白の礼拝堂の下には虎の巣がある
「なるほど、そんな事が」
アリスから事のあらましを聞いたライアンは笑いを堪えながら言った。
「笑い事じゃない。私にとっては大問題なんだ」
むすっと呟くアリスを見てまたライアンが笑ったので、むっとしながら端正な顔を睨んだ。
「失礼。だが確かにモリス男爵の奥方は無類の犬好きだし、レディ・ミリアムは古美術の蒐集家で知られている。もう一人は恐らく……シスレー伯爵の次男、グレゴリーだな。彼は色々と奔放な方だ」
話を聞いただけでライアンは集まってきた貴族達を言い当てたので、アリスはぱちくりと目を瞬く。
「よく分かるな。さっきの話で」
「社交界は狭いんですよ。ミス・ガーフィールド。それで? 何処へお送りすればよろしいですか?」
アリスは今まで乗った馬車のなかで一番ふかふかな馬車の座席の触り心地を堪能しつつ言った。
「あー……ホワイトチャペルまで」
ホワイトチャペルなど、淑女(しかも未婚の)が歩くなどとんでもないと、メイド長は肩を怒らせて叫んだだろう。
だがアリス、アーサー・バートレットにとっては愛すべき場所であった。
お世辞にも綺麗とは言えない路地や、泥だらけの野良犬、工事へ向かう労働者たちや忙しなく働く女たち。
みな、勤勉で善良な人たちだ。確かに、余所者は財布やカバンに気をつけなければならないが。
「ここで止めてくれ」
アリスの言葉で路地のど真ん中で止まった大きな馬車に、赤ら顔の中年男が邪魔だと毒づいた。
子供達が好奇心を抑えられずに馬車の中を覗こうとして御者がその都度声を張り上げる。
「ミス・ガーフィールド。本当に此処で宜しいのですか?」
「いいんだ。馬車がデカすぎて路地に入れんだろ」
ライアンが戸惑ったようにアリスを見た。平然と扉を開けて降りてゆくアリスを見て、ライアンが慌ててその後を追った。
「何でついてくるんだ?」
「こんな場所を若い女性一人で歩かせられませんよ」
労働者ばかりの街で、上等な服を着て歩く二人は酷く浮いていた。アリスは溜め息を吐くと、好きにしろ。と言い置いてさっさと歩き始めた。
その古いフラットの入り口では、この時間いつも不機嫌そうな中国人男性が籐の椅子に腰掛けて新聞を読んでいるのをアーサーことアリスは知っていた。
「嘿,最近怎么样了?(やあ、調子は?)」
流暢な中国語が可愛らしい唇から飛び出して、中国人男性のみならずライアンも目を丸くした。
アリスは構わず言葉を紡ぎ出す。
「我是来见泰迪的(テディに会いに来たんだ)」
「我还在我的房间里。我不知道他是否醒着。(まだ部屋だよ。起きているかは知らんが)」
「谢谢(ありがとう)」
軽く片手を上げ、フラットの階段を登る。かび臭いすえた匂い、そこかしこからベッドの軋む音と女性のいかがわしげな声が聞こえて、ライアンは居心地悪そうに首を竦めた。
「ミス・ガーフィールド、ここは一体…」
「ああ、お坊ちゃんはこういう場所は初めてか? 此処は中国人がやってるもぐりの売春宿だ。大丈夫、オーナーは信用できる奴だよ」
「そういう事を聞いているわけでは…」
アリスはライアンの疑問などどこ吹く風で狭い階段を登り続ける。
暫く登り、アリスは4階のとある部屋の前で止まり、遠慮の片鱗も無く乱暴に扉を叩いた。
「おい、いるんだろうテディ」
ガンガンと容赦なく鳴るノック音に、傍らのライアンが驚いたようにアリスを見た。
「ちょ……いきなりそれは……品が無いのでは…」
「クソが、寝てやがるな……ちょっと待ってろ」
アリスはライアンが止めようとするのも何のその、少しだけ扉から距離を取った。
「何を……」
次の瞬間、アリスの右足が立て付けの悪い扉を思い切り蹴り付け、ぶち破った。
「開いた。行くぞ」
呆気に取られて口を開けたまま固まっているライアンを残し、アリスはさっさと部屋に入って行った。
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