その男、× × × につき
明治神宮前
第1話
あんたは車道の信号の色を正確に答えられるか?
夕焼けが差す住宅街
一軒家の門扉を塞ぐように止まるハイエースには誰も乗っていないが、水道修理の業者を謳うマグネットシートが貼ってある。だがそれを剥がしてみると、その下には配達業者のステンシルが隠れていた。
助手席側の席から覗けば後部座席がカーテンで覗けないように隠されているが、そのカーテンがたなびいているのを見ると、一軒家側のサイドドアは開きっぱなしのようだった。
中には誰も乗っていない。水道業者なら載せているだろうそれらしい道具もない。
異様だった。
どんな人間だって注意深く見ればおかしいと気づけるが、水道修理の業者の名前が書いてあるだけで、それを見た人間は世の中が無謬であると思い込んでしまう。
人間は見たいものしか見ない。一度思い込めばそれを捨てきれない。
あんたらの近所の信号機をよく見てみるんだ。信号機の青は青じゃない。
身体が勝手に動いた。僕は知っていた。
助走をつけ、煉瓦の壁を蹴ってハイエースの天井に飛びついた。一軒家の玄関扉は半開きだ。すぐにハイエースの天井を乗り越え、玄関扉の影に隠れる。
女のすすり泣く声が聴こえた。それだけでも頭がぐらりと揺れるぐらいには動揺したが、でもまだ間に合うかもしれない───────ひどい悲鳴に切り替わったら最後だ。
僕はリュックからドイツ製の特殊警棒を取り出した。3段式のそれは26センチ程度の長さから66センチにまで伸長する。高炭素鋼で出来たそれの重さはおよそ700グラムで、人の骨を折るのに充分な強度がある。今は手元にこれしかない。
もう一つ、警棒と一緒に入れていたのはバラクラバだった。こんな姿、他の人間に見つかったら冗談みたいだと思うだろう。でも見られるよりはマシだ。
携帯を取り出し、ショートメールを一本送信する。
音を立てないように、玄関扉の隙間から中に入り込んだ。
◆
葛原 あきは絶望していた。
後ろ手に太い結束バンドで手首を結ばれていて、指先が痺れてきている。でも、目の前で服を剥ぎ取られ、痛々しいぐらいに床に頭を押さえつけられ、つねるように胸を揉まれている娘の現状を目の前にしてそんなことを気にする余裕なんかなかった。
「やめて!」
娘──ゆきはもう啜り泣きながら「嫌だ、嫌だ」とこぼすばかりだった。名前を呼びたい気持ちに駆られたが、ゆきを組み伏せている男が「ねーえ、お名前教えてよ」と、彼女の頬を掴んで強要しているのを見てためらった。母親として、こいつらには娘の名前さえも聞かれたくなかった。
「娘だけは、娘だけは」
懇願さえも虚しい。祈る気力さえ底を尽きそうな状況の中で、名前を一向に答えようとしない娘に痺れを切らした男は、あきの背後にいる大柄な男に目配せをした。男の腕があきの首に巻き付いて締め上げる。
「おかあさん!」
娘が私を呼ぶ声がする。私の意識が急速に遠のいていく。答えられない。応えられない。
「おめーのせいだろうが。おめえが、名前を! 言わねえから! 馬鹿にしやがって」
激昂した男が腕を振り上げ、娘を殴ろうとしているのが見えた。
「答えねえなら、お前の目の前で、お前の母親をぶっ殺して犯して──」
男2人が一斉に娘を責め立てるのが遠く聞こえた。耳が詰まる感覚。
視界が真っ赤に、どんどんと狭まっていく。
その時だった。
視界がぼやけ、そのまま途切れそうになる意志が引き戻されたのは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます