大正メイド浪漫記
雨依
メイドを雇った作家の話
「わっ……!びっくりした」
「おい。大丈夫か?」
「は、はい。ご主人様。すぐにお茶をお持ちしますからね。」
部屋から出ようするや否や早々に転けそうになるメイド。
確かに、この家は文化住宅で私の部屋である洋間と廊下の間には多少の段差がある。が、もうきて数日になるのだから慣れて欲しいものである。
台所でかちゃかちゃと音が聞こえる。きっと紅茶でも淹れている音なのだろう。
私は目を手元の原稿に落とした。
「うん……」
その原稿はあまりに拙いもので、今まで何本も書いてきて、仮にも文化住宅に住まうものとしては全く満足できるほどの出来栄えを持っていなかった。
「まずいな。いつまでに書けばいいのだったか?」
出版社から直接依頼が来るほどになりはした私だが、全く締め切りというものがないわけではない。私の場合、大抵原稿用紙600枚程度を書いているが、それにかける時間は3〜4ヶ月だった。
「ご主人様!お茶をお持ちしました!」
トタトタとこちらにティーカップを持ってくるメイド。
……これがうちに来てから、執筆のペースが落ちていた。
もちろん、邪魔されているわけではない。なんなら気を遣ってこうやって紅茶を淹れてくることもあれば菓子を置いてくれていることもあり、助かっている。
然し、なぜかペースが落ちているのだ。
「どうされましたか?難しい顔をされて。」
「ん?ああ、お前を会った時のことを思い出してな。」
大体こいつは、私がたまたま取材で訪れた農村で吉原に売られそうになっていたところを、買い取ったと言っても過言ではない。
その時、迷っていた私を丁寧な言葉で案内してくれた女がいた。まだ10かそこら位だ。然し、存外綺麗な出立ちだったから、私は豪農かなんかの娘かと思って特に違和感はなかった。
私が豪農かなんかかと思った理由の一つに、会話から教養が溢れているのだ。一般の農民の家の娘が持っているその知識を凌駕するほどの。
私が楽しそうに話す彼女に感心しつつ、
「教養のあるいい子だね」
と褒めると、苦笑いしつつも、
「いいことばかりじゃないですよ。」
と答えたので、私がその言葉の真意を尋ねようとすると、幸子!と名前を呼ぶ声がした。
すると、その少女はパッと後ろを振り返って、
「ありがとうございました。楽しかったです。」
と、悲しそうな表情で呟いて、名前を呼ばれた方にかけ出した。
私はその少女を放っておくと後悔するような気がして、追いかけた。
結論から言うと、彼女は吉原に売られそうになっていた。
貧しい農家に生まれ、家にあった本や、さまざまな知識人から学んだ教養も、知識も、全く彼女に味方しなかったのだ。
私はひどく悲しくなった。
思えば、私はひと回り以上歳の離れたこの少女との会話を楽しんでいたのだ。
「私が彼女を買う。」
そう言うと、彼女の親も、取引に来ていた女衒も、彼女もひどく驚いたようだったが、私が20円が100枚の束をそれぞれに押し付ければ、それきり黙った。
「これで買っても差し支えないか?」
と聞くと、女衒は頷き、去っていったが、親は若干曇ったままの表情で、まだ借金は返せないと言った。
すぐにすいません。これだけ出してもらってと言うので、確かにそうだろうと、その束をあと2つほど押し付けた。
対していい暮らしはしていないだろうし、借金と言っても返せないだけでしれているだろう。
それを見てその親はひどく喜んだ。これでようやく下の子たちにも食べされられますと。
親によれば、この吉原行きは、少女から提案したそうだ。
下の子たちは、借金で物もろくに食べられず、飢えてしまっている。自分で取ることもできない歳だし、私が行こうと。この親も、それ以外もうどうすることもできず、こうやって売ると言う話になったそうだ。
「して、あなたさまはどうして娘を?」
父親らしき人が私に尋ねる。
「いや、この娘はなかなか教養がある。先程この村を案内してもらった時ひどく感心して、私自身、楽しめたのです。だからですな。」
「なるほど。そうでしたか。して、娘をどう使うおつもりで?」
「それは、給仕でもさせようかと思いまして。私は東京で作家と社長をしておりますから、身の回りの世話を頼める者を探していたのです。」
「そうですか……娘を、よろしくお願いします。」
そう、深々と頭を下げる父親を見ていると、戸が開いて、先ほどの娘……幸子が顔を出した。
「本当にありがとうございます。これから、ご主人様のものとして誠心誠意お使えさせていただきます。」
「そんな堅苦しくしなくてもいい。さっきの話し方で丁度よかろう。」
「そうですか。……それではそうさせていただきますが。」
幸子はそう頬を緩ませる。すると母が、
「もう幸子は、あなたさまのものです。名前をお付けください。」
と言う。幸子は戸籍に名前が載っている。つまり、幸子はこれから別の人間として生きていくことになるのだ。
「幸子。どのような名前がいい?」
私がそう尋ねても、
「ご主人様がお決めください。」
と言うばかりだ。
然し、この幸子という名前、非常に良いな。この少女に合っている。そうなれば……
「さち。お前、ひらがなは解ろう。ひらがなでさちだ。」
と、そう言うと、さちは
「わかりました。私は今日からさちとして生きていきます。」
と、頷いた。
さあ、帰ろうとなったが、行きとは違い暇がなかった。
さちと話すのは本当に楽しく、話が途切れないので、全く飽きらずに地方から東京までの長い時間を過ごせたのだ。
「お前を買ってよかったよ。」
「そ、そうですか。」
そう言ってやると、少々恥ずかしそうに俯いてしまう。
そして、新しい二人の生活が始まったのだ。
こうして思い返してみると、書くペースが落ちたのは何故かなんて明白じゃないか。
「つまり楽しいんだ、満たされてるんだ。」
「??どうかされましたか?」
こちらの声に気づいて掃除の手を止め、こちらを見つめてくるさち。
「いや、さちがいてよかったな。とな。」
「そうですか。まだまだ子供ですけど頑張りますからね。」
そうやって微笑んでくる顔は、村で出会った時のしっかり者の顔ではなく、あどけなさの残る子供らしい顔だった。
大正メイド浪漫記 雨依 @Amei_udonsoba
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