第39話 海の秘薬

 穏やかな空だというのに、海は色を深く変え、波は大きな音を立てた。

 今までにない状況を目の当たりにして、アイシラは体がすくむ。


「いったい、海に何が……」


 この国で海の妖精に一番愛されているのは、アイシラだ。海に関する有事の際には、必ず彼女が前に立つ。

 けれど自分の海を見て、ハッと思い浮かぶのは海の妖精王パールと、その妖精たち。


 ――わたくしは、海の妖精王に認められてはいない。

 それどころか、嫌われていると言っても過言ではないだろう。

 一度はその宮に入る許可を得たアイシラだが、それ以降は何度海へ潜っても王の宮を垣間見ることは出来なかった。


「とりあえず、すぐアクアスティード様にお伝えしないと!」


 アイシラは踵を返そうとして、けれど少しの違和感に気付く。いったいなんだろうと考えようとしたところで、海の妖精たちだということに気付く。

 小さな人魚の姿をしている妖精たちは、水面にぴょこりと顔を出した。


『アイシラ! 王様、怒ってる』

『怒り狂ってる!』

「妖精王が!? いったいどうしたのですか?」


 パール自身はアイシラによい感情を持ってはいないが、海の妖精たちはアイシラのことが大好きだ。アクアスティードとの恋仲も応援してくれていたほどに。

 海の中で起きたできごとに関しては、いつも妖精たちがアイシラに報告や相談をしていたのだ。今回もそうなのだけれど、慌てる様子を見るからにいつもの比ではないのだろう。


「これ、かってをするでない」

『あ、王様!』

「! 海の妖精王」


 突然現れたパールに驚き、アイシラは慌てて跪く。まさかもう一度、その姿を見ることができるとは思ってもいなかったのだ。


「ふん。ティアラローズとは、気に食わぬ女よ。クレイルをたぶらかしおって!」

「……?」

「アイシラ」

「は、はいっ!」


 パシャリと海面から上がり、パールは冷めた瞳でアイシラを見る。そして、自身からクレイルを奪おうとしているティアラローズに対してその怒りをあらわにする。


「お主、ティアラローズからアクアスティードを引き離せ。あれは、ちとやっかいな男だからな」

「え? そ、それはいったいどういう……」

「ふん。そんなこと、お主が知る必要はない。これをやるから、茶にでも混ぜればいい」


 自分からクレイルを奪おうとしているティアラローズを、パールは生かしておこうとは思わなかった。


 ――ティアラローズがいなくなれば、クレイルはわらわを……。

 ぎゅっと拳を握り締め、パールはピンク色の液体が入った小瓶をアイシラに渡す。妖精王から差し出されたものを、受け取らないわけにはいかない。パールは両の手でそれを受け取り、じぃっと小瓶を見つめる。


 いったい中身がなんなのか、アイシラにはまったくわからなかった。


「妖精王、パール様。これは……」

「なんのことはない、ちょっとした薬だ。害はないし、効果もすぐに切れる」

「…………」


 ちょっとした薬と言われ、アイシラは戸惑う。

 自国の王太子であるアクアスティードにそのようなことはできないが、指示をしているのは海を司っている妖精の王だ。そう簡単に、断ることなどできない。

 どうしたら――――アイシラは悩み、表情を歪ませる。自分が仕える相手に、怪しい薬を盛ることはできない。けれど、害はなく効果がすぐに切れるという。


 それでも。


「申し訳ございません、パール様。わたくしには、アクアスティード様を裏切ることはできませんっ!」


 まだ、小さな想いはアイシラの心に残っている。

 害はなくとも、アクアスティードに何かをすることは絶対にしたくないのだ。そう、熱くゆれるアイシラの瞳がパールに伝える。


「……そうか。なら、わらわが勝手にやるまでよ。水よ」

「え!? きゃぁ――ッ!!」


 パールが右手を上げるのと同時に、海水が宙を浮き刃となり――アイシラへ向けられた。その水はアイシラの手の甲を切り裂き、赤い血が流れ落ちる。

 先ほど渡した小瓶をパールが奪い取り、そこにアイシラの血を一滴たらし液体の色を変えた。


「! い、いったい何をなさったのですか……っ」

「ふん。そなたは妖精たちに愛されておるからな。それに、近くにいたから都合がよかっただけだ」

「……?」


 くすりと笑うパールを見て、アイシラは不安になる。

 この妖精王はいったい何をしようとしているのか。すぐに止めてと声をあげたかったけれど、パールの放つピリッとした冷たい空気が、それをさせない。


 しかしそれと同時に――ずっと待ち望んでいた声が、パールの耳に届く。


「パール! いったいどうしたの!?」

「……クレイル。ふん、わらわに話すことは何もない!」

「あ、待ちなさいっ!」


 空から舞い降りたクレイルがパールを呼ぶが、何も聞かずにその姿を海に消す。今しがた手に入れたアイシラの血を入れた液体をアクアスティードへ飲ますために、城へと向かったのだ。

