黒曜の君

ヒソヒソと潜めた声が旅籠のあちらこちらから聞こえる。

「山神様を……?恐ろしい……バチが当たるよ……」

「いや、どう見てもあれはただの娘っ子だよ……」

「気が狂ってる……捌いて心臓を出せって……」

「死体を見ながら食べたいって……気が触れているとしか思えないよ……!!」

旅籠を貸切している華族が持ち帰った、一体の死体。

それはまだ生きているかのように美しい女性だった。

その美しさから死んでいると信じられない程だったが、頭に大きな銃創が空いて、息も既になかった。

その死体は、金袋とともに主人に預けられた。

信じられない事に、猪を狩って来たような気楽さで、調理して出せと言われたのだ。


重い金袋に逆らえず、指示された女中たちは泣きながら、その美しい死体を清める。

「これが『目隠しの鬼』だって?アタシの娘と同じくらいの子じゃないか……!!」

「ううっ……板さん、この子を捌くの?」

「やだよぉ……やだよぉ、バチが当たるよぉ!!」

彼女らは口々に嘆きながら、頭以外は傷一つない死体を拭く。

そして、その死体を調理場に運ぶ。

調理場からも似たような嘆きの声が上がる。


そして夜半近くなった頃、真っ白な布団の上に、真っ白な単を着せられた女性が寝かせられ、刺身のように盛られた肉が、老人の前に供された。

「ふん……この宿の者は仕事が遅いな。しかも刺身とはとんだ手抜きだ」

仮眠していた老人は、氷の上に置かれた、たった三枚の肉片に鼻を鳴らす。

旅籠の主人は深く頭を下げる。

「も……申し訳ございません。生憎と……うちの板前が、怪我をいたしまして……。必要であれば煮付けにさせていただきますが……」

人肉を食らう。

その禁忌に主人の手は細かく震えている。

恐らく板前は『人』を調理することを拒否して、逃げてしまったのだろう。

「まぁ、良い。生肉の方が精がつくと聞くからの」

老人は不気味に笑って卓につく。

そして迷いのない様子で、箸で肉を摘み、血の滴るそれを、口に放り込む。

クチャクチャと肉を噛む音に、主人は口を押さえて立ち上がる。

「うっ……も、申し訳ございません!!」

慌てて部屋を辞した主人が、部屋の外で何かを吐く音を聞きながら、老人は笑う。

「ふん……肝の小さな男よ……」

陰気な嘲笑とクチャクチャという咀嚼音が部屋に響く。


老人は笑いながら二切れ目の肉を箸で持つ。

「ふん、自分で美味いとか言っておったが……ふはは、臭みも無くて良い肉じゃないか」

白い顔で横たわる本人に、その肉を見せつけるようにしながら、老人は肉を口に放り込む。

否、放り込もうとした。

「…………つぅっ!?」

右手に急に痛みが走って老人は箸を取落す。

「ハハハハハ!!箸が噛み付いた!!箸が噛み付いた!!ハハハハハ!!口がない奴が噛み付いたぞ!!」

子供のような高い声なのに、老人のように濁りのある声が、突如老人以外いないはずの空間に響く。

周りを見ても誰も居ない。

「誰だ!?」

老人が声を荒げるが誰も答えない。

その横で落ちた箸が、ひとりでに立ち上がる。

そして二本で支え合うように、箸はヨタヨタと歩き出す。

「誰か箸を拭け!あの汚い唾液を拭いてやれ!」

また誰かが声を上げる。

すると卓の横に畳まれていた布巾が、まるで蛇のようにうねりながら箸を追う。

「ハハハハハ!次は布巾だ!!ハハハハハ!!」

囃し立てる声は近くから響く。

「ひっ!!!」

気がついた老人は飛び上がる。

胡座あぐらをかいて座った座布団。

その胡座の間に、布が寄って口の形が出来ている。

老人が飛び降りると、座布団はゲラゲラと笑いながら、ゴロゴロと転がって動き始める。

「おい、座布団。御方様の頭を上げろ!」

「ハハハハハ、動けもしない奴が偉そうに言うじゃないか!ハハハハハ!!」

ゴロゴロと転がった座布団が女の首を上げ、布巾に拭かれた箸は、器用にその箸先を女の頭の中に入れる。

この世にあらざる光景に、流石の老人も顔色を失い、ヘタリ込む。


「おい、布巾、箸を助けてやれ」

頭の中の何かを引っ張る箸に、布巾が絡まる。

「ハハハハハ!おい、皆々の衆、お揃いじゃないか!ハハハハハ!!」

座布団の笑い声が響く。

ふと見れば、布巾に小さな黒い影が二、三十程、鈴生りにくっ付いている。

一見ネズミのようだが、よく見れば仮面をつけた小さな人影のようにも見える。

「号令をかけるぞ!ソーレ!ソーレ!ソーレ!!」

号令に合わせて影たちは、箸に絡まった布巾を引っ張る。

