犬にやきもちを焼かせてはならない

「お前、そこに入って情報収集してこい」

「ええ!?」


 ライアンが驚きの声を上げる。お喋りに興じていた紳士淑女の視線が二人に集まって、ライアンは思わず俯いた。

 アリスがお茶のおかわりをポットから淹れる音がこぽこぽと響く。


「なぁに。招待状はあるんだ。堂々とメンバーとして潜入すりゃあいい」


 意地悪気な笑みを浮かべて、アリスがこともなげに言った。


「で、でも私が行ってもお役に立てるかどうか……」

「バカ野郎。男がやる前から怖気づいてんじゃねえ。それにこれはロンドン市民の安全を脅かす凶悪犯を捕まえるための【潜入捜査】ってやつだ」

「潜入捜査……」


 その言葉に、戸惑っていたライアンの表情に好奇心という火が灯ったように見えた。


「どんな情報だってかまわない。秘密の空間には自ずと秘密が集まるもんだ」

「なるほど……」


 とはいえ、いかがわしい世俗の事など何も知らなそうな貴族のお坊ちゃま一人に任せるには心配である。

 単独の潜入捜査というものは常に危険が伴うからだ。


「心配するな。お前だけに行かせることはしない。どうにかそのクラブの事を調べて潜り込む算段を立ててやるさ」

「アリス殿も行くのですか……? 恐らく女性は入れないかもしれませんが……」

「そんな事は百も承知だよ。大概の紳士クラブなら女がいるはずだ。商売女か、ショーガールとして潜入すればいい」


 こともなげにそう言い切ったアリスに、ライアンは目をむいた。


「なっ……!!! そんな事ダメで、モガっ!」


 大きく声を上げようとしたライアンの口に、アリスが電光石火の勢いでスコーンを突っ込んだ。

 もごもごと抗議の呻きを上げるライアンを尻目に、周りを見る。幸い注目されずに済んだようだ。


「デカい声出すな。バカ!」

「貴女がとんでもない事を言い出すからじゃないですか!」


 じろりと睨み上げるアリスに、スコーンのくずを口の周りに付けたままのライアンが声量を落としながらも声を荒げた。


「何だ? 娼館に行った事は無いのか? じゃあ良い社会勉強になるな」

「そういう事を言っているんじゃありませんよっ! 何で貴女がそんな……」


 そこまで言いかけたライアンに、アリスは問答無用というように人差し指を横に振りながら、チッチッチと舌を鳴らした。


「仕切ってるのは私だ。異論も抗議も受け付けないぞ。嫌なら降りてもらって構わない。そしたら私が単独で潜入するからな」


 冷めきってしまった紅茶を啜るアリスに溜息をつくと、ライアンは「勿論。手伝わせて頂きますよ」と言った。


 カフェから出てすぐにホワイトチャペルに向かおうとしたアリスだったが、自分も同道すると食い下がるライアンの提案を断り切れず、またもや彼の豪華な馬車で送ってもらう事になった。

