第41話 海の脅威:後半
ふと――アイシラは、執務室にいるのが自分とエリオットの二人だということに気付く。
特に自分に何かをしてくるわけではないので、もしかしたらエリオットには惚れ薬の効き目がなかったのかもしれない。そう思った矢先、ふらりとエリオットが動いた。
「アイシラ、様」
「え――……?」
思わず身構えてしまったけれど、すぐにその態度を改める。
なぜなら、エリオットが目いっぱいに涙を浮かべていたから。
――ど、どうしたのでしょうか?
アイシラは、男が泣いたところなど今まで見たことがない。なので、どう対応したらいいかわからない。けれど、きっとこの状況が惚れ薬によることだろうということはすぐに理解できた。
そうでなければ、いつも冷静なエリオットがこのような状態になるはずがないからだ。
言葉をあまり発せずに、えぐえぐと涙をこぼし始めたエリオットに、焦るアイシラ。
「あ、あの……。パール様の薬のせいで、そうなっているのだと思います。なので、ええと、その……」
――ど、どうすればいいのでしょうか?
嫌な汗が、アイシラを伝う。
――わたくし、困っている。
アクアスティードに好かれるかもと思ったときは、どきっとした。けれど、それが違う人となるとこんなにも気持ちが変わってしまう。
――わたくし、最低ですね。
苦笑して、アイシラは泣いているエリオットを見る。
とりあえずソファに座らせて、落ち着いてもらった方がいいだろう。座るように促すと、すとんと、簡単にエリオットの体がソファへ沈み込む。
よかった。
アイシラがほっと息をつくが、離れようとしたところで細い手首をエリオットに掴まれる。
「え、エリオット?」
「すみません。……でも、体と感情が言うことを聞かないんです」
「――!」
エリオットの手は震えていて、望んでいるわけではないということがわかった。
「私は貴女を愛しく思うけれど、好いてはいない――」
「……すみません」
「アイシラ様が謝るようなことではありません。毒見は必要ですし、自ら進んで飲みましたから」
いったいこの薬はいつ切れるのだろうと思いながら、ぐるぐると体に渦巻く熱をどうにかしてやりすごそうとする。けれど、そううまくもいかなくて。
アイシラのふんわりとした海の香りが、エリオットに届いて心をかき乱す。
「そろそろ、フィリーネが馬車の手配を終えるはずです。私は海へ向かわなければならないのです。エリオットはここで待機を……」
「いいえ、行きます。私はアクアスティード様の側近ですから」
泣いたままのエリオットが立ち上がる。
その顔はもうぐしゃぐしゃになっていたのだが、残念ながら止まらない。
「アイシラ様、馬車の準備が――って、エリオット!?」
「………………フィリーネか」
「ど、どうしたの? 酷い顔ね」
若干引き気味に、フィリーネが顔をしかめる。
そしてふと、アイシラの手首を掴んでいるエリオットの手に視線を移す。
「? 何かあったの?」
「……いえ、その」
フィリーネの問に、アイシラが困ったように言葉を濁す。
そして同時に、お菓子を作っているときにパールが言っていたことをフィリーネは思い出した。
「惚れ薬の効果が出ている……ですか?」
「……そのようです」
こくりと頷いたアイシラを見て、なるほどとフィリーネは納得をした。
けれど、いくら薬のせいだと言っても公爵家の令嬢であるアイシラにその態度はよろしくない。すぐに引き離そうとしてみるけれど、エリオットの力は強くなかなかはがせない。
「エリオットがどうこうするとは思っていないですが、アイシラ様にこのようなことをしては駄目です」
「……わかっている。私は平民の出だからな、アイシラ様を好きになったところで叶わない」
「…………」
エリオットの言葉に、フィリーネとアイシラの二人が顔を見合わせる。
えぐえぐと泣き続けるエリオット。そういえば平民の出だということを聞いたなぁと思いつつ、身分ばかりはそううまくいかない。
男が上位か同等であればまだいいけれど、下位の男へ娘を嫁に出す貴族はあまりいない。
――エリオットはもしかして、貴族の女性に想いを寄せているのかな?
