第56話 失われた記憶
広い寝室で、一晩ぐっすり休み目覚める。
起きてすぐに、どこか寂しいと――ティアラローズは思う。
「一人で寝ているのは、いつものことなのに」
どうしてだろうかと考え、広すぎるからそう感じてしまったのかもしれないと結論づける。大きく背伸びをして、ゆっくりストレッチをしてからベッドを出た。
今日の予定は何もないと、フィリーネから聞いている。
一日ゆっくりすごしましょうと微笑んだ彼女。けれど、何か言いたげだった 。自分の現状がおかしなことになっていることは、ティアラローズも自覚している。
――それが何かわかればいいんだけど。
特に、アクアスティード。
どうして彼が自分と一緒にいるのかが、わからなかった。もちろん好きなキャラクターだったのでお近づきになれているのは嬉しいし、もっと話をしたいと思う。
でも、アクアスティードの様子は――あれではまるで。
「まるで……」
どきどきするのを耐えるように、ぎゅっと手を握る。
自分の頬が赤くなっていくのを感じて、どうしようと思い――コンコンと、ノックの音が部屋に響く。続くフィリーネの声を聞いて、ティアラローズは思考をやめる。
入室を促すと、紅茶を持ったフィリーネの姿。
「おはようございます、ティアラローズ様」
「おはよう、フィリーネ」
フィリーネがドレスの用意をする間、紅茶を飲んで息をつく。
ゆっくりしましょうと言われはしたけれど、しなければいけない仕事はある。アイシラと近いうちに、海の管理に関する話したいことだってある。
「…………」
今までかかわってきた仕事などに関しての記憶は――しっかりとあった。
ということは、ここはマリンフォレストで、王城であるということもとんとん拍子に思い出す。
「フィリーネ」
「はい?」
「本日、アイシラ様は登城のご予定があるかしら?」
もしあるのならば、少し時間をもらいたいとティアラローズは告げる。
「アイシラ様は、登城されると思います。……というか、ティアラローズ様、記憶が?」
「え?」
息を呑むようなフィリーネの声に、ティアラローズは笑う。
「昨日は、少し混乱してしまっていたみたい。わたくしはもう、大丈夫よ」
「ああ、よかった……よかったです!」
「心配をかけてしまって、ごめんなさいね」
「いいえ、ティアラローズ様がお気にすることではございません。わたくし、すぐにアクアスティード殿下をお呼びしますからお待ちくださいませ!」
――アクアスティード殿下?
ティアラローズが止める間もなく、フィリーネは慌て転げるように部屋を出て行った。いつも優雅でいることを心掛けている彼女にしては珍しく、それほどまでにアクアスティードを呼ばなければいけないのかと焦る。
「まったく面識がなかったはずなのに、何を話そう……」
相手はマリンフォレストの王太子殿下なのだから、失礼があってはいけない。とりあえずベッドから起き上がり、フィリーネが用意していたドレスに袖を通す。
予定があるわけではないので、一人で着られ ないほど装飾が付いているものではなかったのでほっとする。背中のファスナーに若干苦労したが、問題なく着ることが出来た。
「アクアスティード殿下、かぁ……。ゲームをプレイする前に死んじゃったから、あんまりどういうキャラか把握してないんだよね」
学園で一緒だったときは、笑みを絶やさない落ち着いた優等生。そう、まさに王族の鑑だ。
「……ティアラ!」
「っ!?」
とりあえず寝室を出て待とうと考えたとき、勢いよく扉が開きアクアスティードが入ってきた。うっすら涙がにじんだ瞳が、ティアラローズを映す。
「あ……っ」
そのまま駆け寄ってきたアクアスティードに、ぎゅっと強く抱きしめられる。
ふわりと香るアクアスティードの匂いに、どきりとする。細身だけれどたくましい腕が、宝物を扱うようにティアラローズに触れている。
どうして。
そう、言葉にしたいのに出来なかった。
「ティアラ……」
「……っん」
アクアスティードの唇が、ティアラローズのそれを優しく塞いだ。
ちゅっと触れて、すぐに離れて――もう一度。愛おしい存在を見つめる瞳に、ティアラローズは動けなくなる。されるがままに口づけられたのに、まったく嫌悪感がない。
名前を呼ぶ声が、その吐息がティアラローズの唇に触れる。
跳ねるように脈打つ心臓が、制御できない。とっさにアクアスティードの胸を手で押して、離れる。
「あ、……っアクアスティード殿下」
「……!」
触れられた唇を押さえて、ティアラローズはアクアスティードの名を呼ぶ。
いつものアクア様ではなく、アクアスティード――殿下と。
「ティアラ、記憶が戻ったんじゃ……」
「え? 記憶、ですか?」
驚いたアクアスティードにそう問いかけられて、ティアラローズは首を傾げる。
確かに記憶はあやふやだったけれど、今はマリンフォレストにいるという自覚もあるし、この国の仕事をしているということも理解している。
ただ――アクアスティードの記憶だけがすっぽりないことに、自分で気付けていないだけで。
「…………」
「ええと、アクアスティード殿下?」
「……アクアと、呼んでもらっても?」
顔を赤くして、困惑するティアラローズに優しく微笑む。
どうやら自分の記憶だけ戻っていないのだということを理解して、先ほど口づけてしまったことをほんの少し後悔する。