三回目に引いた時、キィン、と、箸が掴んでいた何かが、外に引き出され、転がり落ちた。

「ハハハハハ!!抜けたぞ!抜けたぞ!!皆の者、抜けたぞ!ハハハハハ!!」

座布団が底抜けに陽気に笑う。

「御方様がお目覚めになるぞ」

もう一つの声も嬉しそうに宣言する。

「ヒィ!!ひぇぇぇぇえ!!!」

ふと上を見た老人は震え上がった。

天井に人二人くらい飲み込めそうな、大きな口と一つ目が浮き出ていたのだ。


「ハハハハハ!!この辺りの付喪つくもや妖どもの主人あるじに手を出したジジィがチビっているぞ!!ハハハハハ!!」

「誤解を招く言い方をするな!御方様は等しく我らを愛してくださるだけで、我らを従えたりはなさらん!」

「ハハハハハ!!似たようなものだろ!ハハハハハ!!」

陽気な笑い声に、小さな黒い影たちが、何やら声を上げて飛び跳ねている。

抗議しているようにも、喜びを共有しているようにも見える。


「ハハハハハ!!ジジィ、冥土の土産に教えてやろう!御方様はな、不老長寿じゃない!!ハハハハハ!!不老不死なんだよ!!ハハハハハ!!!」

「異物が入ってしまった故、復活が遅れたが……あの鉄の塊さえ外に出れば、御方様は目を覚まされる」

「ジジィ、お前は『選ばれる』自信はあるか?ハハハハハ、選ばれても、その老いさらばえた姿で、永遠に変わることなく生き続けるのは地獄だな!!アハハハハハ!!!」

けたたましく座布団は笑う。

「選ばれる………?」

笑う座布団の言葉に老人は反応する。

しかし老人の疑問の声は、座布団の激しい笑い声でかき消される。


「御方様の肉が戻っていったぞ」

天井の口が嬉しげにつぶやく。

見れば卓に置かれていた肉片が消えている。

「ハハハハハ!!始まるぞ!始まるぞ!!ハハハハハ!!この醜いジジィが選ばれるか、御方様が残られるか!!ハハハハハ!!!見ものだな!見ものだな!!」

笑う座布団を頭に敷いた『御方様』はゆっくりと目を開く。

そしてけたたましく笑い続ける座布団に顔を顰める。

「………これ……あまり耳元で笑わんでたも………」

ゆっくりと彼女は起き上がり、床に散らばっていた黒髪がサラサラと音を立てて集まっていく。

月光を受けて黒々と輝く鉱物のような髪は、まさにこの世のものでは有らざる美しさだ。


月の位置を見て、女は小さくため息を吐いた。

「頭に弾が残ったせいで随分と長く寝てしもうたようじゃな。……目覚めに随分と尽力してもらったようじゃ。皆の者、感謝するぞよ」

涼やかな声にそう言われて、小さな黒い影たちがワイワイと何やら言いながら、飛び上がって喜ぶ。

影に混じって、箸と布巾も飛び跳ねるような仕草をする。

「おやおや……箸や布巾に入り込んで……ご苦労じゃったの。もう出ておいで。器物と完全に混じり合ったら危険じゃ」

そう言って踊る布巾と箸を取って、女は優しくそれらを撫でる。

すると箸と布巾から、コロコロと小さな影が出てきて、女の手の上で跳ねる。

箸と布巾は元の器物に戻っている。

「ふふふ、有難う。今は持ち合わせがない故、後ほど甘〜い金平糖を差し上げよう」

それを聞いた黒い影たちは更に大喜びをしているようだ。

「ハハハハハ!!良いな!妖どもは物が食えて!ハハハハハ!!」

笑う座布団を、女は撫でる。

「今度、そなたが破れた時の為に美しい布地を用意しておこう。有難う、座布団」

珍しく座布団は口を閉じて、気持ち良さそうに撫でられている。

「御方様、お久しゅうございます」

女は天井を見上げてクスリと笑う。

「久しいの。……ここは猪村屋いむらやじゃったか。長居させてもらったの」

「御方様が百年前の大火事から私を守ってくださった、ご恩返しを多少なりとさせて頂いたまで。ごゆるりと滞在なさいませ」

天井の言葉に女は苦笑する。

「ゆるりと滞在したいところじゃが……妾の肉をんだ者がおるようじゃな……」

女の目が冷たい月の光を反射して、老人を見つめる。

昼とは違うヒヤリとしたその目に、老人は後ずさる。


女は落ちていた布巾を拾い、着物を捲り上げる。

その二の腕の一部が欠けている。

そう、老人が先ほど食べたくらいの大きさの肉が削げている。

肉が削げ、血が滲み出している所に女は布巾を当てる。

「さて………何から話そうかの……」

そう言いながら、彼女はきつく布巾を巻く。

「まず妾は八百比丘尼やおびくにではない。人魚の肉など食んだ事は無い。よって妾の肉に、そなたの呪いに蝕まれた体を治す力などは、ありはせぬ。あるとすれば更なる呪いじゃ」

