2 社会史健忘症

 ベッドの中で目覚めた大沼めぐみは、目に現れたスマホ購入サイトを枕元に伏せて、キッチンに視線をのばした。

 瞳が黄色に染まった。1Kの狭いキッチンは、黄色いカートンボックスに埋め尽くされていた。《G☆LE・フルーツカクテル缶12個入り》カートンボックス。全部、アルバートでポチッたものだった。

「また、やっちゃった」

 つぶやいた大沼だった。ついついポチッちゃうのだ。自分の心の中には、食べたいとか欲しいとかの欲求は全然ないはずなのに、まるで心のミステリー。心理なき消費とか言ってたのは、元カレだった。

 記憶にあるのは、ニコ生のライブ動画、アイドルマスターのゲーム実況までだった。フルフルセヴンを名乗るゲーマーが、プロデュースしようというアイドル選択を、双葉佳代子から橋口やよいに変更した直後のこと、ふいに黄色いフローティングバナーが画面を横切ったのだ。そこから後の記憶がなかった。

「ポチッたのか?」

 背後を立ち上った男の声だった。背を返し、顔を向き合わせた。大沼は、「うん」とうなずいて悪戯っぽい笑みを返した。男は黒々とした大きな瞳で自分を見入っている。凛々しく見えるのは、それが監視の眼だからだった。

「ライブ動画サイトのフローティング枠内でデマンドがアンカーを仕掛けてたみたいです」

「入札なしでか?」

「はい、たぶん。瞬時に飛びましたから、入札はなかったと思います。深夜のこの時刻、いつも利用してましたから。見透かされているんです」

 大沼は自嘲の笑みを浮かべた。

「購入サイトに飛んでからは?」

「それが今までにない感覚で、まったく意識感じませんでした。ページがひらかれて商品のロゴマークが目に入った瞬間に、勝手に指がポチッたっていう感じでした」

 たったの数年で、八世代を駆け上って、驚異的発展を遂げたアドテクノロジーは、DMP(データ・マネジメント・プラットフォーム)と結合し、電子ネットワークの世界を、マジカルマーケットへと変貌させていた。それは今、社会問題化されているハイパーショッパーの原因の一つ。男はそう疑っていた。

「アルバート、また一段と進化したみたいだな」

 黒々とした瞳をひからせて独り言ちた男は、横にしていた顔を虚空に振り上げた。大沼がふっとため息を漏らした。

「DMPって、人工知能のことですか?」

「その呼び名、止めた方がいい」

「……?」大沼は眼だけで問いかけた。

「彼らは我々人間の手を離れている。もうすでに人工物なんかじゃない」

「だったら何なんですか?」

 男はまた大沼に向き直った。

「世界の事物は三種類に分けられるというドイツ経済学者の説がある」

(あっ。また座学がはじまった。でも、准教授先生だからしょうがないか)大沼はこころの中でつぶやいた。

「――その第一の事物が、生物や山野などの自然物。第二のそれが人の手によって作られた車や船などの人工物。そして第三が……君に分かるか?」

 大沼が目を膨らませた。この男の話にはいつも焦らし効果が組み込まれている。 そのことは十分に承知していて、警戒しているのだけど、やはり引き込まれる。大沼は、傾げた顔の右頬に、右人差し指を突き立て「それは何?」のポーズをむけた。

「本来は人間の手によって生産されながらも人間自身の意図や制御を離れ、自律的に機能する産物のことだ」

 難しい話だけど……おそらくたぶん、その産物の一つが人工知能だという指摘なんだろう。大沼がそのとき、その他の具体例として「社会」や「市場」ということばを頭の中に思い浮かべたのは、面前の男が、大沼の通う経済学部で社会心理学を教えていた教員だからだった。男は、客員准教授、鬼川(きかわ)秀一だった。しかし大沼めぐみは、思い浮かべたものとは異なる事物で問いかけてみた。

「愛とかもですか?」

 鬼川は、「それは違う」と言下に否定した。

「違いを説明してもらえますか?」

「愛は人を離れてはならないからだ」

「でも、離れてしまったようなものもあります」

「それは君のことか?」鬼川の反問に大沼は、

「いえ、あなた方の方です」と言い返した。

 この男たちが、隷属下にあるような自分たちとの関係を、隠然と保ちつづけるためには、虚構の「愛」にしがみつくしかないことを、大沼めぐみは知っていた。もしもそうでなければ、何らかの「ハラスメント」を疑われ、バッシングに晒されたとき、逃げ道がなくなるからなのだ。大沼は経験上そのことを知り尽くしていた。

