それでも猫は歩く

岸正真宙

それでも猫は歩く

 空が思っていたより青かった。雲がゆっくり右から左に風に流されているのが見える。雲が一定の速度で動くことを見ることは、とても心が落ち着く。それは、子供の頃から変わらないことの一つであった。私が、その目線を下げると、倒壊したビルから、消し飛ばなかった火のせいで、黒い煙がまいあがっていた。辺りはセメントが吹き飛んだせいで、粉塵が舞い上がり、普段の生活では燃えないものが燃えたせいで嗅いだことのない異臭が蔓延した。何より火薬の匂いが立ち込めていた。すぐそばで数名の人が倒れていて、突然の体への激痛に呻いていた。私の腕にも激痛が走っている。一体何が起こったかを理解できていない。ただ、早くこの場を離れるべき事だけは分かっていたが、脚が思った通りに動かないせいでそれができていない。いや、脚の感覚がないのだ。私は恐る恐る自分の脚を見たら、片方が吹き飛んで無くなっていた。太ももから先が無く、白い骨が少し出ている。激痛が昇り、私は叫んだ。

 荒れた足場を踏みならして、黒い服の男が3人、私のところへやってきた。




 ◆◆◆





 風が通り過ぎていった。電気は途絶えてしまって、全ての機械は停止していた。窓は割れてしまい、この工場は死んでしまった。差し押さえの紙が所々に貼られている。この工場に昔から良く通った。子供の頃は駆け回った。父さんは良く、叱ってくれた。俺の手には多分技術がつくはずだった。今この手にあるのは、あの通知書だ。リコールの責任が記載され、工場に命を押し付け、家族や仲間が切れ切れになる呪文が書かれていた。




 ◆◆◆





 猫が一匹横たわっていた。いや、かつて猫だったといえる。もうただの肉塊だった。胴のところで真っ二つに引きちぎられた、その「かつて猫」だったそれは、どくどくと鮮血を出していた。アスファルトに流れていくその血は暗い夜道のせいで、アスファルトの黒さを強調する効果にしか見えなかった。猫は舌を伸ばしていた。そこから立ち去る男がいた。茶色い瞳の男であった。




 ◆◆◆




 彼女の名前は梓奸(シーハン)。彼女は日本の大学に留学していたことがあった。そういった過去のこともあり、彼女は日本に対してすごくいい印象を持っていた。今回の異動を通達された時はどちらかというと「また日本にいけるのか」という気持ちの方が大きかったぐらいである。周りの同期の子達からは可哀想にと言う子があからさまに多かった。シーハンが勤めている企業は中国の車のメーカーである上北汽車である。昨年の暮れに日本最後の国産メーカーであった、HOYOTAを買収したばかりであった。そのため、日本法人の本社とHOYOTAとの合併後の整理のため異動になったのだ。出世やエリートコースという意味では日本に来ては遠回りにはなるが、アジア2位の市場であり安全な国でもある。大成の出世が彼女としては必要と感じていなかったため、自分の未来のために海外で、しかも日本で生活することは悪くないと考えていた。

「シーハン、日本人は皆、勤勉で優秀だ。そしてある意味バカだ。彼らは自分たちの理想を追い求め目の前の利益に少し疎い。そこがとてもいい。だから我々の思うようにしっかり働いてもらおう。彼らと我々はパートナーだ」

 赴任した先の上司の浩然(ハオラン)は言った。彼は中国人らしく、結果を求め、姑息であろうとそれを手にしたものが勝ちであるという、非常にわかりやすい人間であった。だから、シーハンにとっても味方である限りは信頼に足る男であると感じていた。

「こんにちは。HOYOTAのみなさん。この度財務部門の責任者として赴任したハオランと言います。今回の買収は世界一位の車メーカーの誕生でもあり、今後100年間で我々とみなさんが世界で一番であり続けるための重要な握手と言えるでしょう。我々との合併こそアジアが世界を席巻する本当の意味での始まりと言えるでしょう」

