第1話 希望の紐

 それは十歳のある日のこと。

 長期休暇を利用して、実家のある男爵領へ帰ってきた令嬢は気づいてしまった。


「面白い、面白いのに、ワクワクできない」


 令嬢の名はアナスターシャ。

 家族からはナターシャと呼ばれている。

 ナターシャは物語が大好きだった。

 亡き祖父の血がそうさせるのか、媒体は問わず、彼女と彼女の兄たちは物語が好きだった。

 祖父の山のような蔵書に埋もれて物語の世界に浸り、あるいはその祖父が税金と教育のため、そして、表現の自由と芸術の保護という建前でもって作ってしまった図書館にも足繁く通っていたのだ。

 ちなみに、男爵領どころか王都の図書館にも負けずとも劣らないその施設に寄贈されている、殆どの物語関連の書籍は先代男爵のものである。

 先代男爵がわざわざ別館を建ててコレクションをしていたものばかりだったが、ある日、とうとう祖母にブチ切れられ、廃棄されるかもしれない危機に陥った。

 というのも、そろそろお迎えが近いかもということと、残りの人生をかけても読み切れないだろう積ん読で、別館の床が埋まったらしい。

 いつまでたっても片付かないことに、祖母はブチ切れたのだ。

 しかし、ナターシャを含めた孫たちや、孫の友人たち、そしてご近所の子供たちにはとても人気だった。

 いっそのこと別館を図書館として解放しようかという話まで出ていたほどだ。

 それなら、別に図書館を作ればいいじゃないか、みんなの為に使うために、領民から集めたお金だ。

 先代男爵は反対する周囲を説得した。

 なにしろ、別館に通っていた子の中から次々と王都で人気な劇作家になったり、小説家になったりする子が現れていたのだ。

 それだけではなく、とある大学で研究が認められ名を馳せた子もいれば、著名な画家になった子までいる始末だ。

 今や男爵領出身者の書く物にハズレはない、などと言われる程だった。

 先代男爵の集めた本はたしかに物語中心だったが、それ以外の本も世界各国から取り寄せていたのだから、積ん読で床が埋まり、しかも残された時間で読み切れない量となってしまっては、祖母がキレたのも頷ける。

 しかも、祖父の辞書には【処分】という文字が無かったのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだろう。

