初めての感情

 足早に奥老院の廊下を歩く。胸が高鳴り顔が熱い。

 なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!

 今までに感じたことのない感情に振り回され、裏業は恥ずかしくなり泣きそうになっていた。自室へ戻るやいなやその場に座り込み顔を手で覆った。


「……なんなんだこの気持ちは! こんなの……初めてだ……」


 感情を殺して生きてきた裏業にとって水埜辺という存在は、それほどまでに心を大きく掌握していた。

 いや、この温かい気持ちは前に一度だけ感じたことがある。あれはまだ、初期の頃にも感じた、義母との感覚と似ていた。


「裏業殿! 失礼いたします!」

「うわぁっ」

「り、裏業殿? どうかされたのですか?」

「な、何でもありません。いかがされましたか」

「はい。本日三名の裏業が入っております。今より半刻後に行いますのでご準備をお願いいたします。では、失礼いたします」


 こんな状態で、裏業として役割をきちんと果たせるだろうか。若干の不安がありつつも橋具からの命令に逆らうことはできない。裏業には、逆らう理由や意味がない。

 とにかく今は集中すること。あの男、奴良野水埜辺についてはまた今度考えよう。


「そうだ。とにかく今は……裏業として全うせねば」


 一、二回深呼吸し、集中力を高める。そうだ。私は“裏業”。名も感情も殺した、ただの斬首人。当たり前だが、今日の罪人の中に水埜辺の姿はない。そのことが分かると裏業は何故だか少しだけ安心した。


 月明かりが天に差し掛かる頃、裏業は三人の罪人の首を斬った。いつもと同じ斬り方で。いつもと同じ感覚で。なのに、どことなく『違う』と思ったのは何故だろう。

 深夜、欠けた月を見て、自分の心もこんな感じなのだろうかとふと思う。

 あの男については一度見極める必要がある。何故橋具は水埜辺のことをあそこまで敵視しているのだろう。もしかしたら彼は善であり、悪ではないのかもしれない。何も知らないまま首を斬ることは礼儀に反するのではないだろうか。自分で見極め橋具に報告をすれば、彼は私に殺されなくて済むのでは?


「また今度会った時に聞くしかないか……」


 手を清め、三人の罪人たちに手を合わせる。そこに裏業の感情は見えなかった。欠けた月の明かりが静かに辺りを照らしていた。

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