 ハオランはHOYOTA社員の前で雄弁に語り、皆の心に自分たちが敵ではないと印象付けようとしていた。この後、込み入った業務の整理などがあったため英語でのスピーチとなった。一部の日本人たちはわからず、メモを取りながら、惚けていた。


「シーハン、とりあえずお疲れ様。どう? この後、時間あいてるなら、日本の夜を堪能させてあげるよ?」

 ハオランは背広を羽織りながら、そう言った。彼の手グセの悪さは本国でも有名であった。シーハンとしては、彼の自尊心のためだけに一緒にいるのはどうも気に入らないと考えた。確か、彼には本国で許嫁がいるはずである。この状況を利用するにしてもまだだなとシーハンは思った。

「いえ、まだ赴任して間もなくて家が段ボールだらけなんです。今度是非、ご一緒させてください」

「そ、わかった。ま、異国の地での仲間だ。いざという時によろしくな」

 ハオランはまるで業務の一環でしたと言わんばかりの態度に切り替え、女性として誘ったわけではないと言外に表した。シーハンとしては一時的な態度であるとわかっていたのでそのままこちらも業務の一環と言う風に頭を下げた。わかりやすい人でいいと思った。


 シーハンには仕事終えて帰る前に少し寄りたいところがあった。日本での大学時代から、彼女は日本のラーメンが好きであった。とりわけ九州豚骨が好きでよく通っていたラーメン屋へ今晩は顔を出すことにした。

「いらっしゃい。何します、、、か?」

 彼女の顔をみて店主である、ワタナベは驚いた。

「シーハン、、さんだよね?ほらT大学の」

「はい。よく覚えていてくれましたね。嬉しいです」

 彼女もまさかワタナベが覚えていると思わず、顔がほころんだ。数年が経過していたので、ワタナベは顔を覚えるのが得意なのかもしれない。

「いや、T大学の中国の綺麗なお嬢さんとなればこちらも凄く印象に残っているんですよ。へえ、今日はどうしたの? 休暇で、こっちに来たの?」

 ワタナベは懐かしさもあり、気さくにシーハンに語りかけた。彼女としても、大学生の頃に戻ったような嬉しさであった。

「いえ、この度、日本に赴任することになったのです。多分しばらくいることになりますので、またちょくちょく来ますよ」

「へえ、そりゃ嬉しいね。まあ、あのシーハンちゃんが、こんなに立派になるんだね」

「あら、ワタナベさん、それは失礼なことですよ。私はあの頃からしっかりとしたレディでしたわ」

 彼女は笑いながら、少し演技がかって言ってみせた。

「ええ、もちろんちゃんと気品さは感じましたよ。ただ、やっぱり若々しいと言うんですかね。大学生だなあってところがあの頃はあったんですよ」

「ふふ、若気のいたりと言うやつね」

「今日は特別に全部ノセノセにしておきます!」

「え、それはちょっと。流石に食べきれないし、こんな時間だし」

「いやいや、食べてもらいますよ!折角の再会ですしね。うちの店もバージョンアップしてるんですよ、ってところ見せないと」

 そう言って、腕を振り回しながら奥の厨房にワタナベは消えてしまった。全部ノセノセはトッピングを全て載せたメニューなのだが、今日のワタナベの勢いでは、チャーシューがすごいいっぱいになるだろうなと彼女は思った。食べきれるかどうか不安ではあるが、気合いでなんとかするしかない。

「どうぞ」

 若い店員が一人お水を出してくれた。あの頃は店員など居なかったのに、雇えるほど繁盛しているのかもしれないと、シーハンは思った。


 若い店員の名前は四方田(ヨモダ)と言った。年頃はシーハンと同じぐらいの30前であった。腕の筋肉が発達しており、何かの武道でもしているかのように隆々としていた。背が高く、180cmを超えており、痩せてはいるが、余分な肉がどこにも無いような体つきであった。四方田は日本人らしい顔で一重まぶたで、少しだけ毛深く、眉が濃かったがヒゲはそれほど濃く無かった。髪は短髪で黒髮であったため、古い日本人の写真に出てきそうな大和人と言えた。寡黙であまり喋らないが、仕事にいつも真摯であった。実は入店したのはこの一ヶ月ほどであり、まだまだ新人なのだが、仕事をすぐに覚えたため常連の人間にも古くからいたような気がするぐらい馴染んでいた。ワタナベは四方田を気に入っており、すぐにでも厨房に入れて調理を覚えさせたいと考えていた。


