2.諸行無常、別れは絶えずとも新たに出逢う。
何人もの指がキーボードの上を踊る音が部屋に響く。
目の前で自分が用意した書類に目を通す上司は一通り確認を終えると、一つ息を吐いて此方へ笑いかけた。
「うん、流石だね神村くん。仕事も早いしミスも少ない。うちの部署には勿体無いくらい優秀でとても助かるよ。」
「いえ、滅相もない。これくらい誰にでも出来て当然なのですから。」
そんなことをさらりと言ってのければ背後にチクリと刺すような視線を僅かに感じるも彼は無視を決め込む。
上司はそれに気付いているのか、苦笑して「それは心強い。では、これからも頑張ってくれ。」と言うと自分の後ろの方へと目配せをした。
此方がそれに気付かないとでも思ったのか、軽蔑の感情をささやかに抱きながらも一礼して自分のデスクへと踵を返せば振り返った瞬間何人かの同僚と目が合って、彼等はそそくさと視線を逸らして自らの業務へと集中し始めた。
「(馬鹿馬鹿しい。自分の無能を棚に上げて他人を僻む暇があれば、その分努力すれば良いだけだと言うのに。)」
小さく鼻をならして気を紛らわせると己のデスクの椅子へと腰掛け、彼──
「神村くん、ちょっと良いかい?」
暫くして、昼休憩に入ろうとした所を上司に呼び止められた。
周りでは「どっかでランチ食べよー」「今日の食堂、日替わり何だっけ?」などと口々に騒ぐ同じ社員達から煩わしげに視線を背けて、静かな場所へ移動しようと手にしていた弁当と休憩中に読む予定だった文庫本をデスクに置いて自分を呼ぶ上司の元へと向かった。
「はい。」
「休憩中に悪いね。……病院から君の母親の事で急遽連絡が入った。」
おっとりとしたものから真面目な雰囲気へと変わった上司の表情に、僅かに動揺が胸の内をざわめかす。
ポーカーフェイスのつもりだったが口角が震えてしまい、心境を察した上司は彼の肩に手を置き「落ち着いて聞いて、まだ大丈夫だから。」と安心させるように穏やかな声音で語りかけた。
「今日は午後休にして、残りの業務は僕や他の人でやっておくから……君は直ぐにお母様の元へ行ってあげなさい。」
「わ、かりました。……では失礼します。」
足元がぐらついた気がしたけれども情けないところを見られる訳にもいかず、踏ん張りを聞かせてデスクに掛けられた自分の鞄を手に取り手早く帰る身支度を進めていると、それを見た同僚達が声をかけてきた。
「あれ? 神村もう帰んの?」
「えっマジ? さっき頼んでた資料どうなったー?」
相も変わらず他力本願な同僚に苛立ちを覚えるが、デスクの横に伏せていた書類の束を少々乱暴にその同僚へ押し付ければへらりとした奴が「サンキュー! やっぱ頼りになるなー、お前は!」と笑うので、思わず目の前だと言うのに盛大な舌打ちを鳴らしてしまった。
すると驚きの顔へと変わった奴等は怯んでたたらを踏むので、むしゃくしゃとした一織はそこを無理矢理押し通って職場を後にした。
「……何あいつ? 本当無愛想で取っ付きにくいよな。」
ぼそりと、彼が居なくなった後に彼等は顔をしかめて言う。
「そんなんだから友達もいねーんでしょ、アイツが誰かと一緒にいるとこ見たことねーし。」
「まぁでも困った時アイツに頼んだら何でもしてくれるから便利だよな、ははは!」
その会話に黙って見詰めていた上司の圧に気付くと、彼等は「しまった」とばつの悪い顔になってそそくさと逃げるようにその場から去っていった。
逸る気持ちを抑えながらかつかつと足音を鳴らして病院の廊下をひた歩く。
漸く目的地の部屋へと辿り着くと扉を開く際に力が入りすぎて大きな音が響いてしまい、迷惑そうに向けられた周りからの視線に慌てて頭を下げて、それから部屋の奥で白いベッドに横たわって窓の外を眺める女性の側へと向かった。
「あら? 随分と早かったわね、もう少し後になるかと思ったのだけれど。」
此方に気付いた彼女が振り向いて笑みを浮かべるのを見て、いつもと変わりなさそうな雰囲気に一織は思わず肩を落とした。
「……なんだよ、平気そうじゃん。焦って損した…。」
「なぁに~心配してくれてたの? 嬉しいわぁ、あの朴念人の一織を必死にさせれたなんて!」
