ガラスの靴は何処にある?

「おい! 目瞑ってんじゃねェよ手伝え!」

「無理ですよ! ちょっと、無理矢理そっちに向かせようとしないでください!」


 ガーフィールド邸の裏庭に密やかな声が響く。

 帰宅するにあたって、テディが気を利かせて置いておいてくれたドレスに着替えようとしているのだが、今まではマーサやメイドたちの手伝いがあってスムーズに着替えられたのだ。

 貴族階級の淑女のドレスを一人で着替えるなど、アリス、もといアーサーには経験した事など無い。

 せめてライアンに手伝って貰おうとしたが、彼は頑なに後ろを向いていて手伝おうなどという素振りも無い。顔を無理やりこちらに向かせようとしても、首まで真っ赤にして、抱きかかえているペキニーズに顔を埋めてしまう始末であった。


「ったく。しょうがねえな……ええっとこれを履くんだったっけ」


 水色のスカートを履き、ジャケットをもたつきながらも着てから白色のショールを肩に羽織ると「出来たぞ」と背筋をピンと伸ばして立ち上がった。

 ライアンがホッとしたようにアリスの方を向いた。


「かなり遅くなっちまった。怒られるだろうからお前、話合わせろよ」

「勿論ですとも」


 念の為屋敷の裏からぐるりと回って、少し離れた場所に停めた馬車に戻ると、何食わぬ顔で屋敷の玄関から戻っていった。

 だが、とうに門限の八時は過ぎている。アリスにとっては夜八時はまだまだ夕方なのだが。

 扉を開けると、ホールで鬼のような形相で仁王立ちするメイド長が嫌でも目に入り、うんざりと肩を落とした。


「アリスお嬢さ……」

「あー……マーサ、これには深い深い事情が……」

「ララちゃん!!!!」


 アリスが口を開いた瞬間、ピンク色のドレスのマダムが、そのふくよかと言って余りある図体を猛牛の如く突進してきたので、アリスは壺を守ろうと頭の上に掲げ、「うぉ!」と叫びながらも咄嗟にそれを躱したが、残念ながら背後にいたライアンはもろにその突撃を喰らってしまったようで、まるで路傍の小石のように弾き飛ばされた。当の猛牛、もといモリス男爵の奥方、レディ・モリスは宝石をちりばめた指輪を芋虫のような指で真っ白なペキニーズを撫で回している。


「ああ〜! ララちゃん! もう二度と会えないかと思ったわぁああ!!」


 白粉で真っ白にした顔涙を流しながらがララちゃんに頬ずりしていた。当のララちゃんは酷く嫌そうだ。

 突き飛ばされ尻もちをついていたライアンが、埃を叩きながら立ち上がり苦笑いをした。

 アリスも大事な壺を守る為に、頭の上に掲げたままその光景を気の毒そうに見つめていると、騒ぎを聞きつけたのか、何人かの足音が階段から聞こえてきた。


「アリス!? 一体これは何の騒ぎなの!?」


 客間から出てきた母クラウディアが慌てふためきながらバルコニーからアリスに声を掛ける。その後ろから何人もの客人らしき人達が現れ、そのうちの灰翠色のイブニングドレス姿の中年の婦人がアリスを見て眼を見開いた。


「あなた、それは……! ?」


 カツカツと忙しなくヒールの音を響かせて階段を降りて来た彼女は、真っ直ぐにアリスの方へ向かい、近すぎると言ってもいい距離でアリスを覗き込んだ。いや、見ているのは頭の上に掲げたままの壺だった。