 そんな祖父のコレクションを読みふけったナターシャだったが、この日とうとう飽きが来てしまったのだ。

 恋愛、冒険、推理、学園モノ、日常系、エッセイに、ノンフィクションの過激な作品まで読み込んできた。

 その全てが面白かった。

 しかし、沢山読んできた弊害なのだろうか。

 ナターシャの目に映る作品世界は、みんなどこかしら似たり寄ったりな物に映り始めていた。

 それは、仕方の無いことだった。

 大衆受けするもの、というのは多かれ少なかれそういう性質があるのだ。

 決してそれが悪い、というわけではなくただ単にナターシャの目が肥えてしまっただけだった。


「仕方ないです。こうなったら」


 ナターシャの頭に浮かんだのは、十五歳以上の大人しか見てはいけない、とされている作品達だった。

 別館でも図書館でも、その棚がある区域は特別で絶対に子供は入れないように分けられていた。

 しかし、見られない分からない、というものは子供の好奇心を刺激するものだ。

 物語を原作とした演劇を観劇するのもいいが、とにかく新しい物語にこの時のナターシャは飢えていたのだ。


「なんとしても、あの棚にある大人向けの本を読むしかありません!」


 そして、図書館のゾーニングされた区域に侵入して本を物色する間もなく見つかり、結局、図書館から両親に連絡がいき、大目玉を食らうことになってしまった。

 その日の夜、兄たちがこの話を聞きつけてナターシャの部屋にやってきた。


「そっかそっか。ナターシャもお年頃だもんなぁ。

 でも、うん、ズルをしちゃダメだ。

 ちゃんとそれが見れる歳になるまで待たなきゃ。

 そうしないと、下手したら二度とあの作品達は見れなくなってしまうかもしれないから。

 俺だって我慢した。我慢して我慢して、そうしてようやくあの艶めかしい表紙の本を手に取った時の感動といったら、あぁ、大人になったんだなと実感したよ」


 長男であり、次期男爵領領主予定の少年、イクスがうっとりとそう言った。

 ちなみに歳は、ナターシャよりも六個上である。

 そのイクスを冷めた目で見返したのは、イクスより一つ下の少年であり男爵家次男であるゼータだった。


「あぁ、あの人妻りょうじ、むぐ」


 見返しながら、何かを思い出しつつゼータが口を開いたがイクスによって塞がれる。


「ナターシャの前で何を言う気かなぁ?」


 ゼータは自分の口を塞いでいるイクスの手を振りほどいて、言い返した。


「言われたくないなら、もっとうまく隠せばいいだろ」


 兄二人の会話は、まだまだ子供のナターシャには理解できない。

 きょとんと兄たちのやり取りを眺めていると、ゼータが思い出したようにこんな事を言ってきた。


「あくまで本に対する物語に飽いたのなら、観劇でもしてきたらどうだ?

 たしか歌劇団で新作が始まってたはずだ。

 あとは、そうそう最近中央広場にだいぶ変わった芝居をする芸人が来ているらしいぞ。

 子供たちにも大評判だから、次の休息日にでも連れて行ってやるよ」


「芸人、ですか?」


「そう、大道芸の一種らしい。

 それも、一人でいろんな役を演じるんだ」


「はぁ」


 ゼータの説明にナターシャは興味なさげに返す。

 とここでイクスが助け船を出した。


「あぁ、それなら俺も話を聞いて見に行った。

 休息日だけじゃなく、初等学校が終わる時間、下校時間あたりになると毎日広場でやってるぞ。

 俺たちは休みだけど、まだこっちの学校は休みに入ってないからな」


 貴族が通う学校と、男爵領の庶民向けの義務教育を施す学校では、休みにズレがあるのだ。


「どうでした?