そう言って、あっはっは! と豪快に笑う彼女…この母親はベッドの傍らに椅子を用意して腰掛けた一織の背中をバシバシと叩くので、段々照れ臭く感じた彼はその叩く手を「やめてくれ」と言わんばかりに振り払った。
「そうだよ! マジで心臓に悪いから嫌な冗談はやめろよ、本気で心配したんだから……!」
「うふふふ、そっかそっかぁ。ごめんね一織、ちょっとだけからかい過ぎちゃった。」
満足そうに笑む母親は、もう20代後半にもなった大人の頭を子供相手みたく撫でると、暫くして落ち着いたのか一息吐いた。
そして再び一織へと視線を合わせると、彼女は何とも言えない複雑そうな顔を浮かべていた。
「ねぇ、一織。」
「……なんだよ、
呼ばれたので返事を返せば少し寂しげな表情が一瞬だけ視界に映る。
彼女は母親でも、血の繋がりはない赤の他人だ。
幼少期に母を病で失い、そして父親もと死に別れた一織に残されたのは昔から付き合いが長く、二人と仲の良かったこの女性だけだった。
他に頼れる相手がいない為に母親の治療費に全財産を注ぎ込んで困窮していた父を側で支えていた彼女は、母の死に間際の遺言により父子二人を託され、父は彼女と再婚するも何年と経たずに彼もまた過労により死んでしまい、最後に残されたのは友人二人の忘れ形見である子供の一織を引き取ることになる。
両親二人を亡くし、更には当時多感な時期であった彼に大変骨を折りながらも見事こうして社会人として生きていけるまでに一人で育て上げた彼女に、勿論一織自身も苦労を掛けた自覚がない訳でもない。
始めはいきなり実母の代わりにと父親に紹介されたこの女性を目の敵にしては父親に散々叱られた事もあるし、絶賛反抗期の頃なんかは酷く当たったりして、今思えば頭が上がらないような立派な母親を勤めあげた人だ。
尊敬だってしている。
しかし今までずっと母親と認めず他人行儀に呼び合っていた名はすっかり身に染み着いてしまい、直そうにも照れ臭くて今だって悩んで尚「母」と呼べず仕舞いでいる。
そんな彼を何も言わずに頭をぐりぐりと撫で回す彼女はきっとその胸の内に気付いているのだろう、そう思うと無意識に拳に力が入った。
「あたしね、多分もう長くないと思うんだ。」
ぽつり、と彼女は呟いた。
原因不明の身体の衰えに入院するまでと体調を酷く悪くしてしまった彼女は、遠くを見詰めては一織が何か口にする前にと話を進める。
「だからさ、一つだけ聞きたいことがあるの。だから正直に答えて欲しい。」
「やめろよ、そんな縁起の悪い──、」
「一織、私、ちゃんと貴方の“母親”になれた?」
そっと掌が握り締められる。
思わず顔を上げれば懇願するような眼差しで、緊張しているみたく自分を見詰める女性に言葉が詰まってしまう。
「なん、で、」
「あたし自信ないのよ。一織にしか解らないんだから、教えて欲しいの。」
「だからって、そんな言い方はないだろ……!!」
込み上げる感情に任せて乱暴に手を振り払う。
じわりと目頭が熱くなるのを感じながら、此方を見上げる義母を睨み付けて感情のコントロールが効かないまま思った事が口から溢れ続けた。
「なんだよ…なんだよ、“もう長くない”って。まだ死んでもないのになんで決め付けるんだよ。そんな同情を誘うみたいなやり方でしか俺が正直にならないとでも思ったのか…?」
「そんなことは……、」
「でも現にあんたはそう言ってるんだよッ!!」
吐き出される言葉は徐々に声音が震えて大きく、否、荒くなっていく。
横に首を振って「違う」「そうじゃないの」「ねぇ、聞いてよ一織」とうわ言みたくぼやく彼女をキッと睨み付けた。
「じゃああんたの希望に答えてやるよ、俺はあんたを“母親”だと思ってたさ! ずっと一緒に……親父やお袋が死んでもずっと傍に居てくれた事も、俺の事を支えてくれていた事も、自分の子供でもない他人の俺を此処まで育ててくれた事だって有り難いと思ってたよ! あんたは凄い人だって……!!」
「一織……。」
「でもさッ……そういう風に聞くのは、卑怯だよ……狡いよ……! なんで……どうして、そんな……っ!」