彼女は億劫そうに立ち上がり、障子の開いた窓際に腰掛ける。

「呪い………?」

「左様じゃ。妾にあるのは人魚の祝福に非ず。この生の無間地獄の中に、永遠に変わらぬ姿で囚われる呪いじゃ」

彼女は老人を見ずに、月を見ながら話す。

「それが不老不死という奴だろう!!儂はそれが必要なんだ!!」

そう言う老人の顔を呆れたように見て、再び彼女は月を見る。

「そなたは呪いに内臓を蝕まれ、骨を食われ、若さを奪われた。じゃから不老不死を望むのかもしれんが、そなたが『選ばれる』と、その病の痛みを抱えた、年老いた姿で、気が狂うほどの時を生き長らえる事になるぞえ。この身にかかっておる呪いは、その時のそのままの姿でいる事じゃ。若返る事も、病が治る事もない」

彼女はカラカラとガラス張りの窓を開ける。

「先程からその『選ばれる』とは何なんだ!!?」

苛立たしげに言う老人に、月を見ながら女は苦笑する。


「この不老不死から逃れる方法が一つだけあるのじゃ」

春の冷たい夜風が女の輝く黒髪を靡かせる。

「誰かに我が身を食わせるのじゃ。食わせた肉が相手の体に吸収されてしまえば、完全な姿に戻れなくなり、この体は崩れて無くなる」

止まらない腕からの出血で、重くなった布巾を彼女は撫でる。

「じゃあ、食った者が『選ばれる』んだな!?」

色めき立つ老人に彼女は深い溜息を零す。

「そうじゃな。………妾が選ばれた時は、『人魚の肉』と言う触れ込みで、片足の無い行商人が売り込んできての。売り込まれた城主は滋養のある肉なら皆に振る舞おうと、城中の者に肉を一切れづつ配った。……お優しかったが、あまり賢く無い方じゃったからの。まさか『選ばれない』者にとっては、それが猛毒になるなど思わなかったんじゃろ。……妾が肉を食んで三日三晩苦しんで目が覚めた後は……皆、死んでおった。二百余の臣下はことごとく死に、妾だけが生き残った。……『選ばれる』のは奇跡に近い事なのじゃ」

春風に靡く髪が、不吉な影を老人に伸ばす。


「選ばれなかったら……死ぬ!?」

老人は口に手をやるが、もう飲み込んだ肉を吐き出す術がない。

「左様じゃ。……妾が目を覚ました時、件の行商人は気が狂ったように笑っておった。『これで漸く解放される!お前が次の呪われ人だ!!』とな。彼は何百、何千と殺して、ようやっと呪いを引継ぐ者を見つけたのじゃと、泣いて喜んでおった……漸く愛おしい者と同じ黄泉路に旅立てる、と歓喜しておった……」