 面白かったですか??」


「そうだな。うん、楽しめた。

 ああいう演出、やりかたもあるのか、と新鮮だったな」


 イクスはそういうが、あいにくナターシャが興味あるのは物語の中身だ。

 たしかに物語を盛り上げるために演出も重要な役割だと、理解はしている。


「どんなお話だったんですか?」


「そうだなぁ。その都度違ったかな。

 お前くらいの年頃の女の子に人気だったのは、王子様と平民の娘の身分違いの恋物語だし。男の子に人気だったのは、騎士物語だった。

 でも」


「でも?」


「いや、まさかあんな子供だましな説教話を怖いと思う日が来るなんて思わなくて驚いたな」


「はい?」


 イクスの説明が説明になっていないので、ナターシャは首を傾げた。


「ほら、ナターシャも小さいころは【デーモンの手紙】を持ち出されて怒られてただろ?」


 【デーモンの手紙】というのは、男爵領のみならずこの国全体で使われている、子供に言うことを聞かせるための怖い話だ。大人の大人による子供たちのための脅迫ともいう。

 内容はとても単純で、親の言うことをきかない悪い子はデーモン、つまり悪魔さんにお手紙を書いて攫いに来てもらうよ、というものだ。

 純粋な子ほど信じてトラウマになってしまう子もいるが、あとあと大人になってこういった説教話が嫌いになってしまう子も多かったりする。

 しかし、教育にはちょうどいいので結局大人になったら親と同じように使いだす話だったりする。


「えぇ、はい。だから私、説教や教訓めいたものが主軸の話は苦手です」


 もっとはっきり言ってしまえば、ナターシャはそういった話は嫌いだった。

 たとえ、物語であったとしても理不尽に怒られた記憶がよみがえるからだ。

 そしてなによりも、楽しませることが目的でなく脅すことが目的だから、というのも理由のひとつだ。

 楽しみたいのだ。

 ワクワクしたいし、ドキドキしたい。

 でも、説教めいた話や教訓めいた物語ではそれを感じたことがない。

 むしろ気持ちが暗くなる。


「俺もだよ」


 イクスが同意する。

 しかし、次の瞬間、そのイクスの瞳の奥になんとも言えない輝きが宿るのを、ナターシャは見た。

 それはまるで、無邪気な子供が初めて騎士物語の演劇を見て主役たる騎士に憧れた時の輝きだった。

 ナターシャと同じ銀色の瞳をキラキラさせて、中央広場で見たという芝居とその物語について説明してくる。

 イクスがここまで楽しんでいるのはなかなか珍しい。


「かみしばい?」


「そう、デフォルメされた絵を見せてそれに合わせて芸人が演技をする」


「おもしろいんですか? そのとやらは」


「興味深い演劇だった。

 しかし、ナターシャが知りたいのは物語の内容だろう?

 さっきも言ったが、その時々内容は違う。

 この国、男爵領で人気な話の時もあれば、その逆、この国だとそれこそ嫌われている説教や教訓話ですら娯楽として楽しめたな。

 芸人さんとも話をしたが、その芸人さんの故郷じゃそう言った話は一部はホラー、ゴーストストーリーと呼ばれてるらしい。

 あ、いや、芸人さんは語り手だから、ゴーストテイルかもって言ってたな。意味はよくわからなかったが」


 今度はゼータが不思議そうに聞く。


「なに、つまりは怖い話、子供だましの脅迫話も娯楽になってることか?」


「そういうこと」


「……ちなみに、イクス兄様はどんな話が気に入ったんですか?」


「そうだなぁ。その芸人さんの故郷の古典文学をこの国向けにしたやつで、たしか、タイトルは【希望の紐】だったかな」


「怖い話なのに、【希望】がタイトルですか?」


 普通こういうのはそのジャンルに沿ったタイトルを付けるものだ。

 むしろこんなタイトルなら、怖い話とは真逆な気がする。


「そうそう、最初は恋愛モノかなぁとか、青春ものかなぁ、いやいやお涙頂戴系かなって思ったんだけど全然違った。

 こう、不気味は不気味なんだけど、オチがなぁ。うん、ああいうのを胸糞エンドって言うんだろうな。

 だからこそ、後味くっそ悪くて最高だった」


 後味が悪いのに、最高??

 ナターシャの顔に疑問符が浮かぶ。


「???

 イクス兄様、後味が悪いと逆に最低になりません?」


 一部の物語はカタルシスを楽しむように、作られている。

 イクスの話はそう取れなくもないが。


「逆だよ、逆なんだよ。

 あのなんとも言えない感覚が、妙に癖になるんだよ。

 ちなみに、平日は1回。

 休息日は午前午後2回ずつ、それと夜の特別公演やってるな。

 夜のは年齢制限と日によって性別制限あるからナターシャは見れないけど。

 一種のカタルシスがオチにはあった」


 と、これに反応したのはゼータだった。


「なんで夜の公演まで知ってるんだよ。

 何回見に行ったんだ」


 声には呆れが含まれている。


「いや、だって普通の演劇見るより破格の値段だったし。

 というより、開演前になちょっとしたお菓子を売ってるんだ、それがチケット代になる。しかも子供でも買える値段で中々美味しい。

 お菓子も、菓子店で商品にならない割れたクッキー、スポンジケーキの切れ端とかを仕入れて売ってるって言ってた。

 あとは、駄菓子屋に頼まれて宣伝代わりに新商品を売ることもあるんだって言ってたな」


「なるほど、同業者の方から恨みを買わないようにしてるんですね」


 聞けば仕入れをしてる菓子店というのは、貴族向けとしても有名な高級店らしい。

 男爵家でもティータイムに出てくるお菓子のお店だ。

 その芸人と菓子店との間で信頼関係がちゃんと築けている、という事なのだろう。


 そんなわけで興味がわいたナターシャは、次の休息日ではなく、早速、翌日の夕方に、兄二人と一緒に広場へと出かけたのだった。


 広場に着くと、子供でごった返していた。

 あちこちから、ガヤガヤと楽しそうな声が届く。


 今日はなんの話しだろう?

 クッキーかな? 飴かな?