込み上げていた感情が堰を切ったように目から溢れて頬を濡らしていく。
大人にもなって泣いてしまった情けなさと、声を荒げてしまった気まずさにまた言葉に詰まってしまうと、自分へと伸ばされた手から逃れる様に一織は病室を飛び出してしまった。
「一織! 待って一織……っ!!」
背後から遠くか細く自分の名が叫ばれるも、振り返る事も出来ないまま走って、走って、走り続けて……気付けばそこはもう病院を離れて、随分と遠くの交差点で立ち止まった。
息が上がって肩を上下させながら俯いていたらそこにぱたりと、雨が降ってもないのに地面に雫が落ちてそこで初めて涙に気付く。
慌てて親指の付け根で拭い取り周りを見渡せば、人気はなく空はいつの間にか暮れ始めて見渡す限りの建物達を朱く、じわりじわりと暗く染め上げていた。
腕時計を見れば時刻は大体四時を回って五時に切り替わる頃で、まだ冬が明けたばかりで肌寒い時期の最中、悴んできた手をジャケットのポケットに突っ込んで再び足を進め始めた。
幸い彼の職場は私服出勤可なもので、偶々身に付けていたお気に入りのジャケットが好都合な事に日が暮れて下がり始めた気温から身体を温めてくれている。
すすって赤くなった鼻先を擦りながらもの寂しさを訴え始めた腹に、そういえばと昼を食べ損ねた事を、序でに職場を飛び出した際に弁当を机の上に忘れてしまった事も思い出させられてつい口から大きな溜め息が出て仕舞う。
漸く冷えてきた頭で大人気なくも義母に喚き散らしてしまった事に後悔しつつ、面会可能な時間が残り少ない事もあって間に合うか急ごうかと迷って足踏みをしていると、不意に自分のスマホから着信の音楽が鳴り響いた。
なんでこんな時に、なんて少しだけ小憎たらしく思いつつも画面を見てみれば相手の名前は“病院”の二文字。
またか、次は何なんだと呆れ交じりに耳に当てると、聞こえてきたのは重々しく前置きする声に再び胸の内が冷えていく。
「海月が……死んだ……?」
それから長々と告げられた言葉は以降頭に入らず、通話が終わっても尚耳にスマホを当てたまま固まっていた一織の手を滑り落ちて硬質なものが砕ける音が響いても動けずにいた。
だってさっきまで普通に話していたんだぞ、いつもと変わりはなかったんだ。
頭の中で意味のない言い訳の羅列を繰り返して誤魔化しても、現実に引き戻されていく頭にまた目の前が水の膜で視界が揺らいだ。
「クソっ…………ちくしょう……ッ!!」
堪えていた声に喉が唸る。
先程からずっと動けずに仕舞いでいたその場で立ち竦んで声を抑えたままボロボロと溢れ落ちる涙を掌に受け続けた。
「母、さん……!」
最後まで、彼女に呼べなかったその単語を口にして、周りの事など気にしてられないまま嗚咽を漏らしながら彼は何度も、何度も母の名を呼び涙を流した。
「ごめ、なさい……ごめんな、母さん……っ! 俺、俺は……!!」
ひぐ、と歯を食い縛った奥の喉からくぐもった音が鳴る。
歪んだ視界の中ふらりと踏み出した先は今まで走ってきた道で、伸ばした先には何もないけれど彼は無我夢中に足を前に進ませた。
あんな会話が、あんな言葉が最期になるなんて思いもよらなかった。
涙を拭い、息を呑んで、四肢を投げ出すつもりで必死に駆けて母の元を急ぐ。
時折他の歩行者にぶつかって怒鳴られて、謝りながらでも足は止めずに。
大分暗くなって街明かりが辺りを照らし始めて暫く、漸く病院と思わしき灯りが視界に映った。
今更行っても面会出来る時間は過ぎてるが、親類である身元を知らせれば傍にくらいは居させて貰えるだろう。
そう考えて、彼女がもう生きていない事を再び自覚して、一心不乱に動かしていた足は急いだところで変わらないことに気付いて勢いは消し飛んでしまっていく。
交差点で赤のランプに立ち止まらされて、段々と冷静さを取り戻していく。
いっそのこと辿り着くまで気付かなかければよかったものを、信号に無理矢理足止めされてからは止まっていた思考は後悔と諦めに染められていった。
あの時、素直に答えていれば。
あの時、「母さん」と呼んでいれば。
この胸の内を焦がす後悔は果たして無かったのだろうか?
