第17話 リタの休日とシルベスタクッキングスタジオ(前編)
「いい天気……」
早朝、オリビアの侍女リタはカーテンを開け、差し込む光に目を細め、窓を開けて朝特有の澄んだ空気を大きく吸い込んだ。王都の春は辺境のクリスタル領より暖かい。
「こんな日に休みをくれたオリビア様に感謝だな」
主人であるオリビアの言葉に甘え、朝の準備には顔を出さないことにしていた。いつもより一時間遅く起きたが、外にはまだ生徒は歩いていない。何人かの侍女が自分のお嬢様の元へ朝の支度に出かける時間だった。
リタはオリビアの専属で学院に連れてこられたため、女子寮の隣の侍女控え棟の一室に住んでいた。主人の暮らす寮の部屋よりはずいぶん狭いが、過ごしやすくて気に入っている。
いつも通りコーヒーとパンの簡単な朝食を自室で済ませると、侍女の衣装ではなく町娘に見える服に身を包んだ。耳にはクリスタルをあしらった耳飾りをつける。
「そろそろか……」
そういって昨夜と同じように耳飾りに手を触れ、淡く光ったところでこの声を聞くであろう同僚へ話しかけた。
「おい、ジョージ。起きているか? 準備を済ませて三十分後には女子寮の前に行くんだぞ」
『リタ、お前まずは「おはようジョージ、いい朝ね」くらい言えないかね。準備は済んでるから安心しろ。俺なんて昨日は飲み屋にも娼館にも行かなかったんだぞ。感謝しろよ』
リタは同僚のジョージの言葉に、朝から眉間に皺を寄せ苛立ちを覚えた。自分の態度が悪かったことは棚上げし、さらに言葉を吐き捨てる。
「遅刻するなよ!」
『へいへい』
気怠そうな返事とともに同僚との連絡が途絶え、耳飾りの光も消える。リタは大きく息を吐き、コーヒーを飲んで気を落ち着かせた。
それから一時間ほど部屋で読書をした後、窓から女子寮を眺めると、自分で身支度を済ませたであろうオリビアが入り口から姿を現した。
金髪よりも希少な美しい銀髪が、陽の光を受け輝いていた。彼女は自分では結えない髪をなんとなく髪留めで誤魔化している。本当は駆け寄ってあの美しい銀髪を結いたかったがリタはぐっと堪えた。
オリビアがすぐに待っていた護衛の元へ駆け寄り、二人並んで校舎へ歩いて行くのを見届け、その背中に向かって深々とお辞儀をした。
「いってらっしゃいませオリビア様。良い一日を」
呟いてから、コーヒーカップや本を片づけ、リタは自室を後にした。
◇◆◇◆
「では、これから体術の授業を始める。なお初回である本日は健康的な肉体を維持するための授業として、料理をする!」
一方、入学後、初めての選択授業に参加するオリビアは、自分がかなり浮かれていることを自覚していた。
憧れの講師シルべスタが目の前にいるのだ。もちろん最前列の席を確保している。
(ああ、シルべスタ先生の筋肉、素敵すぎる! しかも公務でレオン殿下も休み……最高だわ!)
オリビアは実習用の調理室の特等席でシルベスタに釘付けになっていた。
彼は白いTシャツに水色のエプロンと三角巾の爽やかなコーディネートだ。ジャストサイズのTシャツが肩周りや腕の筋肉を強調していて、特に首から肩、背中にかけての僧帽筋と三角筋の発達具合に思わずよだれが垂れてしまいそうだった。
そんな貴族の娘としてはだらしない表情を浮かべるオリビアは、護衛兼クラスメイトのジョージに指摘されるまで、うっとりとシルベスタを見つめていた。
「お嬢様、目つきがヤバいですよ。変態なのバレますよ」
「え! 何よ、変なこと言わないでよジョージ。周りに誤解されるじゃない」
心外でありつつ、若干否めない護衛の言葉に動揺し、半開きになっていた口をキュッと一文字に引き締める。
ジョージがニヤニヤと笑みを浮かべシルべスタと自分を見ているのは不快だったが、その表情が一変し、オリビアは不思議に思った。彼の視線の先はシルベスタだ。
「どうしたの? ジョージ」
「お嬢様、あれってTシャツじゃないですか?」
「ああ、シルべスタ先生のでしょう? 似合っているわよね。筋肉が強調されて素敵……あ!」
態度はともかく優秀な護衛の指摘で、この光景が異常であることに気づくオリビア。
このTシャツという服はジュエリトスではクリスタル領にあるカフェ『バルク』でしか手に入らない代物だ。王都の人間が普段使いするようなものではない。
領地ではマッチョのマストアイテムで違和感がなかったため気づかなかった。何たる不覚。オリビアは先ほどとは違う意味でシルべスタから目が離せなくなっていた。
「気づきましたか。さて、どうしますかねえ?」
「うちの領地でしか販売していないものだし、ここは正攻法で直接聞いてみましょう。授業が終わったらすぐに先生のところへ行くわよ」
「了解っす」
オリビアは他の生徒には気づかれないようにシルべスタの話を聞きながらジョージと会話する。
一瞬、授業の説明をするシルべスタと目が合った気がしたが、すぐに彼の視線が遠くを見ていたので実際はどうだったかはわからない。
「さて、メインの食材はすでに各調理台に用意してある。他のものが必要であれば前の台にあるから取りに来るように。結果は成績にも影響するぞ。各自、心して取り掛かるように」
シルべスタの声かけに生徒たちは調理台の上を確認した。オリビアも自分の調理台に視線を移すと、そこにはカゴに山積みになった卵が置いてあった。
(メイン食材は……卵?)