 お手伝い頑張って、お小遣いもらってきたんだー。


 その子供たちの群れの中心に自転車が停まっていた。

 そして、その自転車のすぐ側で、どこにでも居る学生風の格好をした中性的な顔立ちの人間がなにやら作業をしている。

 学生風の格好、それも男子の格好だがわずかな胸の膨らみから女の子だろうとすぐにわかった。

 おそらくこの少女が大道芸人なのだろう。

 ナターシャの知る大道芸人とはだいぶ印象が違う。

 歳は、ナターシャの兄たちと同じくらいに見える。

 短い黒髪に、真っ黒な瞳。肌の色は日焼けしているのかナターシャとは違い、小麦色だった。

 少女は、子供たちに早く早くとせがまれて、ニコニコ顔でそれに答えていた。


「はいはい。ちょっと待ってね」


 そうして、チケットお菓子の準備と、自転車のに大部分に見慣れない木の枠のようなものを設置し終える。

 すると呼び込みが始まった。

 みんな一列に行儀よく並んでお菓子を買っていく。

 そして、自転車の前にちょこんと座り始めた。

 ナターシャ達も列に並んでお菓子を買う。

 チケット代にしては、破格もいい所だ。

 元々捨てるものだったのだから、仕入れの価格も相当安いに違いない。


「あ、また来てくださったんですか?

 ありがとうございます!」


 大道芸人がナターシャの兄、イクスに気づいて元気よくそして花の咲くような笑顔を向けてきた。

 イクスも顔を綻ばせて答える。


「うん。君のお話は面白いからね。

 それで、今日はどんな話をするんだい?」


「今日はですねぇ。他の子達にも好評だった、【希望の紐】です。

 この領では新鮮みたいで反応が多くて嬉しいです」


 そのやり取りを見ていたゼータとナターシャは顔を見合わせて、納得した。


「なるほど、そういうことか」


「そういうことでしたか」


 しかし、野暮なことは言わない。

 大道芸人がナターシャ達に気づく。

 イクスが弟と妹を紹介した。

 大道芸人の方も自己紹介する。

 彼女の名前は、ミズキというらしい。


「わぁ、男爵家のご兄弟妹様達に観てもらえるなんて光栄だなぁ!」


 ミズキはそう言って、はにかんだ。

 ふわふわとした笑顔だ。

 失礼かもしれないが、とても事前に聞いていたような演技をする人物には見えない。

 あともつかえているので、会話もそこそこにナターシャと兄たちも適当な場所に移動する。

 ほかの子供たちよりも背が高いので後のほうで立ち見することになる。

 席は無い。思い思いの場所で直座りが普通のようだ。

 今日のお菓子は、棒飴だった。

 こういう形で食べるのは、はしたないと言われるがナターシャは気にしなかった。

 もしかしたら、こっちの方が性に合ってるのかもしれない。

 そうして、集まってきた子供たちにお菓子を売り終えると、目的だったが始まった。



 それは、自転車の荷台に乗せた木の枠。

 そこに差し込まれた絵にそって物語が進行していく形式だ。

 なるほど、たしかにナターシャ達のよく知る演劇とは少し違っている。

 子供向けの演劇といえば、人形劇だがそれとも違う。

 影絵の劇を一度見たことがあったナターシャは、それにちょっと近いかも、と考えた。

 あれも絵に合わせて役者が演じていたはずだ。

 ただ、どれも複数人でやる物だ。

 一人芝居としては、なるほどたしかにこの国、この領では物珍しいやり方である。


「さて、【希望の紐】始まり始まり」


 朗々と、タイトルの書かれた紙をミズキが木枠から引き抜く。

 デフォルメされた最初の場面が出てくる。

 真っ赤だった。

 真っ赤な、川が描かれている。

 その川の中心に、溺れかけている男が一人。


「さて、ここは血の池地獄であります。

 その血の池で、あっぷあっぷと溺れかけている男がありました。


 たすけて、たすけてくれぇ。


 男は必死で助けを求めます」


 開幕早々、ナターシャはギョッとしてしまう。


 (地獄? 戯曲でもテーマになっている、あの??)


