第十話 『覚醒』
衝撃的な出来事、それは往々にして兆候なく突然あらわれる。
日常に潜む大きな落とし穴。
それを「晴天の霹靂」という。
・ ・ ・
ある日、珍しく昼間に起きていたアイは、犬の散歩をしていた。
犬といっても、炎の牙を持つ3メートル以上もある猛獣だ。大鬼も近寄らない。
その猛獣にアイは、リボンを付け「チャッピー」という、らしからぬ名を付け可愛がっていた。
太い鎖に繋がれたチャッピーと、いつもと同じルートを散歩している時だった。
溶岩の河をまたぐ橋の真ん中に差しかかった所で、チャッピーが突然足を止めた。
「あれ? チャッピーどうしたの?」
チャッピーは尻尾を丸め、足を硬直させている。前に進む事を必死に拒絶しているようだった。
その時、橋の反対側から、チリンチリン、とベルの音が聞こえた。
振り向くと、そこには人間がいた。
鬼ではない、普通の人間だ。
といっても、それはアイから見た「外人」欧米系の白人だった。
その白人は、水色のストライプのシャツとチノパンを履いた太った中年男性で、大きな体を縮こめママチャリに乗っていた。
白人はアイたちの側までやって来ると、自転車を降りてスタンドを立てた。
大量の汗を掻き、ハァハァと息を切らせている。
しばらくゼェゼェ言っていた白人は、カゴに入っていたペットボトルのコカコーラを開けると一気に飲み干した。
そして呼吸を整えながら「やあ」と、アイに言った。
背丈はアイと同じくらいだろうか、金髪の頭に、風になびいたような変な形の寝癖が立っている。
「おじさん、だれ?」
アイがそう聞いた時、チャッピーが、ク〜ンと鳴いた。体を丸めて震えている。そんなチャッピーを見るのは初めてだった。
そして「ああ、僕はねぇ‥‥‥」と、その白人言ったところで、アイは異様な気配に気付いた。
それはその白人からのものではなく、周りから発せられていた気配だった。
アイは周りを見回した。
「何これ?」
その光景を見たアイは、息を飲んだ。
橋の上を歩いていた鬼、下で作業をしていた数百の鬼と亡者、その全てが土下座のような格好で地面に額を擦り付けている。
辺りは静まり返り、風とマグマが沸騰する音しか聞こえない。
近くにいた女の鬼が震えた声で言った。
「‥‥‥お、お、お顔を合わせてはいけない」
「‥‥‥閻魔さま」
「閻魔さま」
「大王さま」
「閻魔様」
「閻魔大王さま」
声はガタガタ震えながら伝播し、辺りを取り巻いていく。一帯が血のような真っ赤な恐怖の色に染まっていく。
「どうも、閻魔です」と白人は日本語で言った。
「ああ、疲れた」と、ひっきりなしにハンカチで汗を拭いている。
アイには普通の人間にしか見えなかった。この太った中年が本当に、あの有名な閻魔大王なのだろうか?