 四方田の目はとても綺麗で、シーハンはしばらく見つめてしまった。茶色の瞳で、日本人の血が色濃く出ているせいかもしれない。まつ毛が長く、手が固そうだがすらっと伸びた指に色艶を感じた。しばらく見つめていると、四方田は会釈をしたが、目線を切らせるためのような仕草にも見えた。彼女の周りの男は皆よくしゃべるので、このようにじっと口を噤んでいる男はあまり見ないため、もう少しいろんなことを聞きたくなってしまう衝動に駆られてしまった。


「はいよ!」とワタナベはシーハンの前に全部ノセノセを持ってきた。煮卵、明太子、韓国海苔、チャーシューは扇子が開いたようにトッピングされて、刻みネギの上に山のようなもやしが乗っていた。彼女は思わずこれを隠したくなってしまった。ワタナベはとんでもない笑顔を見せて、褒めて欲しいと今にも言いそうな顔である。彼女は声にはできないが、笑顔をかろうじて返して、箸を持って体を小さくしてすすり始めた。流石の美味しさだったのに、なんだか早く出て行きたくなってしまった。こんな時間にこんな山盛りを食べる女と思われてしまったかなと。


「ご馳走様でした。ワタナベさん。美味しかったですよ」

「あいよ! 今日はおごりだよ、また来てよ」

 とワタナベは気前のいいことを言った。これには素直に彼女も喜んだ。お店を出るときも、ワタナベは外まで送ってくれた。

「ありがとうございます。そういえば、バイト雇ってるんですね。繁盛してるんじゃ無いんですか?」

「バイト? ああ、四方田くんね。うん、まあそんな感じだな。彼いいよね」


 四方田はただのバイトではなかった。本当はどこの出のものか、ワタナベにも分からなかった。数ヶ月前にボロボロの身なりの四方田がワタナベの店の前で座っていた。最初は浮浪者だと思ったが、思っていた以上に若かったから、ワタナベは四方田を開店前の店に入れて賄いを食べさせてやった。そうしたら、お礼を言って、翌日も店の前にいた。それから賄いをあげている間に気づいたら、居着くようになったとも言える。風呂にも入れてやったりして、四方田に「うちで働くか?」と聞いたら、コクリと頷いたのが始まりであった。ワタナベは彼の瞳に惚れて、彼に引き込まれてしまったのかもしれない。特に事情も話さず、四方田は感謝の気持ちを仕事ぶりで表した。ワタナベはその性格を好んだ。


 お店を出たシーハンはしばらく歩くことにした。少しだけ罪悪感を感じていたので、食べた分ぐらい歩きたくなってしまったのだ。春の夜空で間も無く桜が咲きそうであった。ちょうどビルとビルの間の公園をとおりぬけるときに猫が一匹でてきた。黒と茶色の模様の猫で本国でよく見る猫の種類だと彼女は思った。

「お、良い顔してるね、お前」

 彼女はしゃがんで、鞄に入れていたお菓子を取り出して、猫を呼びこんでみた。猫は愛想よく鳴いたりはせずに、こちらの様子をじっと見つめて、優雅に前脚を前進させて彼女に近づいてきてきた。薄い茶色の目の色は透き通っていて綺麗なのに、毛並みはボロボロであった。それでもその動きに気品さを醸し出し、そのお菓子ごときに迎合するつもりは無いというような態度で彼女に寄ってくる。猫というのはどこの国でも同じなのだなとふと彼女は思った。猫はお菓子を鼻で匂いを嗅いで問題が無いか確認すると、ひょい取り上げて、そのままプイと向こうを向いて歩いて行った。距離をすぐにとり、いつでも危機を回避できるようにとする、猫の姿を見て彼女は少しだけ笑った。そうあるべきだと思った。