オリビアが卵を見つめながら首を傾げていると、周りの生徒たちも同じように各自調理台を見つめてざわついていた。
侯爵家や伯爵家など、使用人がいる家の出身が多いAクラスの生徒たちは、卵があったからといってどうしていいかわからない。
おそらく割って使う事も、中身がどうなっているかもわからない者も多いだろう。オリビア自身もそうだった。
カフェで働くために料理に挑戦したことはあるが全くできなかった、というか何か別なものが出来上がった。自分の試作品でクリスタル家の主治医、トーマスの手を何度も煩わせたのは苦い記憶だった。
「これからこの卵を使って、演習時や敵地での潜伏時に効率よく栄養を摂れる料理を作るように。メニューは自由だ。優秀な生徒一名には褒美も用意するぞ!」
オリビアの瞳が輝く。
昨日この癖でまんまとレオンに遅れをとったというのに、それでも褒美という響きは魅力的だった。
しかも憧れのシルベスタからの褒美だ。オリビアの葛藤を知ってか、ジョージが小さく息を吐き、諌めてくる。
「お嬢様、わかってると思いますけど調子に乗らないように」
「わ、わかってるわよ。でも頑張るのは勝手でしょ?」
「危険物製造マシーン再びっすね。国家反逆罪で捕まらないことを祈ります」
「そんなつもりないわよ!」
怒りで顔を赤らめるオリビアに対し、ジョージは至って冷静いや冷徹とも言える視線を返した。
理由はきっと試作品の毒見係が彼自身だったからだろうとオリビアは納得した。十回ほどトーマス医師の世話になった後、ジョージに毒の耐性ができたと聞いた時は正直気まずかった。
そんなオリビアとジョージの小さな舌戦には気づかず、シルべスタが生徒たちに開始の合図をする。
「それでは調理開始!」
合図と共に、生徒たちは各自調理を開始するため卵を手に取っていた。オリビアも卵を手に取り、ボウルの中に割り入れる。
「さて、どうしようかしら」
割ったはいいが、なんの料理を作るべきか考えあぐねていると、オリビアの調理台に数名の生徒が集まってきた。
「オリビア様、今一体何を? どうやって卵の中身を出したのですか?」
集まったうちの一人は先日レオンと一緒にランチをしたソフィー・トルマリンだった。
彼女は何が起こったにかわからず食い入るように生卵の入ったボウルを覗き込んでいた。他の生徒たちも同様の反応だった。
オリビアは圧倒されつつ、彼女たちに卵の割り方を説明する。
「はい、卵の殻を割って中身を取り出し、調理の準備をしていたのです」
オリビアの発言に、ソフィーやその他の生徒たちが目を見開いている。かなりの衝撃だったようだ。
「わ、割る? 卵は割って使うのですか!」
「え、ええ、そのまま茹でる事もありますが、やはり食べる時には殻を外します」
彼女たちは今まで一体ゆで卵の殻をどうしていたのだろうという疑問が湧いたが、オリビアは引き続き彼女たちに卵の割り方を説明することにした。
クラスメイトとの交流は大事だ。卵を一つ手に取り、笑顔を見せる。
「実際にやってみますね。まずは卵のこの真ん中を平らなところに打ち付けます。すると、このようにヒビが入ります」
オリビアが調理台に卵を打ち付けて見せると、ソフィーやその他の生徒たちは「おお……」と卵に入ったヒビに注目した。
卵ごときにと思い恥ずかしくなってきたが、続けて卵の割れ目に両手の親指を当てて卵を持ち、それを左右に開いた。
「こうして左右に開くと……このように、卵の中身をきれいに取り出すことができます」
割れた殻から、卵の中身が出てきてボウルに落ちた。その瞬間、オリビア周辺で拍手喝采が沸き起る。
「す、素晴らしいです! さすがはオリビア様!」
ソフィーが無駄に持ち上げる。周りで見ていた生徒たちも頷きながら拍手をしていて、今度はそれを見ていた他の生徒がオリビアを囲んだ。
「クリスタル様、私たちにも見せていただけないかしら?」
「はい、かまいませんが……」
こうして、気がつけばオリビアは卵の割り方をクラスメイトのほとんどに教えることになった。教え終わった頃には授業も終わりが見える時間となっていた。
(どうしよう、結局何作るかさえ決まっていない……)
ふと隣の調理台を見ると、涼しい顔をしたジョージが自分の使った調理器具を洗っていた。調理開始の時から姿が見えなかったが、どうやら真面目に調理をしていたようだ。
目が合うと、彼はよく同僚や主人をからかうときの意地悪な笑みを浮かべた。オリビアの進行状況が思わしくないのに気づいているのだろう。若干不快に感じた。
「ジョージ、もう終わったの?」
「はい。今は仕上げ中ってとこですね」
「そ、そう……」
オリビアはジョージが手伝いを申し出てくれるかと思っていたが、彼は調理器具を洗ってオーブンを眺めている。
仕方がないのでボウルの中の卵を見つめ、アイデアが湧くのを待った。
「あと五分で終了するぞー! 各自仕上げに入るように」
シルべスタが教室中に聞こえるように大きな声で仕上げを促した。
本来であればゆっくりと少し掠れたその声を堪能したいところだったが、そんな余裕はない。
オリビアは刻一刻と迫るタイムリミットに焦りながら、必死に考えを巡らせていた。
(ああ、もう時間がないわ……あ!)
オリビアはボウルの中の卵を見つめながら、不気味な笑みを浮かべた。
ついに閃いたのだ。
隣の調理台から、ジョージが眉間に皺を寄せ不安そうな視線を送っていたが、オリビアはただ不気味な笑みを返すだけだった。
>>続く
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