また深い溜息が彼女の口から漏れる。

「妾はどうしても………この呪いを誰かに押し付けることが出来んでの………しかし人の身に、この長い時間は辛い」

春風が急に強く吹き始め、彼女の髪が旗のように大きく揺れる。


彼女は月に向かって大きく手を振る。

「肉がそなたの体に取り込まれるよう、祈っておる。……呪いで弱った体が持ち堪えてくれると良いの」

月光が彼女に降り注ぎ、雲が降りてくる。

その雲には大きな妖が二匹、乗っている。

「ひっ!!」

老人は壁際まで下がる。

「御方様、お待たせ致しました」

人の二倍はあろうかという、真っ白な毛並みの猫の頭部を持った妖と、マダラ模様の黒ずんだ毛並みの犬の頭部を持つ妖だ。

「世話をかけるの」

猫の妖がそっと女の手を取る。

「いいえ。御方様も……災難でありましたな」

犬の妖は転がった箸などを見て、老人に向かって低い唸り声を上げる。

その犬の鼻面を女は優しく撫でる。

そして目を閉じる。

「さ、帰ろうかの。上手くいけば今日は最期の宴じゃ。皆の者も続け」

二匹の巨大な妖が恭しく、女の両手を片手づつ手に取り、女は宙に浮く。

二匹が乗っていた雲が大きくたなびき、小さな黒い影たちや座布団が踊るようにその雲に乗る。

小さい影たちは雲に乗った途端、首の長い女になったり、舌の長い老人になったり、様々な妖に変わる。

「まっ……待ってくれ!儂は……儂は死ぬのか!?」

老人は四つん這いでそれを追う。

「……天の御心のまま、じゃ」

雲に乗り、天に帰る輝夜姫の如き美しさで、黒髪を揺らして女は答える。

「待ってくれ!!死にたくない!!死にたくない!!儂は死にたくない!!」

老人は叫んだが、女はもう振り返る事は無かった。






その日、山神を食おうとした老人は忽然と姿が見えなくなり、その代わり部屋には干からびた大昔の木乃伊ミイラが一体、転がっていたと言う。

山神の怒りに触れたとか、禁忌に触れた者に罰が当たったとか、様々な憶測が飛び交った。

そんな中、件の老人が泊まっていた旅籠屋から、百鬼夜行が現れたのを見たと言う者がでた。

この世のものとは思えぬ美しい女の妖が、長々とした妖の行列を率いて、西の空に消えていったと言う話が一時期流布したが、真相は闇に消えた。






「中太郎が中々落ち着かなくて遅くなっちまいました」

百鬼夜行の先頭で、犬の頭の右太郎がすまなそうに黒曜に頭を下げる。

黒曜は首を振る。

「中太郎は…………いや。上手くやってくれたかの?」

そして何か聞こうとして、黒曜は途中で止める。

「つつがなく。兼ねてより約束しておりました東京の貴人の家に養子として引き取らせ、学校も移る手続きを済ませております」

「…………有難う。辛い役目を振り分けたの」

猫の頭の左太郎は、大きなその頭を慰めるように、黒曜に擦り付ける。

「……御方様、これで本当に良かったのか?」

暗く沈んだ顔の黒曜に右太郎は問いかける。

彼女に『黒曜』と名付けた少年は、妖たちから遠く引き離され、安穏とした人間の生活を手に入れるだろう。

しかし黒曜には離別の悲しみしか残らない。

「うむ………人の子は人の世で生きていかねばならぬ。呪いも無くなった今、あの子を手元に縛る理由はない。………本当は色々と語りおうて、精一杯祝福して送り出したかったのじゃが……」

寂しげに黒曜は笑う。

最後に見たのが、あの泣きそうな顔だと言うのが心に刺さる。


御方様、御方様、と周りの妖が心配して寄ってこようとするのを、左太郎はしっしと追い払う。

「たんまりと持参金も持たせ、布も持たせた。これ以上の祝福はありますまい。養父母も我らが選び抜いた。中太郎は幸せになります。もうお忘れください」

そう言い切る左太郎に右太郎は顔を顰める。

「おめぇは情のわからねぇ奴だな!!」

「何だと?」

「御方様はお寂しいんだよ!!忘れろなんてねぇだろ!!もっと気持ちに寄り添えよ!!」

「ふん!!流石、犬っころ!!あのチビ助に情を移したな!?随分と可愛がって送迎もしていたからな!矢張りお前は人間に尻尾を振っているのがお似合いだ!!」

「お前だって買い物に行く度に中太郎にオヤツだなんだと与えて甘やかしていただろうがよ!!」

「何ぃ!?あれは……」

更に言い争おうとしていた二匹を黒曜は抱きしめる。


「すまんの。………人の子は、ちと我らに温か過ぎた。そなたらにも辛い思いをさせるの」

小さな黒曜に抱きしめられた二匹は顔を見合わせ合う。

「……御方様、今からでも遅くはない。あの子を眷属に入れましょう?」

黒曜は首を振る。

「でも中太郎の奴も御方様のお側にいる事を望んでましたぜ?」

やはり黒曜は首を振る。

「何もわからぬ幼子の未来を、妾らの我儘で手折る事は出来ぬ。……あの子は人の世で人としての幸せを得る。あの輝くような魂を、不老不死の化け物の一時を慰める玩具にしてはならぬ」

抱きしめられた二匹の頭に、小さな雨粒が落ちる。

右太郎は慌てて、大きな舌で黒曜の顔を舐める。

左太郎は忙しく袂を探る。

「ほら、御方様!金平糖です!」

そして探し当てた小さな小袋を黒曜の手に乗せる。


涙を零していた黒曜は、その袋を見て微笑む。

「……あの子にも持たせてやってくれたかの?」

左太郎は大きく頷く。

「ええ。毎日食べてもなくならないほど、たんまり」

黒曜は涙を零しながら笑う。

そして小さな袋を開いて、一粒口の中に放り込む。

「甘いの……」

「はい」

「あの子も大好きじゃったの……」

「はい」

「…………寂しいの」

「…………はい」

ハラハラと涙をこぼす黒曜を包むようにしながら、妖たちは空を走る。

人間の少年は人里に帰した。

山には再び静かな季節が巡ることになるだろう。



誰も、この妖たちが流した涙の事は知らぬまま。

愚かな男の神狩りの寓話のみがその地に引き継がれる事となった。

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