 ◆◆◆





 四方田はボロボロの状態で、公園にいた。さっきコンビニ裏から持ってきた弁当を食べていた。もよもよと口に入れては美味しいのか、美味しく無いのか分からないように口の端からこぼしていた。下に鳩が近づいてきて、それを啄んでいた。それが無性に四方田は腹が立ったようだったが、だからと言って追い払うことなく、ただ、見つめていた。平日の午後の時間で、日本人のサラリーマンが数名、公園のベンチでスマートフォンを見つめていた。そればかりいじっていて、四方田よりも長くそこにいたような気がした。会社で仕事が無いのだろう。だからと言って会社にいるのが嫌なのだが、お金も無く、公園で時間を潰しているのだろう。そんなことをしているのは中年をすぎた日本人しかない。海外からの労働者は汗くせと働き、自分の居場所を会社に作っているからだ。四方田は日本人たちと目の前にいる鳩が同じような気がした。目の前のお弁当を見つめて箸を止めてしまった。

 四方田が座っているベンチの端に一匹の猫がすっと乗って、そのまま鎮座した。猫は四方田を一瞥した。毛並みがボロボロだが、目だけは綺麗で、茶色い瞳をしていた。四方田を見ずにまっすぐに前を見ていた。すっと目を細めて。そのまま太陽の光を浴びていた。四方田はそれを見ていた。しばらくして、四方田は弁当を食べ切らずに、そこに残してその場を立った。この猫が食べたら良いなと思ったのだ。




 ◆◆◆




「シーハンさん。資料ができました」

 安田はそう言って笑顔でシーハンに愛想を振りまいた。シーハンよりも十歳は年上であるはずなのに、敬語を使っていた。安田はシーハンたちがきて直ぐに、なんでもするという感じで上北汽車の人間たちに迎合してきた。

「あれは、いいな。とても便利だ」

 ハオランは笑顔でシーハンの耳元でそう言った。そうだなと、シーハンも思った。少なくとも日本人が全て敵のような状況は避けておくべきだし、彼のように近づいてくれる人間から巻き込んでいけば皆がだんだんと慣れてくる。時間がかかるが痼りがあり続けるべきではないから、彼のようなキャラクターは歓迎であった。ただ、日本人は彼のことを好んでいないようにも思えたので、そのことについはハオランに忠言しておいた。

「なるほどな。さすが日本に留学していただけあるな。だとしたら、どっちの方にも使えるな。我々に近づけばいいようにするぞという風に使ってのプロパガンダにもできるし、彼のような哲学の無い人間は正当に評価しないという風にすれば芯のある人間にも好印象を持たせられるな」

 ハオランは嬉々としてそのあとの安田の扱いを考え始めた。こういうことを考えさせるとハオランという男は冷徹である。彼は生まれて直ぐに残酷さが体に入っていたとしか思えないほどであった。だからといって、シーハンはそれを悪いとは思わない。

「シーハンさん、コーヒーです。僕英語はダメなんですけど、長い間この部署にいたこともあって、いろんな資料の場所など知っていますんで。ほんとなんでも言ってくださいね」

 安田はコーヒーを持ってきながらシーハンに言った。

「そうだ、ハオランさんってどんなことが好きなんですか?なんだかんだとありましたが、これからの僕らのリーダーですから、やっぱりお世話になるんで、色々事前に聞いておきたいなって思って。」

 そう言って銀歯の見える歯を見せながら安田は笑った。ヒゲが濃くて、口の周りが青い男であった。

「今度中国にも行ってみたいな。あんまり出張とかなかったんで」

 安田の話に上がった、中国などこの世には無いんだろうなとシーハンは冷静にそう思っていた。

「おーい、誰かちょっと助けてくれないか?」

 ハオランはこちらのことを目の端に入れながら、わざとらしく周りに聞こえるように助けを求めた。餌を出されたパブロフの犬のように、安田はハオランに駆け寄った。ハオランは「本当に助かるよ」と大きめの声で言って安田にどうでもいいことを頼んでいた。シーハンは再び、自分の実務に向かうためにディスプレイに集中した。