 助けを求めている男は何故そんな場所に?

 何か悪いことでもしたのだろうか?


 (イクス兄様は説教話と言っていましたし。悪いことをすると地獄に落ちちゃうよ、というお話なのでしょうか?)


 ナターシャの好奇心が刺激され、オチを想像しつつも、物語に集中し始める。


「さてさて、この助けを求めている男、実は生前に大層な悪事を働いておりました。

 盗む殺す犯す。この世の悪事という悪事を働いた、それはそれは大悪党だったのです」


 血の池の絵から今度は、男の生前の場面だろうか。

 デフォルメされてはいるが、中々ショッキングな絵に切り替わる。

 ここで、ナターシャも次男のゼータも、そして常連だろう子供たちも物語の世界に飲まれてしまう。


「悪事の限りを尽くした男はしかし、やがて捕らえられ、王様や民衆の前で見世物として、そして、罪を償うために殺されてしまいました」


 そこで、ミズキの声が途切れる。

 かと思うと、無邪気な子供、あるいは悪人の死に熱狂する民衆を演じ始めた。

 絵もその場面に変わる。


「アハハ、すごかったねぇ!!

 いいぞーー!!

 ざまぁみろ!!」


 ナターシャは、その声にゾッとしてしまった。

 あまりにも、楽しそうだったからだ。

 とても、リアルなのだ。

 本当に心の底の底から、悪人の死を喜んでいる。

 それも残酷な殺され方を見て、楽しんでいる。

 古い時代には、たしかに公開処刑が娯楽の一部だったと授業でナターシャも習ったので知っていた。

 誰かの死を楽しむ。

 様々な作品を目にしてきたナターシャは、そういう場面にも耐性があった。

 しかし、それは、なんと言うのだろう。

 幼年学校に通う子供たちを相手にする話としては、些か、否、かなり刺激が強いように思われた。

 子供たちを見る。

 その目は真剣そのものだ。

 怯えている子は、ナターシャの見た限りいなかった。


「そんな民衆の声を聞きながら、大悪党の男は死んでしまいました。

 そして、気づくとこの血の池地獄にいたのです」


 また場面が変わる。

 あの真っ赤な絵に戻る。


「男は、血の池で、じたばたともがき苦しんでいました。

 助けを呼んでも、誰も助けには来ません。

 それどころか、周囲に似たようなもの達が男と同じようにもがき苦しんでいるではありませんか。

 その者達も男と同じく、生きていた頃に散々悪事を働いたもの達でした。


 たすけてくれぇ。たすけてくれぇ。


 悪党たちの助けを呼ぶ声が木霊します。

 しかし、助けはありません。

 大悪党の男とそれ以外のもの達はもがき苦しみ続けました。

 どれくらい、そうしていたでしょうか?

