あの子をまた思い出す
かえで
第1話
5月下旬の梅雨の頃だった気がする。湿気のせいで僕の髪は肥大化し、100均の櫛は一切の効力を持たなかった。いっそのこと坊主にしようなどとナンセンスな思考を巡らしていた14時にあの子は僕の家を訪れた。いつもなら、気圧のせいで偏頭痛がひどくて眉間に皺を寄せているのに、その日はいつになく笑顔で、とても綺麗だった。今思えばその時に僕は数十分後の結末を予想していたのかもしれない。僕は彼女を迎え入れて洗面所から水色のタオルを持ってきた。「ありがとね。」優しくつぶやいた彼女は受け取ったタオルを一向に広げようとしない。梅雨の喧騒が薄く響いていた。僕は何をしていたっけか。突っ立って彼女をただ見ていたかもしれないし、左隣を空けてソファーに座っていたかもしれない。居心地の悪さに掃除でも始めていたかも。何秒かあるいか何分かの虚無が根をあげそうになった時、「ありがとね、いままで。」そう聞こえた。数秒前の感謝よりもずっと優しく穏やかだった気がする。ぼくは2回も感謝を述べたあの子が可笑しくて、おかしいなと思って、ふふふと笑った。玄関前はまるで初めからそこにいなかったみたいに空間がぽっかりと空いていた。どこからか嗅ぎ慣れた柑橘系の香りがした。そんな気がした。
あの子をまた思い出す かえで @hitokakera-no-cake
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