 ◆◆◆




「今回の買収が一部の日本人にとって尊厳が傷ついたといったことが言われております。その辺についてはどのように思われているのですか?」

 HOYOTA元会長の豊本善次郎は質問をしたキャスターに対し、あからさまに顔をしかめて見せた。

「まあ、そういう人の気持ちがわかるが、我々が車を作り、世界に売り出していく。それが責務としてある中であらゆる最善手を取らなければならない状況な訳です。私どもが日本を代表する最後の企業になっていたことは分かるが、そうだとしてもそれはかつての日本の栄光にすがろうとしているようなものです。現在の日本の立場はそう言ったことを言っていられない状況でしょう?私ども単体の企業としてすべきことは利潤を出すこと、いい車を作ることですよ。だとしたら選ぶべき選択肢はいつもそんなに多くはないんですよ」

 と低レベルな質問をしたと言わんばかりの顔で話を切って落とした。

 とある、経済ニュース番組でHOYOTAの買収劇の舞台裏を深掘りするコーナーだった。元会長である豊本が直々に呼ばれ独占対談として出演していた。買収額が難航したり、全体の権利や技術の移管、今後の戦略などの話がもちろんテーマであったが、日本人感情の総和のようものとしてキャスターが聞いたことは豊本としてはどうでもいい事であったようだ。

「そうですか。企業がいろんな競争下で切磋琢磨している。グローバライズということではイデオロギー的な考えはもう捨てていかないといけない。資本体質として、もともとの力があったHOYOTAが上北汽車と合併することはやはり世界のトップを取るためにと。そうですね。はい。ありがとうございます」

 キャスターは台本に書いてある質問を終えたので、次の話題にいくために話を区切った。

「ただ、やはりわざわざHOYOTAが買収される形をとる必要は、本来はなかったのでは、と私どもは分析しております。やはりこの交渉中にあった、大々的な部品の欠損によるリコールが大きな影響を与えたのではと思っているのですが。それにあの死亡事故がありましたから」

 その質問は、豊本にとっては嫌なものに触られていたのだろう。眉根を下げて、遺憾と書いた顔になった。

「まずは、私どもの車の部品のせいで、あのような事故となり尊い命を奪ってしまったことについて、本当に心から謝罪申し上げます」

 そう言って豊本は下を数秒向いていた。何度もこのことで下げた頭は、もう時間を開けて空間を作り謝罪の空気を重くする術も手に入れていた。

「ただ買収であったとしても、我々のブランドは残りますし、経営の主体性が変わるだけです。ですので、そこまでHOYOTAにとって損のあるディールでは無かったと思います。ただ、あの事故とリコールがディールの最中に起こったことは事実ですし、その分ある程度の損失を被ったとは言い切れます」

 豊本善次郎は謝罪の言葉とは裏腹に、損失という言葉でその事をまとめた。

 キャスターはそのまま他の話題を振りながら、日本の重鎮に対してこの特番でやるべき課題をこなしていった。


 あの時HOYOTAは空前のリコール騒ぎとなっていた。基幹部品に欠損があったとされた為だった。その欠損が原因とされる車の死亡事故まで発生してしまった。乗っていた家族はなぜか中国人であった。部品を作っていたのはいくつかの中小企業の工場であったそうだ。その為、それらの工場にもHOYOTAは責任の転嫁をした。そして、買収後、大きな方針として今後の製造は全て中国で行うことが決まった。


 数年前に日本の労働市場は開放へと進んだ。労働人口の減少をカバーするための苦肉の策であった。現在では国外からの労働者が3割を占めるようになり、労働者人口の増加で苦しんでいた税政策はプライマリーバランスが逆転するまでになった。しかし、活発な労働者交流による真のグローバル化に経営陣がついていけず、その結果、脆弱な経営陣を標的にしたM&Aが進み多くの企業が買収された。日本のお家芸である、工業製品の会社は次々と買収の標的になった。その中で特に中国は活発にM&Aを仕掛けてきた。それは国家規模での後押しのファンドを利用して、この機に日本の要産業を買い取ることで一気に欧米との差に水をあけるためであった。そこにはある程度のきな臭い絡み手があったと言える。それでも政府は看過した。結果、多くの日本企業は看板を下げるか、中国語の看板もあげることとなった。そしてこの買収も、そういった事があったのだと言える。