それが今回の薬により、押し殺していた感情が前へと出て来てしまったのかもしれない。
「と、とりあえず時間がないから行きましょう! エリオットはこの布をかぶっていて」
涙にまみれた顔を見せながら歩くわけにはいかない。
やれやれと息をついて、フィリーネたちは馬車へ移動した。
◇ ◇ ◇
「うっわ、海の色がひでぇな」
「真っ黒ですね……」
いつもは透き通っている海が、深く濁った色へと変わっていた。キースの声はどこかため息まじりで、ぼそりと「二回目か」と呟いた。
「とりあえず、津波は食い止めないといけないわね。津波は私の風で散らして、余波はキースの樹で防げばいいわね」
クレイルの言葉に頷いて、ティアラローズたちはふわりと砂浜に着地した。
いつもは穏やかなこの場所が、ピリピリしているということが肌で感じられる。心臓の音が、ひどく嫌な音に感じられる。
不安からぎゅっと自分の体を抱きしめると、「大丈夫」とアクアスティードがティアラローズを抱きしめる。
「私の傍から決して離れないで。ティアラのことは、私が守るから」
「ありがとうございます、アクア様」
こくりと頷いて、ぎゅっとアクアスティードへしがみつく。
「荒れた砂浜はアイシラ嬢が海の妖精の力を借りて復旧すると思うから、あまり気にしなくていいよ」
「わかりました」
そう言ったアクアスティードの言葉を誇張するかのように、ビュオッと大きな風が吹いた。潮のにおいがいっそう強くなって、それが海から来たものだということがわかる。
黒い海が大きくうねり、ティアラローズたちへ向けて大きな波を向ける。
――ここからが、勝負だ。
いくらパールが起こした海の災害といえど、直接ほかの妖精王が解決することはない。それは古くからの決め事のようなもので、そういったものだとされている。
今回のことに関しても、パールの暴走とはいえ――うまく付き合うことのできなかった人間と妖精王のいざこざに分類される。ゆえに、妖精王が人間の前に姿を見せることはあまりないのだけれど。
極力関わらない方がいいという者がいれば、積極的に力を借りるべきだという者がいる。
海をまっすぐに見据え、アクアスティードはせまりくる波を見る。眼前まで来ている津波に、風の力を使い押し戻していくのだ。
けれど、アクアスティード一人の力ではその波を散らすことは叶わない。
「クレイル!」
「空の妖精王の祝福を、アクアスティード・マリンフォレストに。期待しているわよ、この国の王になるあなたの力を」
「あ、ええと、キース!」
「森の妖精王の祝福を、ティアラローズ・ラピス・マリンフォレストへ。俺がいるから、ティアラは前だけを見てろ」
ティアラローズの声に、キースがにっと笑い応える。
まず初めに、アクアスティードが風の力を使い襲い来る波をはじき返す。次にティアラローズが森の力を使い、その大量のしぶきや、押し返せなかった波を防ぐ。
――でも、森の力を使ったことなんてないよ。
魔力だって、そう多いわけではない。魔法が苦手なティアラローズは、不安になる。
ぽん、と――。
ティアラローズの背にあたたかなぬくもりが触れる。
「大丈夫だよ、ティアラ。私が隣にいるから」
「俺の力を、お前が使いこなせないわけないだろ?」
「アクア様、キース……。はい、がんばります!」
アクアスティードとキースの手が、ティアラローズの背中を支える。
それはひどく安心して、こんなにも危機的状況だというのに絶対大丈夫だと思ってしまう。
――だって、この二人が負ける姿なんて想像できないよ。
思わず笑ってしまうと、キースがくつくつと笑う。
「ほら、いくぞティアラ。俺の力を貸すから、樹木を呼び起こして防波堤を作れ」
「わ、わかった!」
自信の中に流れ込んでくる森の力と、この国の地脈を感じる。森の妖精王に守られしこの国は自然が多く、妖精王の祝福を得られた人間はその一部を使うことが出来る。
「森の木々よ、私にこの国を守る力を貸して!」
ティアラローズの力強い声に応えるように、キースの緑色の髪が舞う。それと同時に、さらさらの砂が一面に敷かれている砂浜から小さな芽が顔を出した。
――すごい。これが、妖精王の力。
思わず息を呑んでしまうほどに、一瞬で空気が震える。にょきにょきと育った芽は、あっという間に防波堤の役割を担える大きな木々へと成長した。
「ん、こんなもんだろ。これで溢れた水は木が吸い取るだろ。あとは――」
アクアスティードの頑張り次第。そう、キースが笑う。
「私がついてるんだから、海はちゃんと守るわよ。ほら、アクアスティード! もっと魔力を込めなさい」
「わかってる。風よ、黒い海を押し戻せ!」
ゴウっとひときわ大きな風が吹いて、こちらへ向かって来た津波が押し返された。
――すごい。
さすがは、続編ゲームのメイン攻略対象だ。その圧倒的な力は、妖精王と同等と言ってもいいのではないだろうかとティアラローズは思う。
ばしゃんと大きく波が潰れ、そのしぶきが雨のように辺り一面に降り注ぐ。押し返せなかった波が少しだけこちらへ向かってくるけれど――それを防ぐのは、ティアラローズとキースだ。
「ティアラ、こっちに」
「! ありがとうございます」
優しく、アクアスティードが背後からティアラローズを抱きしめる。そして風の力を前に飛ばし、ティアラローズが波に押しつぶされないように守る。
まるで海が割れているようだと、錯覚してしまう。
「木々よ、海の水を防いで」
『僕たちもがんばるよ~!』
『おぉー!』
ティアラローズの声に呼応して、木々の合間から森の妖精たちが声をあげた。
みんながティアラローズのために、力を貸そうとしているのがすぐにわかる。森の妖精は、こんなにも暖かいんだ。
絶対に、街へ、森へ、このこぼれた津波を向かわせるわけにはいかない。
「私の魔力、頑張って――!」
ティアラローズが大きく叫ぶと、ぱぁっと水面がキラキラと輝いた。バシャンと大きくあがったしぶきは、成長した木々がすべて吸収した。
そして空には、大きな一筋の虹が咲いた。
「食い止められた、の?」
「そうだね」
先ほどまでの黒い海は風の力で消えさり、木々の防波堤によって街にも被害は出ていない。
――よかった。
ティアラローズはほっと胸を撫でおろして、街を守った木々を見る。
水にぬれているけれど、その根はしっかりと砂浜に張られているため凛々しく見えた。ティアラローズの魔力を含んだ木々は、ポンっと小さな蕾を付ける。
「え?」
「花が咲くんだろ。ティアラの魔力にあった新種の花が咲くはずだ」
「うそ、そんなことが……?」
まさか自分の魔力で花が咲くとは思わなかったのだ。
ピンク色の蕾がゆっくり花を開き――色を見せる。大輪の下に、小さな袋の付いた可愛らしい花だった。
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