車線を走る車達のライトに照らされ、眩しさに目が焼かれる。
涙ですっかり腫れてしまった目元を擦りながら霞む視界に瞬きを繰り返して明るく緑を点す光に一歩、また一歩と足を進めた。
「(煩いな……頭に響く。)」
近いような、遠くも感じるような、離れた場所でクラクションが何度も響き渡る。
状況を確認しようと目を凝らしても、車通りの多いその交差点では向こう側で赤信号に止まる車達が一織を照らして、光が邪魔してよく見えない。
何だか胸がざわついて、足早に立ち去ろうと歩くスピードを早めた。
長い道路をもうすぐ渡りきるというところで、直ぐ側でまたけたたましい音がつんざく悲鳴を上げる。
「え───、」
あらぬ方角から現れた車は蛇が這うように左右に頭を振りながら身体に凄まじい衝撃を与えて猪突猛進を続ける。
跳ねる血潮。
込み上げる激痛。
散々引き回し続けたそれは建物へと打ち付けられて背中は砕けた。
フロントバンパーを押し付けられた腹はひしゃげて中身をぶちまけられる。
それらは全て一瞬の出来事だ。
彼は幸運にも、一瞬で命を絶たれたお陰で痛みは刹那少なく終える。
もしもこれで生き延びて仕舞えば身内の死去に加えて散々な人生を送ることだったろう。
神村一織はかくして、その人生に幕を降ろしたのだ。
「はぁ~いはい! 御臨終御臨終、人生全うお疲れ様ぁ~!!」
突如響き渡る声に、訳も解らずぱちりと目を覚ます。
そこは辺り一面真っ白な空間。
至る所に揺蕩う何かが同じように浮かぶ中で、そこで無防備に投げ出されていた身体は踏み場もない場所でバランスを崩して倒れてしまうと、天も地もどっち付かずな空間に身体はぐりんと回転してしまう。
読み込めない状況への困惑と地に足が付かない不安定さからの焦りに、えもいわれぬ恐怖を感じるとゾッと肌を粟立たせて背筋から凍り付かせるような感覚が全身に走り、彼の顔を青く染め上げた。
「たっ助け──!」
「大丈夫? 手ぇ貸そっか。」
余りの状況の異常さにパニックを起こしつつ、もがいていた手が何かに掴まれた。
無我夢中で足掻いていたのがその手によって簡単には引き上げられて、漸く安定感を感じられる足場らしきものへと膝を付き俯いた先でやはりそこには何もなく、理解の出来ない現象に口からは「ひっ……!?」と引き釣った声が漏れ出る。
何かに捕まらなければ、何もない場所ではまたあのよく解らない空間に落ちてしまう──そんな危機感に自身を掴んでくれていた腕についすがってしまう。
「なんだこれ、なんだよ此処は……!?」
そして戦慄く一織は辺りを見回す。
天井もない、床もない。
只々白いばかりの空間にて人の形をしたものや見たこと無い何かが、そこら中に点々と浮かんでいるのだ。
そんな意味の分からない空間や地なくて足が付ける場所もなくフワフワと浮く感覚に、常軌を逸したその光景を目にして顔をひきつらせると手にしていたその手をぎゅうとしがみつき身体を震わせた。
「何だって俺はこんな所にッ……!?」
「ふふふ、パニクってるねぇお兄ちゃん。まぁしょうがないよね、だって只の人間なきみに取っては普通じゃないんだもの。理解出来なくて当然だよ。」
そんな幼い印象を与える、面白がるような声に一織はそこで初めてしがみついていた相手の方へと顔を向ける。
その相手を認識して、目を見張った彼はその自分を見詰めて笑みを湛えるその存在に思わず思った事がそのままに口から溢れた。
「──………俺?」
「あ、やっと気付いた?」
目の前の人物は漸く目を合わせてくれた相手に掌をひらりと振ってにっこりと笑んだ。
その人物──何処かで見たような。
まるで……そう、あの頃鏡の中にいた、昔の自分のようで。
「初めまして、お兄ちゃん。…んん、いやお兄ちゃんからしたら久し振りなのかな? ……まぁ良いや。」
何もない場所だと言うのに彼は胡座をかいて此方を見下ろした。
「見て解ると思うけど、
そう言って目の前の子供はカラカラと笑う。
本当に、訳が解らない。
開いた口が塞がらない一織に、幼い姿の一織は「あ、そうだ」と掌を叩く。