 事故の原因は未だ部品によるとは解明されていなかった。




 ◆◆◆




 ワタナベは、テレビを見続けている四方田を見ていた。四方田はいつもテレビを一切見ない。黙々と仕事をするし、時間が開いたらどこかの掃除をしたりする。気がついたら仕入れの内容を整理してメモしておいてくれる。冷蔵庫の中身をいつも綺麗にしてくれている。だから、手を止めてテレビを見入る四方田はなんだかいつもの四方田のようには見えなかった。微動だにしていないはずなのに、それはすごく大きな塊のようにも見えたし、震えている小さなものにも見えた。その時、ワタナベからは四方田の瞳は見えなかった。四方田の瞳は誰にも見えていなかった。テレビの中に居た、豊本善次郎にも見えていなかった。


「うへーワタナベさん、ビールください」

「おお、シーハンさん、疲れてるんだなー」

 仕事が終わり、シーハンはワタナベの店にまた足を向けていた。日本に赴任後、1週間に1回ぐらい来ているかもしれない。これではどんなに週末にジムに行っても仕方ない。

「はい、どうぞ」

 ぐびっと一杯、喉に流し込んだ。冷たい感触の後に少しの炭酸の刺激と麦芽の芳醇な香りが鼻を抜けていった。一日の疲れが消えていくような気がした。

「あれ? 今日はあのバイトの四方田さん、居ないの?」

「いや、居ますよ。ちょっと休憩ですよ。裏かな、多分」

「へえ。あ、ワタナベさん、トイレってどこでしたっけ?」

 そう言って、目配せをしたシーハンに気づき、裏じゃないかなと、ワタナベはとぼけた答えを返してくれた。


 四方田は裏で一人佇んでいた。休憩時間は約30分ぐらいもらえる。別に決まっていないので、いつもは賄いを食べたらすぐに戻るようにしていた。今日はずっとスマートフォンを見ていた。ずっと同じページに書かれているものを見つめていた。逆の手にはメモがあり、それを見比べながらそのページを見ていた。スポーツ新聞の地方特有の食レポの記事であった。大したことのない商店街の大したこのない大福の話を執拗に書いてあった。その記事を見るひとは多分いないのではないかと思われるほどだ。実際は本当に誰も読んでいない。なぜならその商店街にはその記事にある大福を売っているお店はないからだ。それでも問い合わせがあるようなことが無いくらい、そのページには人が来ていない。それでも、四方田は一言一句、逃さないように手元のメモと見比べながら見つめていた。そうして再三読み込んだ後、四方田は手元のメモを口に入れた。


「なにしてるんですか?」

 シーハンは四方田の姿を見かけて、声をかけた。背の高い四方田の丸まった背中は、とても広くて大きくて逞しく感じられた。襟足の髪がバサバサしていたので、きっと自分で整えているのかもしれない。


 声をかけられた四方田は、ゆっくりと振り向いた。するとそこには最近よく見る中国人の女性がいた。店主と顔のしれた仲であるようで、とても気さくな女性である。髪の毛が肩近くまであり、毛先がカールされている。目はとても大きくて、鼻も日本人とは違いすらっと高い。唇が上下に厚く、綺麗な人であった。彼女がなぜここにいるのかわからないが、話しかけられたのは自分にであるとわかった。


 ゴクリと何かを飲み込んだ四方田は会釈をして、通り抜けようとした。職場に戻りますので、と言わんばかりの態度であった。通り過ぎようとしたところで、二人の足元にあの猫がいた。そのせいで、四方田は通り抜けることができず、二人は思った以上に近い距離で止まってしまった。

 シーハンの髪からシャンプーの香りが、少し鼻をついた。多分ラベンダーの香りであるが、四方田にはそれがなんの香りかは分からなかった。ただ、いい香りだと思ってしまった。


