第15話 文字
工夫を加えたとは言えども昼食はあまり味わえたものではなかったが、想いもまた味わう余裕を奪っていたためどちらにせよ味わえたものではなかっただろう。幹人はどうにも満足できない昼ごはんを済ませる。その時待ってましたと言わんばかりに顔を近付けて柔らかそうな唇を動かす魔女。
「それじゃあ始めるとしましょう、この時代のそこの王都の文字の読み書きの練習」
「ええ……ここまで来て勉強」
不満を漏らしつつも、リリの近くにいられるということに喜びも感じていた。
「ところで、未来の日本の文字ってどのようなものかな、私の知るものと変わりがなけりゃあいいけれど」
そう問いかけながら森の中、木々に光が遮られて薄暗いそこでリリは地に落ちている木の枝を拾って文字を書き始める。
「テ、フテ、フ? リズ?」
幹人の読み上げに満足したのだろう。リリは少しのいやらしさをもった笑みを見せる。
「読めるなら楽でたまらないわ。アルファ、ベータと並べて教えて頭にねじ込むよりも断然楽々かしら。で、言語だけはしっかりと習得してるのは魔法のチカラかしら?」
分からずとも、一度頷く。下手にこじらせると時間がかかる、そう判断していた。リリは地面に幾何学模様を書き連ね、隣りに拙いカタカナの文字を書いてゆく。
「これでいい、これで分かっていただけるはず」
そのような手段を用いて幹人に文字を伝授する魔女、その姿は怪しくもあり大人の魅力故に妖しくもあった。
大人な魔女の姿を身近に感じつつ、今ここには存在しえない景色が映り込む。広くて立派な部屋に多くの人々が収まって行儀よく座って並ぶ中、ぶくぶくと肥えた男が緑色の板を白い棒で叩いて声を張り上げて教え込む風景、それは幹人の記憶の世界のお話であった。
あの頃のことなどもう遠く、触ることすら断たれてしまったもののように感じられる。
「幹人、幹人? 聞いてる?」
「えっごめん、昔のこと思い出してちょっと」
「そう……やっぱり故郷のことだもの、想うことは当然あるよね」
そう語るリリの唇は美しく、声には艶があってただならぬ色が聞こえていた。
「帰るまで、絶対支え続けるから」
そう伝えるリリの笑顔は美しくもあり、どこか寂しそうだった。
☆
文字を教わる前には日はしっかりと大地を照らしていたものだが今となっては薄暗く、森の底に刻むように描かれた記号たちを目で理解することなど容易ではなくなってしまっていた。
飛び抜けて美人ではなく、体型もただ細くて整っているわけではないもののどこかに色気を隠し持つ魔女による妖しく美しい授業は幕を下ろした。
木々の向こうに広がる薄暗い空を見つめ、リリは大きく息を吸う。そうして幹人に優しく語りかけた。
「疲れた。幹人は余裕かな?」
「俺も疲れたよ、覚えておけるかな、リリ姉」
同じく疲れた幹人も、同じように空を見上げる。空のスクリーンに映し出される映像は脳裏のモノ。高校でのこと、日常の一ページ。
「よお、幹人、お前相変わらずガキ見てえな顔してんな」
「はあ、俺だって好きでこんな顔してるわけじゃないよ」
「自分のこと俺って言ってんのかよ、似合わね」
「からかったな」
「ちょっとやめなよミキ君がかわいそうだよ。ね、ミキ君」
「ニヤけてるし、その顔絶対かわいそうって思ってないだろ」
「あっバレた? かわいいとは思うけど」
なんて会話だひどすぎる。思い返してそう感じて、それでも楽しかったのだと心が言っていた。
「大丈夫?」
気が付けば立ち尽くしていた幹人はリリの声で正気に返る。目の前に広がるのは空だけだった。
「あ、うん大丈夫」
ろくでもなくて、それでも愛おしいあの日々は帰ってくるのだろうか。分からない、先のことが考えられない。家はあまりにも遠くて不安は大きくなるばかり。あまりの大きさに家まで届きそうなほどのもので。
幹人の頬に優しく手を当てて、顔を近付けて言って聞かせる。
「無理はしないで、帰るまでいつでも私は側にいるから」
さすがに叶うことではないにしても、伝えられた想いは柔らかくて温かで、そしてとても強かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます