VRMMOもデスゲームも無い世界で僕にできる精一杯のこと。

権田 浩

1.風船が飛んだ日

 風船が飛んだ。七色の風船が連続して僕のプロフィール欄を上っていく。そのせいで僕は奈落の底に突き落とされたような暗澹たる気分になった。


 風船が出たということは、僕の誕生日ということ。

 また一つ年を取ったということ。


 マウスに置いた手の震えがディスプレイ上のカーソルに伝わる。どっと汗が噴き出て息が詰まる。こういう時はゆっくりと呼吸を意識するんだって先生が言っていた。ゆっくり息を吐いて、吸って、吐いて、吸って。うん、大丈夫。胸の動悸はまだ治まらないけど。


 起きたらまずスリープ状態のパソコンを復帰させてSNSを見るのが僕の日課だった。ほとんどの人はスマホで見るのかもしれないけれど、僕のスマホはもう何年もバッテリー切れのままだ。一度はゴミ箱に捨てたけど、母親がお節介を焼いてカラーボックスの上に戻して――その時のことを思い出すと今でも頭が破裂しそうになる――以来スマホには触れていない。


 SNSは部屋の中から世界を覗くための窓だ。そして世の中は相変わらずクソでどうしようもない。馬鹿が馬鹿を吊るしあげ、糾弾し、頭のいい振りをした馬鹿同士が罵り合っている。たくさんの大切な歯車が壊れるか抜け落ちるかして機能不全に陥っても世界は回り続けている。僕がその抜け落ちた大切な歯車の一つだと夢想することはままあった。世界に乞われて華々しく舞い戻る日を夢想することはままあった。


 ベッドの近くに置いてある1.5リットルのペットボトルを手に取って栓を回す。シュッと鋭く爽やかな音はするけれど、すっかり常温なので期待されるほどの清涼感はない。でももう慣れているから気にならない。それから何か朝食になりそうなものをまさぐる。食べかけの湿気たポテトチップスと半分かじってそのまま忘れてしまったチョコバーくらいしかなかった。カップラーメンのストックはないし、電気ポットの中も空だ。


 空腹を意識すると途端に腹がぐぅと鳴る。生きることにどんな意味があるのかわからないのに、身体は生きようとする。自殺だけが唯一人間に許された自由だとかなんとか、どこかで聞いたような気もするけれど、そんなのは嘘だ。現に僕は何度もそれを選択しようとして結局できてない。


 そろそろと階段を上がってくる足音が聞こえてきた。そうするのは母親しかいない。僕の部屋の前で止まり、控えめにドアをノックする。そうやって、誰あろう自分こそが息子を欠陥品扱いしているのだと気付く日は来るのだろうか。


「ゆきちゃん、ご飯食べない?」扉越しの声。無視したいが僕も腹は減っている。


「……持ってきて」


「え? ごめんね、お母さんちょっと耳が遠くなっちゃって、よく聞こえないのよ。開けてもいい?」


「持ってきてって!」


 普段なら僕の怒鳴り声に引き下がる母親も、今日に限ってはそうしなかった。理由は明白。風船が飛んだからだ。


「ね、今日くらいは下で一緒に食べない? ね、お願い。ね?」


 確かに、今日くらいは、そう、かもしれない。父と母と僕、三つの歯車で家族という機構がまだ動くのか試してみてもいいのかもしれない。


 パソコンのディスプレイに表示されている時刻は十八時二三分。ログインするにはまだ早い。僕はのろのろと立ち上がってドアを開けた。そこにいるのはずっと前に亡くなったおばあちゃんによく似た母親。それもそのはず、母は七十歳くらいだ。たぶん。何年も前から年金をもらっているから、たぶん。


 母は年甲斐もなく握った拳を口元に当てて喜びを表現し、僕がそれに反応しないのを見ると僅かに肩を落として階段へと戻った。二階建ての建売住宅の一軒家。いつだったか取り付けた銀色の手すりに沿って階段を折り返すと正面には玄関があり、左手の和室が両親の部屋で、右手にダイニングキッチンがある。母に続いて戸をくぐるとテーブルには父親が待っていた。親父は母よりも確か五つくらい年上で、定年退職してからずっと家にいる。昔は大柄でいかにも体育教師という感じだったが何年か前にガンで手術してからは急速にしぼんでしまった。


 それが発覚したのは、僕が代引きで買ったゲームを親父が勝手に支払い拒否して返品した事件で大げんかになり、椅子で殴ったら結構ひどかったらしく病院でレントゲンを撮ったからだった。椅子を使ったのは……その、悪かったと思っているけど、相手は柔道だの剣道だのやっていた人間なのだから、そのくらいのハンデはあっていいはずだろう。それにそのおかげでガンも見つかったんだし。


 ――駄目だ。部屋から一歩でも外に出れば、生まれ育ったこの家の中にさえ辛い記憶が潜んでいる。


「おう、ゆき。誕生日おめでとう」


 父親が弱々しく細い腕を上げた。僕の一撃で骨にひびが入ったほうの腕。傷跡は皺と区別がつかない。


「あ……うん」と答えて僕は僕の椅子に座る。テーブルの上に並んでいるのはいつものお誕生日料理だった。山盛りの鶏のから揚げ、茄子とピーマンと人参の天ぷら、手巻き寿司セットには僕の好きな具材ばかり。いくら、サーモン、ねぎとろ、かんぴょう、卵焼き、焼肉のたれで焼いた牛のバラ肉にサンチュ。物心ついた時から誕生日といえばずっとこれだ。両親はもう揚げ物には手を付けないから山盛りのから揚げも天ぷらも僕が食べなきゃならない。太ったのは薬のせいだけじゃありません、炭水化物と油ものは控えめにして少し痩せましょうって先生にも言われたのに。美味しいのは最初の一つか二つまでなのに。僕だってもう若くは――ああっ、くそっ。くそっ、くそっ。


 空気を読めない母が「じゃーん」などと言いつつ冷蔵庫から何かを持ってきた。どうせいつものケーキだろうと思いきや違った。四角くて少し小さいけどアイスでできたケーキだ!


「子供の頃にゆきちゃんがテレビで観て食べたいって言ってたやつに似てるでしょ。お母さん偶然スーパーで見つけてね。いつものケーキのほうがいいかなって最初は通り過ぎたんだけど、やっぱり戻って買っちゃった」


 薄いアイスとチョコレートが何層にもなっている。上部はウェーブを描くようにデコレーションされ、ココアパウダーをまぶしてあった。子供の頃どうしても食べたかったけど近所には売ってなくて泣く泣く諦めたやつだ。あれと同じメーカーの商品なのかはわからないけど、これはテンションあがる!


「溶けちゃうといけないから、一度冷凍庫に入れとくね。全部ゆきちゃん一人で食べていいからね」


 母親がアイスケーキを冷凍庫へ戻す間に、親父が「今日は調子良さそうだな」と話しかけてきた。アイスケーキを見て喜んだのがバレたかと慌てて無表情を意識する。


「あ……うん」


「そうか。それなら良かったな」


「あ……うん」


 母親がテーブルに戻ってくる。


「それじゃ、いただきましょ。ゆきちゃん、お誕生日おめでとうねぇ」


 普段なら絶対に嬉しくない言葉だった。嫌味にすら思ったかもしれない。でも今日はムカついたりしなかった。本当に、何年かぶりに、今日は調子が良いのかもしれない。いつも僕を責めてばかりの両親の目も子供の頃のように優しげに見える。ちょうどアイスケーキを欲しがった頃みたいに。


 母が近所の誰さんがどうとかいう無意味な話をしながら手巻き寿司を巻いて、僕に親父にと交互に渡してくる。親父はしぼんだ風船から最後の空気が抜けるみたいな力無い微笑でくだらない世間話に相槌を打ち、僕は話しかけられた時だけ「うん」とか「そうなんだ」とか言って、もそもそと食べた。両親はほんの少し食べて箸を置き、僕が食べ終わるのを待っている。ちらりと時計を見ると十九時二分。二十時頃にはログインしておきたい。


 僕が箸を置いてげっぷをすると、それを合図に母がケーキを出してきた。王様気分でスプーンを入れる。チョコレートの層がパキパキと小気味良い音を立てた。口に入れてしまえばそれは、正直言って普通のアイスクリームだったけれど、子供の頃の夢が何とも言えぬふんわりしたフレーバーになって心地よく胸に広がった。それほど大きくないとはいえ全部食べ切れるほどでもないから、三分の一くらいで食べるのを止める。両親はすでに緑茶で口をすすいでいて、母が僕にもお茶を出した。


 さて、部屋に戻ってログインするか――と腰を浮かせようとしたところで母が「あ、ゆきちゃん、ちょっとごめん」と呼び止める。親父も眉をへの字にして、「ごめんな、ゆき。少しいいか」などと神妙な口ぶり。不吉な予感に胸がざわつく。まさかこいつら、この幸せな気分をぶち壊しにするつもりなのか。今日は僕の誕生日なのに?


「大事な話があるんだ」親父が切り出す。


「ごめん、ちょっと用事あるから……」僕は立ち上がる。


「大切な話なんだ、ゆき」


「ごめん、ほんとに約束あって……」両親に背を向ける。


「頼む、座ってくれ。本当に大切な話なんだ」


「本当に大切な話はしたくないのっ!」


 怒鳴った僕の背中に、親父は何年かぶりの大声をぶつけた。


「ガンが見つかった!」


 この話を聞いたら終わりだとわかっているのに僕の足は前に出なかった。親父はその隙を逃さず捲し立てる。「転移してたんだ。もう末期だった。あと半年だって医者に言われた。頭に浮かんだのは、お前のことだった。お母さんだってもう七一だ。今はまだ動けても、いつどうなるかわからないんだぞ。この家と俺たちの貯金で何年かは生活できるかもしれんが、その後どうする!?」


「ねえ、ゆきちゃん。ちょっとずつ、ちょっとずつでいいから外に出る練習しよう? 最初はちょっとお散歩とかお買い物でいいから。そのうち慣れてきたら、チラシのポスティングとか一人でできるアルバイトを頑張ってみて、慣れてきたらスーパーとかに移って――」


「なんだよ、それっ! なんで俺がチラシ配りなんかするんだよ! 頑張るってなんだよ! 慣れるってなんだよ!」


 怒鳴る僕に父は怒りでもって、母は哀れみでもって言い返す。


幸弘ゆきひろ! これはお前のことなんだぞ。もうすぐそこまで来ている現実の話なんだぞ!」


「会社ですごく嫌な事あったのはお母さんもわかってる。でもそろそろお休みは終わりにして世の中に出て行かないと……」


「現実とか世の中とかうるせぇよ! 勝手に生みやがったくせに最後まで面倒みねぇつもりかよ! そんなら最初から俺なんて生むんじゃねぇよ!」


 テーブルの上に残る幸せな誕生日がメラメラと怒りの炎で燃え上がる。ダイニングキッチンを満たす空気は不穏なものへと変わった。三つの歯車が回す家族という機構はもう何年も前から狂っていて、哀れみと嫌悪しか生み出さない。僕の怒声で両親は沈黙したが、それは嵐の前の静けさというやつだった。これから何を言うつもりか僕にはわかっている。それは身構えたところで到底受け止めきれない現実。


「ゆきちゃん、あなたもう、四八歳なのよ……?」


*****


 ――部屋に戻った僕はわなわな震える手でVRメットを掴んだ。ヴァーチャル・リアリティ・ヘルメット。遮音性が素晴らしく、全周モニターで視界も現実と変わらない最新のゲーミングデバイス。涙を拭ってメットを被ればもう外の音は全く聞こえない。荒げた呼吸と早鐘のような心臓の鼓動と、耳の奥を流れる血流のぞーっという音しかしない。右耳の下あたりにあるスイッチを入れると微かな振動音がして僕の音を打ち消し、外部カメラで目の前が見えるようになった。ディスプレイの光に白く照らされたコントローラーを手にしてぐずぐずと鼻声で音声コマンドを呟く。


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