「あなた達にとって、愛は方法です」

「どう受け取ってもらってもよい。私は君を……」

 その直後に鬼川の口が大沼のふくよかな唇によって塞がれたのは、彼女がその後の言葉を心底聞きたくないからだった。

 ――――

「村上先生とのこと、知ってるよ」

 未明を煙のように立ち上った鬼川のことばだった。耳にした大沼は、ぞくっと全身を震わせた。「村上先生」とは、大沼が所属する研究室担当教員のことだった。鬼川の目が暗く虚空をただよっている。

(ばれてたんだ)

 心で舌を鳴らした大沼は、「いったいどのようなことでしょうか?」と清楚を装って白を切った。

「ま、そのことはどうでもいい」

 煮え切らない反応にむしろほっとした大沼だった。

 この男が私に近づいてきたのは愛や嫉妬じゃないことぐらい知っていた。自分の学内での評判は、意志なき女、蚤の心理、ザ・ドール、フローティングバン等、聞きたくなくても耳に入ってくる憎まれ口で重々承知のうえのこと。そんな「個性」は、着任間もないこの客員准教授にも人知れずに知らされたのだろう。もっとも鬼川が自分に近づいてきた動機は、そのお手軽さに付け込んでのことじゃない。それくらいのことは大沼も知っていた。近づいてきた理由は、社会心理学者の鬼川にとって、自分の「個性」が、現代社会に潜むとある課題を考察する上で重要な研究試料になるからだった。

 大沼はそのことを知っていた。そのことを耳打ちしてきたのが村上だった。

「鬼川だけには近づくな。危険なやつだ」

 閉め切られた研究室の中で、小声で囁かれるアドバイス。それって、裏返って反作用を引き起こすものなのだ。その法則に則った大沼めぐみだった。だから鬼川と大沼との関係は、傍からは彼女の方から危険な役回りを勝手でたように映って見えていた。

 小さなキッチンに置かれたダイニングテーブル。大沼と向き合ってすわる鬼川秀一の首には、銀色のロケットペンダントがぶら下がっていた。その銀色が、朝の陽光に照らされてきらきらひかっている。背後を黄色い影が覆っていた。山に積まれた《G☆LE》のカートンボックスが発する影だった。

「説明してもらえますか? 無意識にポチッちゃうところ」

 ゆっくりと腕を組みなおした鬼川は真っすぐに大沼をみつめたまま、

「認知不協和だ」と応えた。

「それって、原因はこころの問題なんですか? それともアルバート?」

「断定はできないが、おそらく両方だ。こっちとあっちとの二つの振り子が絡まって生じたような現象のはずだ。君の中で、嫌いなものを受け入れたくないが、受け入れなければならないような撞着した心理状態をアルバートが誘発させ、さらにその相克する心理を、巧妙に突いてきてポチらせた。

しかもそれら全部のプロセスを一瞬のうちに――。抽象化すればそんなところだろう」

「悪徳なマッチポンプに私がはめられたみたいな話でしょうか?」

「当たらずとも遠からずだ」

「治せますか?」

 鬼川がその問いに応えなかったのは、治療やセラピー目的で彼女と関係を持ったわけではないからだった。目的の方向性は真逆だった。

鬼川の眉間が苛立ち、ぴくぴくと震えだした。

 彼が大沼めぐみを研究試料として選んだのは、彼女がもっている「個性」を、さらにより増幅させて観察したいからだった。鬼川の中で焦れた感情を引き起こさせているのは、その行為が、彼女の中にひそむ傷口を、さらに余計にひろげてしまう危険があるからだった。

「とにかく、もうしばらく様子を見よう。測定の時間だ」

 鬼川は大沼が発した問いを制し、いつものルーチン開始を切り出した。

 床に置かれてあったショルダーバッグを膝の上においた鬼川は、中から一冊のファイルケースを取り出した。そしてテーブル上の空いたスペースで見開いてから、左右を回転させて大沼に差し向けた。見開かれたページの右側にタブレット端末、左側には厚紙のアート紙に超高精細度印刷されたカラーチャートがあった。研究試料である大沼に対しておこなう色質評定用のガジェットだった。鬼川がサイドボタンをタッチし、タブレットに画像を映し出す。印刷側と同じ配色のカラーチャートが浮かび上がった。大沼が覗き込んだ。

「右+(プラス)コンマ5。左-(マイナス)コンマ8というところかなぁ」

 回答は、タブレット側が発する高精度デジタルRGB加法混色が、超高精細度印刷技術によって施されたCMYK減法混色よりも1コンマ3、優れた色質を表しているという評定だった。鬼川の眉間がふたたび焦れて震えだした。二つのカラーチャートは、色相、明度、彩度等、色の属性すべてにおいて狂いなく同レベルに調整されていた。それであるのに、大沼のもつ色覚を介すると二つの間に明らかな色質的「差」が生じてしまうのだ。しかも今回は、差が想定以上にひろがっていた。鬼川が複雑な表情をみせているのは、大沼の色覚が日毎にデジタルの方向へと「透明化」しているからだった。この症状がさらに「悪化」していったならば……鬼川は頭を振った。この症状がさらに進んでゆくならば、自らが想定した、あの恐ろしい結末が証明されてしまう。鬼川の中では、想定したことが実現してくれることの期待と恐怖とが、絡み合っていた。