「あ、あの……ちょっと……」

「間違いないわ……わたくしの失くなったコレクションだわ!!!」


 灰翠色のドレスの婦人、レディ・ミリアムは感極まったかのように甲高い声を上げた。

 壺を差し出すと、レディ・ミリアムは赤子を扱うかのように慎重に受け取り、見分し始めた。

 正直、パッと見ても冴えない黄土色の汚いガラクタのような壺だ。アリスには骨董や美術などさっぱりわからないが。


「あああ~、良かった、無事だわ……ありがとう。ミス・ガーフィールド。貴女のお陰で五十万ポンドの損失だったわ」

「五十万ポンド!!!??」


 あまりの金額に思わず大声を上げてしまった。後ろではさすがのライアンも目を丸くしている。


「この壺はね、日本と言う国の十二世紀頃の古瀬戸という焼き物なの。これは古瀬戸黄釉魚波紋瓶という非常に貴重な一品よ」

「へ、へえ~」


 そんな高価な壺をおいそれと抱えていたという事実に、アリスは何だか薄ら寒くなった。

 ライアンが後ろから「割らなくて良かったですね」と小さな声で言った。

 レディ・ミリアムはアリスとライアンを交互に見つめながら首を傾げた。


「あなた達が取り戻してくださったのかしら?」


 その問いにアリスが答える間もなく、ライアンが口を開いた。


「ええ、ですがほぼミス・ガーフィールドが見つけたようなものです。彼女は優秀な探偵ですよ。私は小間使いですから」


 全く悪気無く笑うライアンに、アリスは引き攣った笑みを浮かべながら、肘で彼の横腹を小突く。

 レディ・ミリアムはその言葉ににっこりと笑みを浮かべ、「ハーマン!」と声を上げた。すると、どこからか音もなく大柄の黒人執事が彼女の背後に現れた。一切無駄のない動きはまるで豹やクーガーを思わせた。


「屋敷へ帰るわよ」

「はい、奥様」


 恭しく壺を手に取ると、彼女の執事、ハーマンはその場を後にする。レディ・ミリアムが屋敷を出る前に振り返った。


「今度改めてお礼をさせて頂きますわ。ミス・ガーフィールド。ライアン様。今度はわたくしの屋敷でお茶でもしましょう」


 レディ・ミリアムはそう言うと悠然と屋敷を出て行った。


 その後、ひたすら愛犬との涙の再会を繰り広げていたレディ・モリスは何度も礼を言って、あばらと首の骨が折れるんじゃないかと言う位にアリスに力いっぱい感謝の抱擁をしてから帰宅していった。


 客人が全員帰り、玄関ホールにはアリスとマーサ、クラウディア、そしてライアンの四人だけが残っていた。


「つ、疲れた……」


 よれよれになったアリスが近くの長椅子に足を投げ出すようにして腰掛けた。ライアンも流石に疲れたように隣に座った。


「あら! お嬢様! 殿方の前でそんな座り方ではしたな……」


 眼を三角にして声を上げようとしたマーサに、クラウディアが何かを察知したかのようにそれを遮った。


「マーサ、ちょっといいかしら? わたくし、ホットミルクが飲みたくなってしまったわ」

「あら、奥方様、ちょ、ちょっと……」


 クラウディアがマーサの手を取り強引にキッチンの方へ連れて行く。去り際にクラウディアが振り返って「後でお話を聞かせてね?」と小声で言ったのをアリスは有難いと思う反面、酷く怒られるのだろうと憂鬱に感じた。実は母は妙齢の娘の為に配慮したのだが、アリスにはまったく伝わっていなかった。


「疲れましたねぇ」


 ライアンもアリスと同じように足を投げ出して息を吐いた。


「でも、とても楽しかったです」


 アリスがライアンを見上げて、笑った。


「ふっ、はは。お前本当に物好きだな」


 にっと笑うアリスの頬にライアンの手が包み込むように掛かった。束の間、空色の瞳と翡翠色の瞳が見つめ合う。


「な、何だよ……?」


 困惑したアリスの呟きに、ライアンがハッとしたように肩をびくつかせた。そして優しくアリスの目元を拭う。


「失礼、煤が付いていたので……。でも、そういう貴女も素敵ですが」


 真っ直ぐな翡翠色の瞳にどうも居たたまれなくなって、アリスは俯いた。何故か顔や首が熱くなったが、疲労のせいだと無理矢理納得する事にした。


「何だよそれ。ははは……。今日はどうもな。あんたが居てくれて助かったよ」

「ええ。私も楽しかったです。また誘ってください」

「また来るのかよ」

「勿論です。小間使いですから」

「根に持ってやがるな……悪かったよ。助手二号に格上げしてやる」

「それは嬉しい昇格ですね」


 笑いながらライアンが立ち上がり、そろそろお暇しますね。と言った。


「ああ、ご苦労さん。日当は払えねえけど」

「では……おやすみ。アリス」

「おやすみ……。ライアン」


 扉の閉まる音と共に、ライアンの姿が消える。アリスは暫くの間扉を見つめ、それから大きなため息を吐いた。

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