わった者から食器を受け取って、次々に洗っている。
「刃物がある所は駄目だよ。怪我をして、すぐ治る所を見られたらどうするの」
中太郎は夢見がちな黒曜の一言をあっさり却下する。
「むぅ……」
カチャカチャと器を洗いながら黒曜は悔しそうに黙り込む。
最近の黒曜は、巷で発行されている夫人誌や文学誌を読んで、職業婦人に仄かな憧れを持っているようだ。
勿論、自分の身の事がバレたらいけない事は重々わかっているので、実際に出て行ってしまったりする事はない。
しかし何処かに働きに出て対価を得て帰って来たいという思いはあるようだ。
「
まだそんな事を言っている。
「黒曜様は言動的に端女は無理だよ」
姫として生まれ育った黒曜が、誰かの下でうまく働けるとはとても思えないし、自分以外の奴の世話をするのは面白くない。
中太郎は少し不機嫌に言い切る。
「そうかのぅ?意外と上手くやれそうな気がするぞえ」
食後にお茶を飲む右太郎、左太郎、中太郎の為にお盆にお茶を乗せて黒曜が食卓に戻ってくる。
何を思ったのか、黒曜は満面の笑みを見せて中太郎の横に膝を下ろす。
「どうぞ、旦那様」
そしてその笑顔で中太郎の器の横に湯呑みを置いた。
「………………!!!」
中太郎の箸が焼き魚の乗った皿を盛大にひっくり返す。
「あれ、まぁ………代わりの膳をお持ち致しますね、旦那様」
黒曜は驚いたが、女中ごっこは継続するらしい。
「い、いい。下に落ちたわけじゃないし」
ささっと魚を片付けて、代わりを持って来ようとする黒曜を中太郎は止める。
真っ赤になっている中太郎を見て、ニヤニヤと右太郎たちが笑っている。
「ふふふ。それらしいじゃろ?妾もその気になればそれらしい言動ができるのじゃ。あ、魚は妾のと交換じゃ。万が一食うて腹を壊したらならんからの」
黒曜は能天気に笑って、止める中太郎を振り切って行ってしまう。
「旦那様、良かったな。少しだけいい気分を味わえて」
「旦那様、そういう意味で御方様は呼びかけてねぇと思うけどな」
クックックックと二匹はお茶の湯気を揺らす。
「〜〜〜〜〜〜」
何も言えずに中太郎は頭を抱える。
『旦那様』
そう呼ばれるのも悪くない。
いや、凄く良い。
からかわれているのに反撃できないほど心に響いた。
「まぁ、実際にその意味で呼ばれるのは無理だから、下手な希望は抱かんことだ」
左太郎はフウフウとお茶を冷ます作業に勤しみながら言い切る。
お茶を早速啜っていた右太郎も深々と頷く。
「時々端女ごっこにでも付き合ってもらって楽しめよ」
そして哀れみの目で中太郎を見る。
「………何を根拠に言っているか分からないけど……」
中太郎は反論しようとするが、その語尾に右太郎の言葉が重なる。
「あのな、五百年だぞ、五百年。処女歴五百年だぞ。もう鋼鉄の処女。いや、もう、金剛級だ」
「人間の生で言うなら十回転生しても生涯孤独。最早花に生まれ変わっても蕾のまま腐れる予感しかしない」
左太郎も深く頷いている。
「…………。何の話じゃ?」
新しいおかずの皿を手にやってきた黒曜は、不機嫌そうに眉根を寄せる。
「あ?御方様のモテなさ具合を中太郎に教えてやってるんだよ」
右太郎は悪びれる事もない。
クックックとまた笑い声を上げる。
「……悪かったの。妾は人間の頃から縁談は全てお断りされておったからの。仕方あるまい。うらなり顔の
勢い良く置かれた皿の上で焼き魚が跳ねる。
ふくれっ面の黒曜はそのまま踵を返す。
「ちょっと、何言ってるんだ!!」
中太郎は思わず注意するが、右太郎はどこ吹く風だ。
「で、本人はあの思い込み。醜女に想いを寄せる奴などいるはずがないと、完全に惚れた腫れたは自分に関係がないと思ってる」
「醜女!?」
中太郎は目を見開く。
惚れた弱みを差し引いても、黒曜は美しい部類の顔立ちだ。
「まぁ、御方様の顔が『美しい』とされるようになったのはここ五十年ほどだからな。少し前は一重切れ長の目で面長の女が好まれたし、御方様が生まれた時代は、顎がないほど顔の膨れた鼻なしが良いと言われていたくらいだ。御方様のように大きな垂れ目や、通った鼻筋、小さなお顔は『醜女』と嘲りを受けたんだろう」
「人の『美しい』はアテにならんからな。そのせいか御方様は既に女である事以前に人間でいる事も諦めきっている」
長寿の大妖たちは頷きあう。
「御方様は自分は人間ではないとしっかり自認なさってるからな。お前も雌犬に懐かれたら可愛がるだろうが、それを女として見るなどと考えも及ばぬだろう。それと同じように、御方様も人間相手にどうこうというのは考えられんのだ。諦めろ」
湯気の上がらなくなったお茶を飲もうとして、左太郎はあつっと声を上げ、ビクンと跳ねる。
「お前がどーしてもって思うんなら、まず、御方様の心を人間の小娘にもどさねぇと難しいだろうな」
右太郎は食べ終わった食器を持って立ち上がり、ついでのように独り言を残して立ち去る。
「心を……戻す……」
何だかんだで、いつも的確な助言をくれる右太郎の言葉に、中太郎は考え込む。
「無理無理。高望みせずに今の幸福を最大限に味わつておくべきだ」
左太郎は相変わらずフウフウとお茶を吹きながら、少しづつ舐めている。
「御方様、いじけるなよ。事実を再確認させて悪かったって」
「いじけておらぬ!!怒っておるのじゃ!!」
「ほら、泣いてるじゃねぇか」
「泣いておらぬ!!今更容姿など気にしておらんわ!!」
「とか言って。気にしてるから鏡の類を全然見ないくせに」
「鏡などなくても暮らせるからじゃ!!」
「御方様は
「妖的にじゃろ!!」
子犬のように吠える黒曜を、からかい混じりに慰める右太郎の言葉を聞きながら、中太郎は思案する。
本当に手強い。
でも手立てがないわけではない。
左太郎が例えた、人間と犬と違って、こちらは元人間と人間だ。
意思疎通もできるし、普段の生活では差分も殆どない。
「……旦那様……か」
輝かしい称号を真の意味で手に入れる。
中太郎は残りのお茶をあおって立ち上がった。
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