 何も見なかったかのようにバタンとガジェットを閉じた鬼川秀一は、無言で立ち上がった。そして椅子の背に掛けてあった黒ジャケットを手にとり、内ポケットから長財布をとりだした。ジッパーをひらき中から一万円札三枚を摘まみだす。

「これは今月分の謝金だ」

 躊躇なく受け取った大沼が訊いた。

「財源は奥田文化財団の研究助成費分ですよね?」

 鬼川はうなずいて応えた。

「……業務実績と明細は後日でいい」

「いつもありがとうございます」

 そこで鬼川は思い出した顔になった。

「今日の講義は3コマ目だ。無断欠席はこれ以上かばいきれない」

言い残して玄関に足をむけた鬼川の背にむけて、大沼が声をかけた。「先生、愛しています」

 消え入りそうに細く、透明な声色だった。


 ほんとうは、この部屋には、もう来たくなかった。

 鬼川の部屋と似た部屋だった。1LⅮKの間取り、大きさも、鬼川の部屋とほぼ同じだった。独身と妻子との違いがあるのに、妻子ある村上の部屋が鬼川と同じであるのは、ここが「囲いの場」だからだった。

 住居というより病室に似ていた。飾りあるものは何もなかった。そんな囲いの場にあるベッドの上に、大沼めぐみは、病人のように横たわっていた――。

「昨晩は何処にいた?」

 薄暗い声色が背後をあがった。

「覚えていません」顔を見せずに応えた。

「んなわけないだろ」

 怒りをにじませたテナーは、バリトンより恐い。音楽の先生はそういうことは、教えてくれなかった。

「そんなわけあります」

 大沼は背をむけたまま言い返した。珍しいことだった。彼女にとって、村上のテナーは、当初は心地よかった。もっとも、自分の父親ほどの歳の男だったから、父親と比較して素敵に感じられただけだった。比較できる相手が少なすぎた。村上の囲いに入ったのは、他に居場所がなかったからだった。

「鬼川には近寄るな、言ったはずだ。あれほど言っただろ」

「知りません。覚えていません」

 もう何度、ばっくれてきたことだろうか。それも限界だった。

 自分の病いについて、「それは個性だと思え」とサポートのことばを言ったのは、後ろに横たわっている村上だった。それを信じたのは、彼が「マーケティング研究室」という名の、ゼミ担当教員だからじゃなかった。

 村上のほんとうは、認知心理学だった。

 知覚や言語、記憶や思考、推論と問題解決、そんな、こころの知的活動を情報処理システムとして捉え、いろいろやっている、らしいからだった。心のスペシャリスト、とか他のゼミ生は言っていた。だから信じたんだ。そして信じたからこそ、彼が所長を兼業している施設に通うようになったんだ。

 施設には、様々な仲間たちが居た。

 パーソナル障害をはじめとして、ADHD、自閉症、アスペルガー、協調運動障害、チック・トゥレット、言語障害――そして知覚障害に至るまで、それら全てが「個性」だということを知って驚いたものだった。

 括られた「個性」の下に、こんなにも多くの病名があることに驚いたんじゃなかった。あんなにも多くの病名全部を、たったの一個の「個性」で括ってしまえることに驚いたんだ。一個で括るには、それはあまりにも広大すぎる。分類・項目とは、似た者同士を一纏めに総称することに違いない。なのに、それらの共通項が、原因不明であることだけで、何故、一個に括ることができるのか? 

 そんな疑問は当初からあった。その不審を、最初からもっと拡大して感じるべきだった。

 大沼めぐみは、今さらになってそう思った。

「個性だと思え」という欺瞞に抗え、と無言で言ってくれたのが、客員准教授の鬼川だった。着任してすぐ、彼は私に近づいてきた。「君の助けになりたい」と言って。

 彼と契約を結んだのは、自分が罹患している「個性」が、「社会史健忘症」だと指摘してくれ、原因を、「社会変化の速度」つまり、電子的感染症だと、すっきりと解明してくれたからだった。

 ようするに、村上より鬼川の方に、誠意、つまり隠されていた真実をより強く感じたのだ。

(もう二度とここへは来ない)

 大沼は心のなかでつぶやいた

「もう二度と会うなよ」

 背後を立ち上った情けない声色だった。テナーが裏返って、ソプラノみたいになっていた。

 その声色が、「別れ」を決心させてくれたのだった。

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