 パールが消えた場所を見て、クレイルは息をつく。


「もう、いったいなんだって言うの? どうして、パールがこんなに荒れているのか……」


 理由くらい、教えてくれてもいいのに。

 そう思い俯くクレイルだが、すぐにアイシラの存在に気付く。クレイルはアクアスティードの情報源の役割をしているため、この国のすべてを把握している。

 この間のお茶会で姿を見たアイシラは、今は跪き体を震わせていた。


「顔を上げていいわ、アイシラ・パールラント」

「は、はい……」

「パールに何があったのか、聞かせなさい」


 こくりと静かに頷き、アイシラは今しがた起きたできごとをクレイルに包み隠さず伝える。妖精王のことを知らないアイシラは、ただただ真実を話すことしかしない。

 すべてを聞いたクレイルが、「たぶらかす?」と口を押える。


「そんな、だって……ティアラローズにはアクアスティードがいるのに。私をなんて、あり得ない。パールってば、何か誤解をしているのかしら……?」

「…………」


 嫌われていると思っているクレイルは、なぜパールがそのような行動に出たのかがわからなかった。もはや互いが両思いだとしらないのは、本人たちだけ。


「それで、パールがあなたの血を小瓶の液体に混ぜた……ね。いったい何の液体かしら。わざわざアイシラ・パールラントの血を入れるなんて。悪いことではないと思うのだけれど――あ、わかったわ」

「?」

「たぶんそれ海の秘薬、惚れ薬だわ」

「え――……」


 クレイルの言葉に、アイシラは息を呑む。

 つまり、アクアスティードがあの液体を飲んだら――アイシラに、恋をする? そう考えて、アイシラは顔が熱を持つのを感じた。

 しかしすぐに、いけないと自分に言い聞かせて首を振る。アクアスティードの気持ちを、そのように他者が好き勝手していいはずがない。アイシラは顔を一瞬で青くさせて、クレイルにどうすればいいのかを問う。


「でも、どうしてパールがそんなことをしたのかしら。アイシラ・パールラントが、アクアスティードを好きだから? ついでにやったのかしら? そもそも、そんなにティアラローズを邪険にしなくてもいいのに」


 口元に手を当てて悩みつつ、クレイルはお城に行きましょうと言う。

 そこには、ティアラローズとアクアスティードの二人がいるはずだ。アイシラは不安な気持ちを抑えつつ、こくりと頷いた。




 ◇ ◇ ◇


「フィリーネ、このクッキーは形が綺麗にできたと思うの!」

「まぁ、可愛らしいです。どこからどう見ても、アクアスティード殿下ですね」


 海が荒れ始めていることを知らずに、ティアラローズは自身の専用キッチンでアイシングクッキーを作っている真っ最中だった。

 ここ、マリンフォレストにはお菓子の材料を取り扱う店が充実していた。それはラピスラズリではなかったため、ティアラローズのときめきを加速させた。


「いろいろな材料があるのですね。これもティアラローズ様が正式な妃となったからでしょうね」

「ええ。ドレスを仕立てる回数よりも、商人と会っている方が多いかもしれないわね」


 くすりと笑って、ティアラローズはクッキーをオーブンに入れた。

 あとは焼いたら出来上がりなのだが、ちゃぷりと水が音を立てていつかのように――パールが、ティアラローズの前へ姿を現した。


 フィリーネは失礼がないようにすぐ跪き、ティアラローズも膝をついて礼をした。

 パールが手に持つ小瓶は、すでに中身が空になっている。いったい何を持っているのだろうと疑問に思うが、ティアラローズとパールは気軽に会話を出来るような間柄ではない。


「こんなところでお菓子作りとは――そなた、それはクレイルのつもりか?」

「! こ、これは……」


 二回目に焼こうと思っていた、クレイルをかたどったクッキーがパールの視界に入る。ぎりっと唇を噛みしめ、パールは手に持った扇でティアラローズを指す。


「何度わらわを侮辱する気じゃ! クレイルをたぶらかすなんて、最低よの」

「違います、パール様! 今、ほかの方のクッキーを焼いているのです。決して、クレイル様のクッキーだけを作ったわけではありません」


 ――間違いなく、誤解してる!

 すぐさま弁解が必要だと、事実を伝えるがパールは聞く耳を持たない。ふんと鼻を鳴らし、手に持った小瓶をティアラローズに見せつける。


「……?」

「これは、海の秘薬じゃ」

「ひやく……?」


 ――そんなものがあるなんて、聞いたことがない。

 本にも、歴史にも、人づてにも、そのような情報はなかった。けれど、パールが言うのだから、それは確実に実在しているはずだ。


 ――でも、中身は空?


 ティアラローズの心を読んだかのように、パールは言葉を続ける。


「アクアスティードに飲ませてやったわ。これでもう、あやつはお前を見ることはしないであろう」

「……っ! アクア様に、なぜ」

「ふん。そなたの苦しむ顔が見たかったのかもしれぬな。この惚れ薬は、効果抜群じゃからのう」


 ――惚れ薬!?

 まさかそのようなものが実在するなんてと、ティアラローズは焦る。そして同時に、どのような状況で、誰にその効果が表れるのかが問題だ。

 どうか無事でいてと祈るティアラローズの耳に、残酷な言葉が届く。


「これでアクアスティードは、アイシラを好くじゃろう」


 ――ゲーム続編の、ヒロイン。

 ティアラローズは、決して自分がヒロインになれはしないのだと体を震わせた。

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