 前回と同じ、路地の手前で停めてもらい馬車から降りる。そして当然と言うようにライアンもついて来た。


「やっぱりお前も来るのか」

「当然です」

「また若い女性一人で……何て言うつもりじゃないだろうな」

「それもありますが、私も捜査に加わるなら仲間という事でしょう? 貴方の助手なんですから」


 前を歩いていたアリスがピタリと足を止め、驚いたように振り向いた。


「どうしたんです?」


 この育ちの良い若者はあくまでも善意で自分に手を貸してくれているのだ。貴族の暇潰しだと高をくくっていた自分がアリスは何だか申し訳なった。


「いや、そうか。そうだよな。すまん。行くか。助手さん」

「はい」


 ライアンの返事は、心なしか嬉しそうに弾んでいた気がして、アリスは小さく笑った。


 テディが日常的に入り浸っている娼館の入り口に、勝手知ったるなんとやらで入る。ライアンはやはり居心地が悪そうに首を竦めて小柄なアリスの後ろをついて行く。


「あんまりオドオドするなよ。この前来ただろう?」

「や、あまりこういう場所は慣れていないので……」


 アリスは呆れたようにライアンを見上げた。


「そんなんで潜入捜査なんかできねえぞ。もっと堂々としてろよ。紳士らしく」

「は、はい。善処します。ところで、何故テディ殿の元へ?」

「アイツに預けたものがあるんだ。その結果を聞く」


 圧倒的に説明不足のアリスに、ライアンが頭の上で疑問符を飛ばしているうちに、目的の部屋に着いた。


「おおい。いるか?」


 ドンドンと無遠慮に扉を叩くが返答はない。ドアノブをひねるとそのまま扉が開いた。


「何だよ。不用心だな。入るぞ」

「ちょっと、アリス殿!」


 ライアンが止めるのも聞かずずかずかと部屋に入ると、相変わらず酒瓶が転がっていた。

 部屋の中央にあるベッドはもぬけの殻だ。


「ったく。肝心な時にいねえのか」


 お世辞にも綺麗とは言えないベッドに腰を下ろした。


「仕方ない、アイツが帰ってくるまで待つか……お、これまだ入ってるじゃねえか」


 サイドボードに置いてあった半分ほど残っているウィスキー瓶を手に取り一気にあおる。安酒のアルコールが喉を焼く感触は久々だった。


「あまり飲み過ぎるのは身体に毒ですよ」


 向かい側の椅子に腰かけたライアンが心配そうに言う。

 アリスは肩を竦め、「これくらいじゃ寝酒にもならないさ」と空っぽになった瓶をベッドに放った。



「アリス殿は、テディ殿を信頼しているのですね」

「ん? ああ、アイツは仕事が出来る奴だからな。女にはだらしないが」

「好きなんですか? 」


 数秒の空白の後、アリスが「は?」と間の抜けた声を出した。 言われた言葉が脳で処理されるまで時間がかかった。


「冗談じゃねえ! アイツは唯の仕事仲間だ!」


 それにアイツは男……と言いかけてアリスははた、と動きを止めた。

 彼は自分の中身が無骨な大男だという事実を知らない。

 余計な事を言っても到底信じないだろうし、まかり間違ってアリスの父母に漏れたら厄介だ。

 そう頭の中で煩悶して、口を噤んだ。だがライアンはお構いなしに続ける。


「テディ殿はユーモアもあるし、ハンサムですし、アリス殿も一目置いているようですし……」


 んん?とアリスが首を傾げた。もごもごと愚痴を垂れ流すライアンはなんというか、不貞腐れた大型犬のようにも見えた。

 そこまで言って、ライアンはハッと我に返ったようにアリスを見て、ようやく失言を自覚したのかみるみる顔を赤らめた。

 アリス、いやアーサーは幼い頃、可愛がっていた犬がいた。その犬は酷く人懐こい性格だったが、他の犬を構ったりするとやきもちを焼き、暫くしょぼくれたりして可愛かったのを思い出した。


「ライアン、お前、やきもちか?」

「え、あ、いや……」


 にやにやと腰掛けるライアンに近づく。彼はバツが悪いのか顔を赤くしてそっぽを向いていた。


「お前も可愛い所あるじゃあねぇか! ははは!」

「うわっ!」


 整えられた赤髪を大型犬を撫でまわすように掻き回す。あの犬も赤茶色をしてたっけな、と感慨深い気持ちになった。


「ちょっと、やめてくださいって!」


 中身であるアーサーからすれば大分年下の男の初心な反応が面白くて、撫で繰り回す。いい加減に……!とライアンがアリスの右手を取り、立ち上がる。その弾みでアリスの体勢が崩れた。


「うおっ」

「あ、危ない……わっ!!」


 そのまま背中からベッドに倒れる。それを庇おうとしたライアンも足が縺れたのかその上に倒れ込んだが、辛うじて華奢な身体を押しつぶす前に両手を脇についてそれを防いだ。


「……」


 アリスは今自分がどういう状況なのか、いまいち理解できなかった。いや、理解したくなかった。

 不可抗力とはいえ、自分を押し倒す形になってしまった男を何とも言えない気持ちで見上げる。

 散々自分が撫でまわしたせいで崩れた髪は、いつもの紳士然としたライアンとはがらりと変わって、野性的な魅力に満ちていた。

 翡翠色の視線がどうも居心地悪くて、アリスは身動ぎする。紅潮している柔らかそうな頬とほっそりした首筋(酒のせいだが)を見たライアンの喉がごくりと鳴った。


「おい……ライアン、ちょっと待」

「アリス殿……」


 するりと長い指がアリスの頬にかかろうとした時、乱暴な音を立ててドアが開き、びしょ濡れになったテディが勢いよく転がり込んできた。


「クソッたれ! いきなり土砂降りなんざツイてねー……えっ」

「えっ」

「えっ」


 三人の声が同時に重なり、微妙な空気がその場に流れた。


「人んちで、何やってんですか……?」


 戸惑ったようなテディの声に、アリスは顔を覆いながら深いため息を吐いた。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る