 気づくと大悪党の男は、岩場に打ち上げられていました。

 身を起こし、周囲を見ます。

 あちらこちらで、血の池からは溺れるもの達の声が響きわたっております。


 たすけて、たすけてくれぇ。

 苦しい、苦しいよぉ。

 だれか、だれかぁ。

 ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛。


 しかし、地獄には赤黒い世界が広がっているだけです。

 当然、彼らを助ける者などいません。

 大悪党だった男は、自分と同じ罪人達が上げ、響き渡る声と、果てのない赤黒い世界を見て、ただただ、心細くなってしまいました。

 生きていた頃は怖いものなんて欠片も無かった彼ですが、死んで地獄で過ごすうちに恐怖を抱くようになっていったのです」


 ここでまた場面が変わった。

 おどろおどろしい赤黒い世界から、爽やかで美しい明るい世界が描かれた絵が登場する。

 演じるミズキの声も、どこか軽くなったように感じる。


「さて、ところ変わってここは天国です。

 修行中の見習い天使が、神様のお庭でせっせと草木の手入れをしておりました。

 この若く、美しい天使は生前、人を助け導き、そして神様への祈りも欠かさなかったのです。

 簡単に言えば大変善い行いをしたため、その行いが認められ、天使として神様に仕えることを許されたのでした」


 そして、また絵が変わる。

 先程と同じ美しい明るい世界を背景にして、その中心にとても天使が描かれている。


「地獄にいる大悪党の男とは正反対の存在でした。

 まだまだ見習いなので、先輩天使達のように人の世界に降りて神様の言葉を伝えることもできません。

 今日も今日とて、言いつけられた仕事を黙々とこなしておりました。

 ふと、この庭でも特に綺麗な花が咲き誇る池に見習い天使は目をとめました。

 先輩天使から、この池からは地獄の様子が見えるんだよ、と教えられていたのを思い出したのです。

 見習い天使は生きていた頃を思い出しました。

 たしかに悪党が沢山いました。

 生前の彼の家族も、盗賊に殺されてしまっていました。

 そんな悪党たちが、地獄にはわんさかといるのだろう、そんなふうに想像することはとても簡単でした。

 しかし、見習い天使は知っていました。

 世の中、悪党ばかりでは無いことを、知っていました。

 生前、家族とともにあわや殺されそうだった所を助けてくれた人がいたのです。

 あの人のお陰で、見習い天使は命を拾いました。

 そして、たくさんの善い行いをして、家族の分まで天寿をまっとうして、ここにいるのです。


 僕を助けてくれた優しい人。会いたいのに。何故天国では見かけないのだろう。


 見習い天使は、生前自分を助けてくれた人がきっと天国にいるのだと信じて疑っていませんでした。

 だから、興味本位で覗いた池の底。

 映し出された地獄の光景に驚きを隠せませんでした」


 そこで、ナターシャはなんとなく先が読めてしまった。

 おそらく大悪党の男が、生前の見習い天使を助けた【優しい人】なのだろう。

 その予想は的中する。

 初めて物語に触れる人間ならば、意外だ、と驚いたかもしれない。

 しかし、ナターシャはある程度物語の先読みが予想できる程度には、媒体は問わず触れてきたのだ。


 (お話の魅せ方としては新鮮で面白いですし、演技も悪くありません。

 プロには少々劣りますが。

 話の内容は、普通ですね)


 おそらくこのまま、大悪党の男は見習い天使と再会するかしてハッピーエンドだろう、と予想できる。出来てしまう。

 だからこそ、昨夜イクスが言っていた言葉をすっかり忘れていたのだ。

 この物語は、そんなありふれた幸せな終わり方などしないことを。

 ナターシャの予想通りに物語は進んでいく。

 見習い天使が大悪党の男を見つけて驚いて、そして神様に嘆願するのだ。

 悪いことばかりをたしかに、彼はしてきた。

 でも、自分を助けてくれたのもまた事実。

 それは、たった一回きりの善行だ。

 しかし、善行であることを、否定はできない。

 だから、彼をたすけてほしい。

 それが出来ないなら、せめて、チャンスを与えてほしい。

 そう、頭を床に擦り付けて嘆願したのだ。

 作中の神様は、見習い天使の必死の嘆願に心を動かされ、銀色の紐を与える。

 そして、


「この紐は、お前が毎日世話をしている庭にいる蜘蛛から採った糸で編んだ特別な紐だ。

 この紐を池から垂らしなさい」


 そう言った。

 また場面が変わる。

 この頃には、ナターシャは段々退屈し始めていた。

 全てが想像通りに進んでいく。

 だからこそ、予想できるからこそ、物語自体は悪くないのにつまらないと感じてしまう。

 場面が、またあの池へと変わる。


「見習い天使は言われた通りに池から紐を垂らしました。

 遥かな地下世界、地獄。

 そこで絶望と心細さで佇んでいる優しい人へ届くように、祈りながら垂らしました。

 天使の祈りが叶いました。

 大悪党の男の前に、銀色の紐が垂れていき、男がそれに気づきました。


 これは! しめた、しめた!!


 男は心から、文字通り天の助けと喜びます」


 その嬉しそうな声に、再びナターシャは得体の知れない気味悪さを感じてしまう。

 助かる。そう、主人公が助かる。

 予想通りだ。


(なのに、どうして、こんな不安なのでしょう?)


