虚栄の、その先。

URABE

「こんなはずじゃない」はずがない。

過去にこだわっていたのは自分自身だったんだ、と素直に受け入れるのに時間はかからなかった。


グルグル巻きにされて身動きの取れない体で、それでも優雅に、時に激しく舞わなければならないことを、正面から受け入れることで私は解放されるのだ。





ブラジリアン柔術という競技には、面白い特徴がある。それは、相手の柔術衣のソデやスソを自分の指で引っ掛けるようにして、相手をコントロールすることだ。こんな競技、他にないのではなかろうか?


同じく道着を着用する柔道だって、エリは掴むがソデやスソを指に引っ掛けることはしない。さらに「掴む」というより「引っかける」というところが面白いだろう。


握力を使ってむんずと握りしめるのではなく、指の第一関節を引っかけてぶら下がる感じ。まるで猿が木からぶら下がるようなイメージ。



その分、握力や腕力は使わないにしろ、指関節への負担は尋常じゃないのだが。



もしも機会があれば、その辺の人の「指」を観察してみてほしい。関節リウマチの患者と見間違うかのような節くれだった第一関節と、梅干しのようにぼっこりと膨れている第二関節を持つ人がいたら、それは十中八九「柔術」をやっている人だ。


確認の仕方としては「デラヒーバ」とか「ベリンボロ」などとつぶやいてみるといい。それで反応すればビンゴ。



そして私にとって指先を酷使した代償は、ピアノという競技に跳ね返ってきた。



夜中に指の疼きで目が覚めるほど、ここ最近は指の調子が悪い。さらに皮膚の表面が硬化しているため指を丸めることが難しく、気づくとピーンと伸ばしたまま鍵盤を叩いていることも。


それでも、こういった不利な状況下においても、どうにかするのが人間の知恵というやつだ。過去には指が折れてもその指を使わずに練習していた私は、この程度の痛みや不自由さではへこたれない。指以外の場所、つまり手首や肘、肩などを使って、動かせない指を補うように弾いてきた。



しかし最近、ピアノの発表会が近づくにつれて、それでは騙しきれない現実をひしひしと感じていた。ましてや本番で弾くピアノは、弱い音から強い音まですべてを拾う最高級のピアノ。そんなもので誤魔化しがきくとは、到底思えない。


どう足掻いても指は動かない。グーを握ることすらできない。さらに指全体が熱を帯び、むくみが消えない。


(いったいどうすればいいんだ・・・)


しかし無情にも本番が迫る。



とりあえず本番の環境に近い状態を作るために、グランドピアノをレンタルして、そこへ友人を招いて練習をしてみた。やはり普段つかっているピアノとは桁違いの音域、打鍵、雰囲気に圧倒される。


そして私の悪いクセである「カッコつけ」が顔を出す。日常的に生演奏を聞く機会など、ほとんどないであろう友人らに、


「せっかくだから、少しでもいい演奏を聞かせてあげよう」


なんて、できもしない妄想を描いた結果、気持ちと表現だけが空回りしてミスタッチを招く。そしてその瞬間、妄想から現実へと引き戻された私はハッとなり、楽譜が飛んでしまうのだ。



小学生時代の悪夢がよみがえる。とあるコンクールで突然、楽譜が飛んで止まってしまった過去が。



もう二度とピアノなんか弾くもんか、コンクールや発表会になんか出るもんか、と深く傷ついたあの頃を鮮明に思い出す。恥ずかしかったし、悲しかったし、悔しかった。


こんな年になってまで、私はまた恥をかくのか――。



それから私は必死に練習した。とにかくミスをなくすために、どうしたらミスに聞こえない演奏になるのかを考えた。


間違った音を弾くくらいなら、その音は弾かないほうがいい。へたに聞かせようとするから楽譜が飛ぶわけで、だったら表現は後回しにして打鍵に集中しよう。



(これはすべて私のためじゃない、聞きにきてくれる人のためだ。せっかく足を運んでくれるのだから、少しでもミスのない演奏をしていい気分で帰ってもらいたい)



そんなことを思いながら、一心不乱に練習を続けた。しかし、友人らを招いて練習をするたびに感じることがあった。


たまたま時間の合う友人に声をかけて、スタジオまで出向いてもらうのだが、よりによって全員が「真っすぐな人」ばかりだった。あえてそういう人材を選んだわけではないが、たまたまそういう種類の友人が私からの誘いを受け入れてくれたのだ。



そしてそのたびに私は、自分のやっていることが「間違っている」と痛感させられた。


ミスなく聞こえるように、うまく誤魔化す弾き方を練習するんじゃなく、いま弾くことのできる最大限の演奏をするべきなんじゃないか、と。



彼ら・彼女らは、澄んだ瞳で真っすぐ私の演奏を見つめる。音楽に造詣が深いかどうかは関係なく、純粋に私の演奏に耳を傾けてくれる。普段から無骨で図々しい私が、その人物像には似つかわしくない行為を披露しているわけで、その意外性も含めて一生懸命、耳を傾けてくれているのだ。


――そんな友人らを、裏切ってはいないだろうか、と。



頭の中では華麗にショパンを弾きこなす自分がいる。だが目の前には、節くれだった太い指で、無様に荒々しく鍵盤を叩く格闘家の手しかない。想像の自分と現実が一致しないのだ。


(こんなはずじゃないのに・・・)


涙がこぼれそうになるのを必死に堪える。私はなぜ泣くのだ?なにが悲しくて、いや、悔しくて泣くのだ?そして、なにが違うと思っているのだ?



・・・結局、比べているのは過去の自分なんじゃないか?



そう気づいたとき、私は誤魔化すのを止めた。ミスタッチをしてもいい、表現力に欠けてもいい、なんなら楽譜が飛んで止まってしまってもいい。それこそが逃げも隠れもしない、今の自分なのだから。


友人らは誰も、私がうまく弾けないことへの言い訳など期待していない。そんなものを用意するくらいなら、言い訳の余地もないくらい正々堂々と無様な姿を晒すほうがマシだ。





本番まであと数日。技術的には間に合わないが、それでも「真っすぐな友人」たちを招いた練習は、私にとって価値のある練習となった。


カッコつけたり言い訳をしたり、そんな余裕があるのならばその分練習したほうがいい。今の自分が「恥ずかしい」と思うのは、それだけ自分をさらけ出していない証拠。そんな勘違いのマントは、即刻、脱ぎ捨てるべきだ!



・・・なんて、子どもじみたことを誓う帰り道であった。

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