彼女はすぐにフラれることにしている ~実話少々~
水奈川葵
SCENE1
「お前は本当に言葉で人が殺せるよな」
そんなことを言って、ユキヤは去っていった。
何の話の流れであったのか、私の昔話―――高校生くらいの時に私が友達に言われた言葉のことを覚えていたらしい。
しかし、何だって別れ間際にそんなことを言い置いて言ったのやら。こっちはすっかり忘れていたのに。
プツ、プツと、彼の残していったカフェオレのラテアートの泡が消えていく。消えていく、消えていく…。その様子をしばらく私は頬杖ついて見ていた。
クリスマスの近づく休日の午後。店内も窓の外も、
カフェオレから視線をスライドさせると、いつものごとく、当たり前に置かれた伝票がクルンと丸まって、透明な筒の中で会計を待っている。
私はちょっと不満げなため息をついた。
はて。途中までは順調であったと思うのに。順調に、爽やかな、後腐れない別れ話が進んでいたはずなのだが。どうして彼はいきなり苛ついたのだろう。さっぱりわからない。
出会ってからは3年。本格的に付き合い始めたのは…半年前ほど?
ちゃんと言われた通りにしていたのに。なんだったら、この別れ話だって、もじもじと切り出しにくそうにしていたのを、ニコニコ笑って促して、話しやすい雰囲気を作ってやったぞ。ちゃんと理由も聞いてやったし、その上で「別れたい」と言うから、快く了承した。
それで機嫌が悪くなるんだから、男心もよくわからない。
なにせ今日の夕方の予定がすっかりなくなってしまって、私は普段は通らない道をブラブラと歩いて行く。途中で地下鉄の駅を見つけて、ふと思い出す。そういえば、この路線だと『OTAKO』の近くの駅があったんじゃなかったっけ?
『OTAKO』は馴染みの小料理屋だ。夫が主に料理を担当して、ママさんが飲み物と配膳、客相手の
ここのところはご無沙汰していたが、久々に体も空いたし行ってみようか。どうせ今日はどこかで飲まないと、少々気持ちの整理もつきにくいことだし。
久しぶりに地下鉄で切符なんて買った。最近では皆、○○カ的なもので済ますのだろうが、私は持ってない。チャージ忘れで、何度か改札口で止まってしまって、その度に後ろに並んだ人から物凄い顔で睨まれるので、自分には向いてないなと思ってやめてしまった。
地下鉄に乗るのも、久しぶりだな…と思ったが、考えてみれば彼と一緒に先月映画を見に行った時に乗ったな。もう忘れかけてたけど。
うろ覚えの駅名だったが、合っていたようだ。独特な企業名のついたビル名が書かれた、行き先案内の出入り口へと足を進めて階段を登り、しばらく大通りに沿って歩くと見覚えのある小路が左にあった。こんな場所、知ってないと誰も入らないだろうな。いわゆる隠れ家と言えるかもしれない。確かに、まぁ隠れ家だろう。あの店、ママさん達のご同輩がよくいらっしゃるので。
夕暮れ近く、暗い小路を歩いていくとポツポツと小さな飲食店の灯りがともる。
『OTAKO』にたどりつく直前で、店からスタンド看板をえいこらせと運ぶママさんが出てきた。
私は笑って、よっと手を上げた。
「あら? やだー、須藤さん。久しぶりじゃない?」
ママさんはトトトとこっちに走り寄ってくる。着物に白い割烹着。いかにも小料理屋の女将だ。
「しばらくぶり。ママさん。また、新しい着物買ったの?」
「そうなの。店員にうまく買わされてちゃった」
「その店員、佐藤浩市に似てたの?」
「そうなの! 声が渋くって!」
私はやれやれと思いながら、暖簾をくぐった。店が開いたばかりで、私が一番目の客かと思ったら、先客がいた。
「……メイサ?」
向こうは驚いたように酒を口に含む途中で固まった。
「おぅ…カヤっち」
私も思わず声をかける。まさかフラれたその日に、誂えたかのように、昔馴染の友人に会えるとは思わなかった。しかも、相手がコイツとは…なんとも神様の悪戯的な偶然だ。
「なんだ、お前。ここにはしばらく来ないって言ってたんじゃないのか? 彼氏さんが嫌がるとか言って」
カヤはそう言いながら、ちょっとだけ椅子をずらす。私は隣に座ると、ママさんから猪口を受け取って差し出した。
「うん。今日までね」
「今日まで?」
聞き返して、眉を寄せる。それからジトッとした目で睨んできてハアァーと大仰なため息をつかれた。
「また、別れたのか?」
「また? そんなに頻繁かな?」
「よく言うよ。
「そうかねぇ?」
嫌味っぽく言われるがよくわからない。別にとっかえひっかえしてるつもりもないし、それぞれに素敵な恋愛だったと思う。まぁ、たいがいフラれてるけど。
「アンタは? なんだって昼日中から飲んでるの?」
「昼日中から飲んでない。さっき来たとこです」
「ふーん。あ、ママさん。胡麻豆腐とナスとオクラのおろし煮」
とりあえず私の定番を頼んで、猪口の酒をグイと呷った。
「しっかし続かないねぇ、お前は。特に男は」
カヤは空になった私のお猪口に再び酒を注ぎながら言う。
「それはアンタも大概でしょうに」
「私は続いてます。今年でもう三年目」
「いや、そっちじゃなくて。男のこと」
「辰也は男だ」
「……それズルくない?」
私が言ったのは、辰也がトランスジェンダーだからだ。手術はまだ怖いからと言ってやってないようだが、女物の服を着こなし、化粧をして歩いていたら、十分に男がナンパしてくるくらい可愛い女子だ。
「いーの。別に本人は世間様が言うほど気にしてるわけじゃないし、いちいち深刻に考えなくっていいんです」
カヤはさらりと言ってみせるが、私は内心であきれてしまった。トランスジェンダーの辰也と付き合い始めた当初、嫌味を言ってきたビアンの女の子にくそみそに怒鳴りつけてたのは何処のどなただ?
「で? またフッた?」
「私はいつでもフラれる方だよ」
「嘘つけ。前の彼女が言ってたぞ。『私がフラれたんだ』って」
「まさか。いつもフラれているのは私だよ。別れたいって言われて、ハイってね。今日もそう」
カヤは二度目の大仰なため息をついた。
「お前、そういう執着のなさが相手が離れてくんだよ」
「執着ねぇ…」
言われて考えてみるが、今ひとつピンとこない。下手に執着なんかして、ストーカー扱いされるのも嫌だし、そもそも別れたいと言ってきた時点でもう行き止まりに来てるなら、それ以上追っても仕方ないじゃないか。
「まぁ、みんな騙されるんだよな。お前の見た目と、優しげな素振りに」
「人聞きの悪い言い方するねぇ」
「実際、そうじゃないか。昔からそうだよ。お前は、人の心を
カヤはちょっとばかり苛立たしげに言ってから、空になった銚子をママに渡した。
「もう一本つける?」
「コイツがね」
「あら、須藤さん、日本酒でいいの?」
「うーん…じゃあ、八海山で」
今日はあんまり日本酒の気分じゃなかったのに、強制的に決められてしまった。
私は胡麻豆腐を一口食べてから、そういえば…と思い出す。
「そういや、ユキヤに…今日別れた彼氏に言われたよ。久しぶりに。『お前は本当に言葉で人を殺す』って」
「は?」
「昔、アンタに言われたんだよ。覚えてない?」
カヤはしばらく私をあきれたように見た。
「……覚えてるけど」
「あれ、結局どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ」
「言葉で人なんて殺せないでしょ。実際、見たこともないし。あの頃なんて今みたいにSNSもない時代だよ? 今だったら、誹謗中傷で自殺する人もいるけどさ」
「SNSの誹謗中傷が無数のパンチだとしたら、お前のは一刺しグッサリタイプだよ」
「………よくわからないねぇ」
久しぶりの日本酒で、少しばかり酔いが回る。