嫌われなかっただろうかと不安に思う。けれど、ティアラローズの反応を見る限りは嫌悪感のようなものは感じない。
――うぬぼれても、いいのだろうか。
愛称で呼んでほしいと告げる と、ティアラローズは息を呑んだ。視線が泳いで、けれど嬉しそうだということは見ていてわかる。
たとえ自分の記憶がなくとも、今までのティアラローズと同じだなと思う。
「だから、私にもティアラと呼ばせて?」
「あ――は、はい。あ、アクア様……」
「うん」
視線を落とし、恥ずかしそうにしながらティアラローズは名前を呼んだ。
可愛くて、抱きしめたい衝動に駆られるけれど――ぐっと、耐えた。自分とティアラローズの関係を、説明するのが先だろう。
「ティアラ。私が今から言うことは、もしかしたら信じられないことかもしれない。でも、聞いてほしい」
「…………わたくしと、アクア様のことでしょうか?」
考える素振りを見せて、ティアラローズがゆっくり口を開く。それに肯定すると、真剣な瞳が返ってくる。気になっていたのだということが、すぐにわかった。
「私とティアラの話をしようか……」
テーブルに紅茶とフルーツが用意され、アクアスティードがゆっくりと二人のことを話しはじめた――。
「嘘、わたくしとアクア様が夫婦……」
「そう。ティアラは私の大切な人だ」
さっきは勝手に口づけてしまってすまないと、アクアスティードがティアラローズに謝罪する。
「いえ……。アクア様が悪いことなど、何もありません」
「ティアラ、お願いだからどうか無理だけはしないで。触れられたくないと思ったら、素直に伝えて」
「…………」
ティアラローズの怖がることは何もしないからと、アクアスティードは微笑む。
――触れられたくない、なんて。
そう思えなかった自分に、ティアラローズは驚いていた。以前、ハルトナイツに頭を撫でられそうになったときはあんなにも不快に感じた のに。
――わたくしのことを、本当に、とても大切にしてくれているんだ。
政略結婚でもおかしくない間柄だったけれど、そんなことはみじんも考えなかった。
一緒にいた記憶はないけれど、アクアスティードにどきどきするし、もっといろいろなことを知りたいとティアラローズは思う。
「わたくしが、アクア様のことを嫌だと思うことはありません」
「……ありがとう」
だから安心してくださいと伝え微笑むと、アクアスティードの手が頬に伸ばされて――触れる。
嫌だと思うどころか心地よいそれに、思わず目を閉じる。すぐにアクアスティードが、「止まらなくなるから、あまり気を許さないでくれ」と苦笑して……ティアラローズも思わず笑ってしまう。
二人で笑っていると、ノックの音とともにエリオットの声が聞こえ――そのままドアが開いた。
「!」
許可もなしに入るなと、アクアスティードが注意しようとして……エリオットを押しのけて勢いよく入ってきた人物に遠慮なく大きなため息をつく。
綺麗なストレートの黒髪に、黒い瞳。可愛いプリンセスラインのドレスを着こなした、ラピスラズリの指輪のヒロインであるアカリがそこにいた。
「ティアラ様、お久しぶりです! お元気でしたか?」
「え、ええ……」
いつも通り自由なアカリに苦笑しつつも、頷く。
「もう、気になって、いてもたってもいられず直接きちゃいました! 行けました? 」
「アカリ様、それは後で。少し、問題が起きてしまって」
唐突に告げられたアカリの言葉に、それは少し待ってくださいと告げる。確かに、妖精王の隠しステージも大事ではあるけれど。
自分の記憶がどうもおかしいのだと、ティアラローズは告げる。アカリは聖なる祈りを使えるため、もしかしたら治すことができるのではないか……と、考えたのだ。
アクアスティードはあまりアカリを好意的に見てはいないが、なんだかんだでティアラローズと仲がよいので了承する。
「……なるほど。ちょっとお手を、んんっ?」
「どうでしょう?」
アカリがティアラローズの手を取り、聖なる祈りの力を使う。
どこか異状がないかみて、「うーん、わかりません」とアカリが告げる。
「でも、体に異状はないみたいですね。よかった」
「ありがとうございます、アカリ様。記憶も……きっと普通に過ごしていたらすぐ戻ると思います。 昨日は少し混乱していたんですけど、今日は比較的すっきりしていますから」
ティアラローズの親友と名乗るアカリは、ほっと息をつく。それは本当に心底心配している様子で、あまり邪険にするのもよくないな……と、アクアスティードは思う。
けれど、聖なる祈りでもティアラローズの原因がわからないのは正直厳しい。それほどに、聖なる祈りの力は強く、絶大だからだ。
記憶を失った本人が言う通り、記憶が戻るのをゆっくり待つのがいいかと考える。
本当ならば一刻も早く元に戻して 抱きしめたいけれど、ティアラローズに無理をさせるわけにはいかない。
そう考えていると、アカリがぱんと手を叩く。名案を思い付いたのだと言わんばかりに、目をきらきら輝かせてティアラローズとアクアスティードを交互に見る。
――いったい、なにをするつもりだ。
思わず警戒するように身を固くしたが、アカリの提案は至極まっとうなものだった。
「みんなを集めて、お茶会をしましょう! 乙女ゲームのイベントみたいで、絶対に楽しいです!」
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