「同じぼくだもんね、呼び方に困るだろうし……ぼくの事は“神様”って呼んでよ。何てったって、異世界の神様なんだし!」
*****
彼が走り去ったあとの病室にて。
彼女は静かになった病室でゆっくりと日が落ちていくのを眺めていた。
「……そっか。あたし、ちゃんと“母親”になれたのね。」
ゆっくりと瞼を降ろしていく。
“望み”が叶ってしまい、身体からじわりじわりと力が抜けていくのを感じながら、走馬灯のような今までの記憶が、“忘れていた”記憶がもうその必要はないと言わんばかりに脳裏に延々と流れていく。
その狂おしい程に愛おしく、そして空しいだけだったあの日々を思い出すと共にあの泣き叫ぶ声が聞こえた気がして、俯いて脱力しかけた顔を上げてぽつりと呟いた。
「…………嗚呼、あたし、まだ消えれないじゃない。」
いつか見た、荒れ狂う川辺の子供を思い出す。
──懐かしや、あの子供は今頃どうしているのやら。
「神村さーん、夜の検診に来ましたよー。今大丈夫ですかー? ……神村さん?」
静かになった女性が眠る姿を見た看護婦に始まりやがて病室は慌ただしくなる。
それを
遠くに目を凝らして見詰めて見れば、知った顔が必死の形相で走るのが見えた。
「あはは。なんとまぁ、必死になっちゃって。」
馬鹿にしているような口振りで、それでもって何処か嬉しげに彼の口走る言葉に聞き入って僅かに口元を緩めてしまう。
「此処まであたしの世界が長く持ったのも、私の子が大人に成ってしまったのも、こんなの初めてだわ……あーあ、あたしにしては熱が入りすぎちゃったのかなぁ。まぁでも、本懐を遂げられた事は良いことなのかしらね。」
そういうと自らの掌に視線を落とす。
“黒く”成っていた身体の末端から光の粒となり消えかかっているのは、彼女の終わりのカウントダウンが始まっている事を意味していた。
それを面白くなさげに振り払うと「さてと、面倒だけど行きますか。」と彼女は更に上へ、上へと昇っていく。
このまま彼女が大気圏を抜ければきっと彼の命は
「説教なんてされちゃったものだから、気紛れに“頑張って”みたけれど……割と楽しませて貰ったわ。また逢いましょうね、あたしの愛しい子。今度はもっと別の、
地上から離れれば離れる程人の形をしたそれは崩れて、足は何又にも別れ皮膚には鱗が浮き上がっていく。
オゾン層を抜けて周りが宇宙の星空に包まれて海面を跳ねる鯨のように身を翻し弧に描いて“世界”から抜け出せば、地上でクラクションが鳴り響くと同時に今まで身近にあった一つの命が絶たれて同時にその星はくだけ散っていった。
光の粒となり散り行くその破片達は軈て中心に吸い込まれる様にして一箇所に纏まっていくと、忽ちそれは小さな一つのか細い光と成った。
その光がさ迷うように漂っているのを、すっかり鰭状になった手で包み込めば彼女はその星海の中を揺蕩うように游いでいく。
やがて目の前に白く輝く場所へと辿り付き、名残惜しむ様に見下ろしたその光をゆっくりと手放すと流れるようにして光はその白い輝きの方へと独りでに向かっていった。
それを見送ると彼女は踵を返して来た道でもなく全く別のまた別の方角へと向かっていく。
軈てその“目的地”へと辿り着くとその“世界”へと身を投げて、その身をうねらせながらより深くへと姿を消していった。
忘れていた本懐を果たした“神”は、その肉体が消えてしまう前にと自らの身体をもう一つの姿として得ていた魚の形へと変えていった。
あれ程何の脅威も感じなかった身体はもうすっかり身を焼く感触を思い出してしまったけれど、有象無象に等しく痛みを感じる身体へと戻ってしまったけれど、再び芽吹いた命の温かさを己の胸より感じながら深い深い海の底へと潜っていく。
遠い過去、
悪意を持ってこの世界に入り込んだ存在に厭悪の感情を抱きながら、来るべき時を待ち彼女は深海の波に漂っていた。
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