カヤは私よりも酒が弱いくせして、日本酒なんぞ呑むから、ほらもぅ赤くなってきている。
ママさんの持ってきてくれた私の八海山を、私よりも先に勝手に手酌で猪口に注ぐと、グイッと呷った。タン、とカウンターに置いた猪口の音が苛立っている。
「じゃあ、聞きますけどね…メイサ。お前、彼と別れたかったの? 嫌いだった?」
「いいや」
「じゃあ今日、いきなり別れるって言われてどうだった?」
「うーん…」
実際には、私的にはいきなり、という感じでもなかった。このひと月ほどは、彼が私を避けているのは明らかだったし、正直、『彼と寝た』という女からのマウントも受けていた。
「……とくには」
考えても嫌いだったことはない。少々子供じみた独占欲を示してくる彼は、わりと楽しい存在だった。
私は銚子から酒を静かに注ぎ、口をつける。ママさんは半年来なかった私の好みを忘れておらず、ちゃんとぬる燗になっている。
「じゃ、好きだったか?」
「そりゃあ、もちろん」
「嘘だね」
カヤは即座に断定した。「お前は、誰も好きにならないよ」
私はぐるん、と首を回した。何だか、まるで昔の彼女に説教されているみたいな会話だ。
―――――あなたは誰のことも、好きにならない
と言って、別れたのは誰だったっけ? 日菜だったか、サーヤだったか。
私は軽く息を吐いて、酒を一口含んだ。
「ひどいねぇ、まったく。フラれたってのに、慰めもしないなんて。言っておくけど、私はちゃんと尽くしたよ。彼がここに来るのは禁止って言うから、その通りにしたし、ずーっと私の髪切っててくれてたスタイリストの女の子と仲良くするのも禁止っていうから、その美容院行かなくなったし。しまいには、近所のスーパーのおばちゃんと話するのも駄目だって言われたよ」
最終的にはテレビ見てて「戸田恵梨香って可愛いな」って言っただけで、血相変えて怒るようになってた。単純に同意を求めただけだったんだけど…。
女の嫉妬は醜い…なんて言うけど、男の嫉妬もたいがいだ。
カヤは私の話に肩をすくめてから言った。
「大変だったな」
「そうだよ。まったく…」
「大変なのは、彼の方。お前の性癖がわかっててつき合ったんだろうけど、愛はあっても信頼できないから、付き合っていくうちに気疲れしたんだろうな。まぁ、お前とまともにつきあう人間は皆そうなんだろうけど」
思わぬ人物から『愛』なんて単語を聞かされて、私は意外過ぎて笑ってしまった。
「『愛』!『愛』ねぇ…なるほど…」
「そこで大笑いするかね、ホントに」
カヤは本日三回目となる大仰なため息をついてから、また手酌で
「カヤちゃん、私に『愛』がわからないと思ってるだろ?」
私はちょっとだけ酔っていた。でも、ひどく酔っ払っているフリをした。
カヤはいきなり陽気になった私に眉を寄せた。
「はい?」
「私が人生で初めて『愛』を感じたのはねぇ…アンタへの『愛』を告白してきた女の子の相談だよ」
「………は?」
「覚えてないかなぁ…アンタ、すぐフッちゃったから、きっと覚えてないんだろうね。三木さん。いたでしょ? 美化委員の真面目なコ。ちょっとの間、あんたの怪しいサークルにも顔出してたと思うけど」
カヤは高校時代に幻想生物研究会なんていう同好会を立ち上げ、私は帰宅部だったのでたまに顔を出していた。そういや、あそこの
「覚えてるけど…」
カヤはちょっとだけ大人しくなった。あんまり深入りしてほしくなさそうだ。
「なになに~? カヤちゃんの青春時代の甘酸っぱいラヴ・ストーリィー?」
ママさんが耳敏く聞きつけて近寄ってくる。さすが、長年ハーレクインを月に十冊以上読む猛者だ。恋愛話大好物。
「そうそう。青い頃の話ですよ」
私は頬杖をついて、話し始めた。
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