「きみ、アイちゃん?」と閻魔は聞いた。
「そうだけど」とアイが答えると、閻魔は「ギャルか〜」と、嬉しそうにニッコリ笑った。
「おじさん、本当に閻魔大王なの?」
「そうだよ」
「てか、小さくない?」とアイは言った。
以前、新羅に連れてかれたあの巨人は誰だったのだろうか。
「そうかな?」と閻魔は自身の大きく膨らんだ腹を見て言った。
「いや、ちっさいっしょ、普通に」
「先入観だよ。人間は、いささか頭が硬すぎる」
「そうなんだ。で? なんの用?」
アイがそう聞くと、閻魔はおもむろにアイの頭に手を伸ばし前髪をめくり上げた。そして顔を近づけ額を覗き込むと「ああ、本当だ」と目を見開いて、独りごちた。
それから閻魔はアイの額をジッと見ながら、下唇を噛んだ。考えている時のクセだ。
それは閻魔の悪いクセだった。あとから取り返しのつかない事になるのは分かっているのに、どうしてもすぐに試したくなってしまう。何度、同じ失敗をしてもやめられない。
「चलो」
閻魔はアイの耳元に顔を近づけ、小さな声でささやいた。
その直後、一帯は闇に包まれた。
目を開いていても、閉じている時と同じ黒しか見えない。純粋な暗闇だ。
そこから、ほんの一瞬だけ、閻魔の本性が姿を現した。
そのイメージは、アイの頭の中に問答無用で映し出された。
『審判』
どこからか、無数の地蔵像が現れた。寸分の乱れもなく整列している。
雨が降り始め、地蔵が濡れていく。黒い点が広がり、雲と雲の隙間から、いくつもの雷(いかずち)がバリバリと空を割る。
突如姿を現した閻魔大王が空を覆った。いつか見た巨人とは比べ物にならない程の大きさだ。
黒い髭の奥から怒りの表情を浮かべた閻魔大王の顔は真っ赤に膨れ上がり、強い眼光が地を見下ろしている。
閻魔大王はガベル(木槌)を打ち鳴らした。
「判決を下す」
カンカンカンカン、という音と共に、凄まじい風が吹いた。
風に当たった亡者たちは塵のように消滅し、そこにいた全ての鬼たちは気絶した。
その時、アイはトイレで転んで死んだ時の事を思い出した。
人は何の脈絡もなく、死ぬ。
病気や事故、いきなり殺されてしまう事もある。
ずっと続くと思っていたものが、ある日いきなり切断される。自分の意思ではどうしようも出来ない、圧倒的な力で。
閻魔大王が放つそのオーラ。
それは一つの天災だった。
風が顔を撫で、アイは他の鬼と同じように気を失った。
その時、ふいに第三の目が現れた。
アイが目を閉じるのと同時に、デコの真ん中に子供のような目がパチっと開いた。
目は辺りをキョロキョロと見回し、何度かまばたきすると、目の前にいた白人に焦点を合わせた。
「よぉ!」
閻魔は嬉しそうに片手をあげ、その目に挨拶した。
第三の目はしばらく、キョトンと閻魔の顔を見ていた。
寝起きのぼんやりした頭で、目の前にいるのが誰なのかを探っているようだった。
初めて見る生物に、閻魔は興奮していた。目をキラキラさせ、表情は好奇心に溢れている。
無意識に手を伸ばしていた。
そして、アイの頭に閻魔の手が触れそうになった瞬間、第三の目はそいつを敵と認識した。
気持ちよく寝ていた所を、無理矢理起こした張本人だ。
第三の目は、上弦の月のような三日月形になり、アイの口から獣のような唸り声が出た。
三つ目(ミツメ)が覚醒していく。
アイは気を失ったままだった。静かに閉じられた二つの目の上で第三の目が発光した。
風で煽られたように長い金髪がたなびき、2本のツノが頭皮を突き破りムクムク伸び始めた。爪と牙が鋭く尖っていく。
そしてミツメはガルルルと唸りながら、閻魔に人差し指を向けた。まるで「そこに何か付いてるよ」というような自然な所作で、閻魔の顔の真ん中を指差している。
突然ピンクのネイルの先端が光り、そこからプシュッと炭酸が抜けたような音がした。
閻魔は反射的に頭を横にズラした。
すると、閻魔の後ろに広がっていた景色が瞬時に吹き飛んだ。
木々や岩石、それからずっと遠くにそびえていた山々まで、その全てが消失し、焼け跡のようにあちこちから煙が立ち昇ってる。
「ワオ!」閻魔は呟いた。
見晴らしの良くなったその景色を唖然と見ていた閻魔が視線を戻すと、ミツメは姿を消していた。
ミツメは遥か上方にいた。フワフワと浮き、地面を見下ろしている。そして10本の爪先を下に向けていた。
「こりゃ、マズイ!」
閻魔でもミツメを止めるのは不可能だった。
閻魔の瞬時の判断は、部分的な範囲を犠牲にして、被害を最小限にとどめる事だった。
ミツメの爪先が光るのと同時に、閻魔は呟いた。
「हिलाना」
次の瞬間、叫喚地獄に直径10kmの大穴が空いた。
そして、円形に抉り取られたその部分は別の空間に移動していた。
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