夕暮れどきの君は

今福シノ

前篇

「ねえ、美作みまさかさんは好きな人とかっていないの?」


 クラスメイトや友だちからこうかれたとき、私の答え方は決まっていた。


「ううんと……私はいないかな」


 すると会話はたいていそこで終わり、違う話題へと移る。ときどき「え~ほんと~?」や「誰にも言わないから教えてよ~」といった追撃ついげきがやってくるけど、本当にいないのだと言葉を重ねると、彼女たちは少しつまらなさそうなさそうな顔を見せる。


「ごめん。私、そろそろ部活に行くね」


 今日もまた会話にそうピリオドをうって、私は教室を出る。

 申し訳ないとは思っていた。クラスメイトと仲良くしたくないわけでもなかった。私だって、愛や恋に興味がないわけじゃない。

 でも、私にはこう答えるほかないのだ。


 だって、この話題に入ることは、きっと私には不可能だから。



  ***



「おつかれさまです、部長」

「ああ。今日は遅かったな美作」


 文芸部の部室に入ると、男子生徒がパイプイスにすわったまま出迎える。


「2人だけの部に嫌気いやけがさしてめちまったのかと思ったよ」

「それが嫌ならとっくの昔に辞めてますよ。もうずっと部員、私たちしかいないじゃないですか」

「それもそうだな」

「クラスでちょっと話してただけですよ」


 言って、いつも座っているパイプイスに腰を下ろす。そして部活動を開始――することはなく、今日出た数学の宿題にとりかかった。どうせ家に帰ったらただでさえ少ないやる気が消え去ってしまうに違いない。早めにかたづけておくのが一番だ。


「……」

「……」


 部室の中は、まるで誰もいないみたいに静けさに包まれる。開け放たれた窓からは、少し蒸し暑い空気が漂ってきて、夏の訪れを感じさせた。


 文芸部では、特にこれといった活動をしているわけではない。好きなようにしていても誰かに怒られることはない、廃部寸前の弱小部。

 ただひとつ、あるとすれば――


「なあ美作」

「はい?」

「今日読んでもらってもいいか?」


 訊き返す私に、部長は紙の束を渡してくる。


「はい、いいですよ」


 それは、部長が書いた小説だ。


「また新人賞に応募するやつですか?」

「ああ。今回は前よりもうまく書けた気がするんだがな」


 受け取ったものを、私はパラパラとめくる。今どきめずらしい、手書きの原稿。


「それじゃあ、読ませてもらいますね」

「ああ、いつも悪いな」

「いえ。読むのは嫌いじゃないですから」


 私はタイトルだけが書かれた表紙をめくる。「ふう」とひとつ深呼吸をしてから、文字の海へと飛び込んだ。


 部長の小説は、恋愛小説だった。高校生の男女が登場人物で、ヒロインが不治の病におかされることもなければ、途中で死ぬこともない。ありふれた日常で起こる恋愛模様もよう。それが、小さな宝石をしまうみたいに丁寧ていねいえがかれている。

 賞をもらえるような作品なのかどうかは、正直わからない。だって私は審査しんさ員じゃなくて、ひとりの読者だ。私にできるのは、流れる文章の中を泳ぎ、その世界に触れることだけ。


 再び部屋は沈黙ちんもくで満たされる。だけど少し前までとは違って、私が紙をめくる音と、部長が原稿用紙に文字を書く音がときどき宙をう。

 一方で小説を書き、もう一方で小説を読む。ただそれだけの時間。

 ドラマチックなことは何もない、何か大きな変化が生まれるわけでもない。それでも、私にとっては大切な時間だった。


 やがて、最後の1枚を読み終える。気づけば窓からさしこむ光は、オレンジ色へと変わっていた。私は水から上がった人が呼吸を整えるように息をひとつく。


「……どうだった?」


 と、すかさず部長がたずねてきた。


「はい、今回もいいと思います」

「美作の感想はいっつもそれだからなあ。いや、うれしいのはうれしいんだけどさ」

「でも、いいものはいいとしか言えないですよ」


 原稿用紙に書かれた文字をなぞりながら答える。それは、素直な感想だった。あいにく私は読む専門。小説なんて書いたことがないから、思ったことをスマートに言葉にすることには慣れていない。


「タイトルの『夏色の手紙』はちょっと狙いすぎかもしれませんね」

「あ、美作もやっぱそう思うか?」

「でもストーリーは『夕暮れどきの君は』よりもまとまってると思いますよ」

「それ、最初に俺が見せたやつだろ。恥ずかしいから忘れてくれよ」

「残念ながらそれは無理ですね」


 紙の束を返しながら言うと、部長はバツが悪そうに頭をかく。


「ま、美作のおすみつきも出たし、これで応募することにするわ」

「私が読んだだけじゃ、何の保証にもなりませんよ?」

「そう言うなって。気持ちの問題ってやつだよ」


 部長が原稿をカバンにしまう。同時にチャイムが流れてきた。下校時間を知らせるチャイムだ。


「帰るか」

「はい」


 私たちは立ち上がり、部室を出る。


「そんじゃあ、また明日」

「はい。おつかれさまです」


 あいさつを交わして、それぞれの帰り道へ。だらだらと話すこともなければ、どこかに寄り道するでもない。ただ部室で小説を読むだけの放課後は終わり、夜が来て。そしてまた朝日がのぼる。

 これが私の、美作沙苗さなえの日常だった。

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