緋色のチェシャ猫を追いかけて

「あらぁ。可愛らしい坊や。お会いした事はあったかしら?」


 白いレースの手袋をしたしなやかな指を口元に添え、小首を傾げるその仕草は何気ないはずなのに、なんとも妖しげな魅力を湛えている。大きく胸襟の開いた、まるで娼館の女のような濃い赤紫のイブニングドレスがそれに拍車をかけていた。

 アンゼリカはそうやって己の魅力を最大限に使い、幾人もの男達を籠絡し、驚くほどの金品や宝飾品を盗んできたのだ。


「あ……いや……」


 アリスは言葉を濁し、帽子を深く被り直した。だがアンゼリカの興味はアリスの後ろに移っていた。


「あら、素敵な殿方ね。どう? これからお茶でも」

「あ、その……私は……」


 ぐいぐいと迫るアンゼリカに思わずライアンがたじろぐ。

 アリスに救いを求めるように視線をやったが、当のアリスは呆れたような目つきでアンゼリカを見てから口を開いた。


「その犬、アンタが此処に持ち込んだ奴だろ。その……何とか男爵って奴の屋敷から盗んで」

「モリス男爵」

「そうそいつだ」


 すかさずライアンが補足する。

 だがアンゼリカは悪びれもせずにクスクスと笑っている。


「男爵も困ったものですわ。私にどうしても、と仰るんですもの。でも、私犬をどう飼っていいのか分からなくて」

「ララちゃんの首輪には、ルビーの首輪がしてあった筈です。以前パーティーにお邪魔した時に夫人が自慢していたのを覚えています」


 ライアンの言葉にアリスはようやく合点がいった。


「成程ね。紅い宝石に眼が無いアンタの目当ては首輪だったって訳か。今出せば警察には突き出さねえ。どうする?」


 その言葉にアンゼリカが可笑しそうに笑う。


「素敵! 探偵小説みたいですわね。でも私が頂いた時には首輪はお返ししましたのよ?」

「そうそう、アンタ! こないだ持ってきた壺なんだけどねえ、良い値段で売れたよ。またよろしく頼んだよ」


 その場の空気をぶち破るように、ウルスラがアンゼリカに手もみをしながら笑った。

 アリスとライアンは呆れたような、胡乱な視線を彼女に投げた。


「それって……レディ・何とかの……」

「レディ・ミリアムですね。彼女は古美術品や骨とう品の蒐集が趣味ですから」

「あら、ウフフフフ」


 またライアンが補足した。アンゼリカは誤魔化すように口に手を当てて笑う。

 何とも言えない、微妙な空気がその場に漂っていた。


「あ、いたぞ! その女だ!」


 アンゼリカの背後から男の声が響き、微妙な空気は一変して緊迫感をはらんだものに変わった。

 黒いボーラーハットを被った背の低い男がアンゼリカを剣呑な表情で睨み付けている。

 後ろからも数人の男達が、ガラクタとあばら屋に囲まれた狭い路地を塞ぐようにぞろぞろと近づいてくるではないか。


「もう、しつこいわねえ」


 アンゼリカが低い声で舌打ちした。目つきが獲物を狙う猫のように鋭いものに変わる。


「テメェが坊ちゃんが言ってた女だな。ちょっと面貸してもらうぜ」


 ボーラーハットの男が餌を前にした鶏みたいに早口でそう言った。顔は出っ歯でネズミに似ているかもしれない。

 アンゼリカは幾人もの男を前にしても妖し気な余裕は相変わらずで、クスクスと笑う。


「グレゴリー様にしつこい男は嫌われますわよ。とお伝えくださいな」


 男達とのやり取りを他人事のように眺めながら、コイツは一体この短期間に何件のトラブルを抱えているんだ、とアリスは正直感心した。自分が引っ掻き回されるのは真っ平ごめんだが。


「この女性は何となく、あなたに似てますね」


 後ろからライアンが面白そうに耳打ちした。おい、冗談じゃねえ。と抗議したかったが、次の瞬間アンゼリカが動いたのでそれは叶わなかった。


 アンゼリカが傍らにうず高く積まれた廃材の山を蹴り飛ばして、男達の進路にぶちまけた。

 そして、ドレスを着ている癖に驚くほど俊敏な動作で身を翻してその場から逃走した。


「くそ、逃げやがった! ライアン、ララちゃんを買い戻しておけ! あと壺を誰に売ったのかも聞いておいてくれ!」


 アリスが咄嗟にライアンに言い置いて追いかける。後ろの方でライアンが「わ、分かりました!」という声が聞こえた。


 アンゼリカの後ろ姿はもう既に小さくなっていた。アリスはガラクタ街の人混みを縫いながら彼女を追う。


「あのドレスで一体どうやって走ってるんだよ!」


 悪態を吐きながら、アリスが全速力で追い駆ける。こちらは走りやすい労働者のズボンとシャツ姿なのに、一向に差が縮まらない。

 アンゼリカが露店の近くの廃材を蹴倒しながら角を曲がる。別方向から追ってきていた男二人が廃材に足を取られてすっ転んだ。転がった男達を飛び越える。

 この先はテムズ川だ。入り組んだ路地は無く、見通しも良い。アリスは追う足を更に速めた。


 視界が開けた。

 淀んだ鈍色のテムズ川を幾つもの運搬船が行き交っている。ロンドンの主要河川。遠くにはビッグベンが工場の煙越しに見えた。

 視線を巡らせ、赤紫色のドレスを探す。


「待ちやがれ! クソ女!」


 声の方を見やると、桟橋の近くで大柄な男がアンゼリカの手首を掴んで引き摺ろうとしている所だった。

 アリスは駆け出し、思い切り勢いをつけて男の背中を飛び蹴りした。


 げ!と声を上げて前につんのめった男にアンゼリカが驚いたように目を丸くした。


「可愛らしい騎士さまね。お礼を言うわ」

「勘違いするなよ。アンタには聞きたい事があるからだ」


 にべもなくそう言い放つと、アンゼリカがあの魅力的な微笑を浮かべてアリスを見た。


「いいわよ。何でも答えてあげる。でも、ここを切り抜けたらね」


 背後から、前から、アンゼリカにコケにされて殺気立った男達がこちらを睨み付けながら近づいてくる。

 アリスはやれやれと肩を竦めたが、久しぶりに暴れるかと言いたげににやりと笑って右の拳を左の手のひらに打ち付けた。

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