「おお、君は、私のお菓子を食べた子だな」

 とシーハンは猫に向かって話しかけた。

「どうだろうな、食べるかな。人間の渡したものを。」

 そう言って、四方田は猫への道を開けてやった。猫は二人の間にできた道を悠々と歩いて行った。

「でも、公園で見かけた子に似てる気がしたんだけどな。あ、四方田さんの声初めて聞いた」

「どうも、いつも贔屓にしていただきありがとうございます。」

「はい、とても。いつも来てるんですよ。ちゃんと挨拶もしているし。うん、だから今度もっとお話しませんか?」

「いえ、自分はそういうのは、ちょっと」

「お仕事中だから?」

「はい、仕事している間は」

「じゃあ、休みの日は? いつですか?」

「・・・・」

「休みの日は?」

「火曜……」

「OK! ふふ、今度ね。一緒にどうですか?」

 半ば強引とは思いながら、シーハンは休みの日と予定を聞いてしまった。1日ぐらい会社を休んでも問題ないだろうと、頭で算段をしながら、もっとこの男と一緒に居たいと思う自分の気持ちに素直になってみたかった。四方田は頭を下げて、その場をさった。別に約束をしたわけではない。それに今週の火曜日の後には自分はもうここには居ない。




 ◆◆◆




 八咫烏という生き物が日本に居たとされる。それは神の遣いだそうだ。黒い服を来た覆面の三人の男たちはそのように呼び合うことにした。時計の針を三人で合わせて、秒単位でそれぞれの時間を合わせた。これから数時間後、落ち合うことができるかどうかは分からない。従前に準備した。確実に実行はできる。火曜日、朝の5時であった。黒いバンを運転して日本の安全とされる土地を滑らせ始めた。




 ◆◆◆




 いきなり大きな衝撃が走り、そして自分の体が思いっきり吹き飛んだ。その後、着地と同時に背中に激痛が走り、自分の天地が逆になっていることの理由がわからないでいた。飛んだ瞬間から目が醒めるまでの間、それがどれくらいの時間だったのかはシーハンにはわからなかったが気絶をしていたのだろう。自分が行くはずの本社ビルが倒壊していた。本当は会社に来るつもりが無かったのに、箸にも棒にもかからない男のせいで、出社するしかなくなり、どうせなら早く片付けて一人、午後にでも帰ってやろうと思ったせいで誰もいない時間に出社してしまった。周りには爆発に巻き込まれた人々が数名倒れていた。シーハンは腕にコンクリートの骨が刺さり、右足は爆発の際に完全に分離してしまった。流血が激しく、多分このまま死を迎えることになるであろう。爆発の後に、男たち3人が日本刀を抜いて近寄ってきた。

「我々は八咫烏である。これは日本人に向けた一つの強力なメッセージである。最早、この国の状況は誰もが思っているところには行き着かない。一部の人間たちが自分たちのことだけを考えて、そのまま行き着くべきところへ向かっていくだろう。我々はいつ、日本人であることを辞めようと言ったのだろうか? いつ、そのようなことを宣言したのだろうか? 我々は日本人をいつ捨てたのだろうか?」

 男たちは事前に設置したであろうどこかにあるカメラに向かってそう誇示した。

 シーハンはドロドロと血を流しながら、彼らに抱え上げられた、そうして、無理やり正座のような格好をさせられた。もはやシーハンの呼吸は細くなっていった。一人の男が日本刀を高く掲げた。


 シーハンの目には猫が見えた。多分あの猫だと思う。

 猫はゆっくりと私とその男の間を通り過ぎた。

 優雅に、優雅にゆっくりと。


 日本刀は昇ったばかりの暖かい日光を反射していた。周りに警察車両が近づいてきた。


 猫は太陽を見つめていた。目を細めて。


 刀は振り下ろされた。その茶色い瞳が綺麗に光っていた。


 ある晴れた朝の話である。

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それでも猫は歩く 岸正真宙 @kishimasamahiro

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