 どの物語でもそうであるように、ご都合主義のハッピーエンドになるはずだ。

 そう思うのに、ナターシャの心臓はいつの間にかバクバクと早鐘のように鳴り響いていた。

 なにか、ある。

 物語にたくさん触れてきたからこそ、勘が働いていていた。


「そして、紐を掴んで登り始めました。

 大悪党の男は上へ上へと紐を頼りに昇っていきます。

 段々と明るくなって来ました。

 しかし、」


 そこで、場面は奇妙な絵に変わった。

 半分から上は真っ白で、半分から下は赤黒い背景が描かれ、その中央に大悪党の男がキラキラ光る銀色の紐を掴んでぶら下がっている絵だった。


「――しかし、何時間も昇ってきたので男は疲れ果てていました。

 そのため、少し休憩をとることにしました。

 男は上をみました。もうすぐそこに、救いの光があるではありませんか。


 もう少し、もうあと少しだ。


 男は自身を奮い立たせます。

 その時、ふと下を見ました。

 見て、しまいました。


 ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ 。

 すくいだぁ、すくいだぁ。

 俺が先だァ!!!!


 そう叫びながら、男と同じように紐を伝って昇ってくる、亡者であり罪人の群れ。群れ。群れ。

 我先にと、血まみれ亡者たちが昇ってきます。

 ここで男は、ハッとしました。不安が男の胸に過ぎりました」


 ここで、絵は大悪党の男の顔が、紙いっぱいに描かれた物にかわる。

 その表情には、不安と恐怖が浮かんでいる。


「もしも、もしもこの紐が切れたら、俺はどうなる?」


 さらに絵が変わる。

 今度は半狂乱の男が描かれていた。

 そこにミズキが演じる、大悪党の男の必死な声が重なる。


「おい!! クソッタレな罪人共!! 紐から手を離せ!!

 切れちまうだろうが!! この紐は俺のだ!! 俺様のものだ!!

 落ちろ!! 落ちろ!! 落ちろ!!」


 その、自己保身のための叫びに、ナターシャは背筋がゾクゾクしてくる。

 どうなるのだろう?

 健気な見習い天使のためにも、男は救われて欲しい。

 だけど、こんな浅ましく醜い姿をさらしたのならせめて罰を受けるべきだ。

 ナターシャは久方ぶりに感じつつある心臓の高鳴りに気づく。


 (あぁ、なんだろう。すごくすごく、楽しい)


 ミズキの演技は続く。


「落ちろ落ちろと、大悪党の男は喚き散らし紐を自分の体を使ってユラユラと揺らし始めました。

 それによって、昇って来た亡者が地獄へと真っ逆さまに落ちていきます。

 悲痛な叫びを上げながら、ボトボトと血の池へ落ちていきます。

 そして、それを見て、大悪党の男は震える声で嘲笑わらいました。


 は、ははは、ざまぁ、みろ!!


 そして、上を見てまた昇り始めようとした時です」


 また絵が変わった。

 今度は紐が、切れている絵だった。


 (……うそっ)


 内心とは裏腹に、ナターシャの顔はとてもキラキラとを見つめている。


「ぷつん、と紐が切れてしまったのです。

 そして、


 ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!??


 悲痛な叫びを上げて、自分が振り落とした罪人達と同じように血の池へと真っ逆さまに大悪党の男は落ちて行くのでした。

 その一部始終を見つめていた見習い天使は、落ちていく男へ向かって思わず手を伸ばしました。知らず泣きながら、手を伸ばしました。

 でも、その手は短すぎて、届かないのでした。

 涙を流しながら見習い天使は、何故?何故?と繰り返しておりました。

 いつまでも、繰り返しておりました。


 おしまい」


 シン、と広場が静まり返り、なんとも言えない空気が漂う。

 少しして、まばらに拍手が起こる。

 その中にはナターシャ含めた、男爵家の子供達のものもある。

 こうして、ナターシャの初胸糞エンドの物語体験は終わったのだった。

 そして、この日からナターシャは胸糞物語とホラー作品にズブズブとハマっていくことになるのだった。

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