短編集【現代ミステリー】

寺沢シロ

Nullの犯行

伝染病の蔓延や経済不況に見舞われている昨今の日本で、とある窃盗事件が起きた。都心の小さなコンビニで、たまたま居合わせた店長によって犯人は捕えられた。いわゆる万引きの現行犯逮捕だ。現在この国では、年間八万人程度が万引きによって検挙されている。言い換えれば、日本のどこかでは毎日のように万引きが起きている。この話はそんな一つの事例から幕を開ける。


盗みを働いたのは十代後半くらいの少年。調べていくうち、他にもいくつかの窃盗事件や、もっと重い犯罪に関わっている可能性があった。しかし最終的に、彼は嫌疑不十分の不起訴ということになるのだ。罪が認められることはなかった。


───少年の逮捕から五日が経過。


「先月の××スーパーや、△△薬局の件、これもお前だろ? 」


殺風景な取調室。検察の聴取を受ける少年は何も答えない。近頃この辺りでは万引きの被害が多発していた。犯人に繋がる情報は少ないが、おそらくこの少年の仕業と思われた。


「見たところお前、未成年だよな。日本には少年法ってのもある、このまま黙秘したって罪が重くなるだけだぞ」


少年は口を閉ざしたままだ。容姿はかなり若く見えるものの、その素性の一切が不明。

氏名、年齢、住所などの簡単な質問にも答えが出ることはなかった。逮捕から五日が経過したにも関わらず、何者なのか検討がつかない状況。推定で十代後半だとは思われているが、本人の身辺調査が進まないことには少年法も適用できない。一度自宅待機をさせるにしても、身寄りが見つかっていない。


「どうだったよあの少年」


「あぁ佐伯さん、ダメですねー。だんまりになってしまいました」


この事件の担当になったのはベテラン検察官の佐伯と、その部下で新入りの杉本。進展しない取り調べを二人は交代で行なっていた。こうして時間を空けては似たような質問を繰り返す。正確な言質と、その裏をとるためのテクニックで、検察としてはかなり基礎的な心得である。相手の心を揺さぶって疲弊させていくような狙いもあるのだが、現状で得られる返答はなく堂々巡り。ただの少年相手でなにを手こずっているのかと、二人の方が先に飽き飽きしている様子だった。


「最初はまだ会話が成立してたんだがな」


「それも、知りません分かりませんの一点張りじゃないですか」


「明らかに普通じゃあねーな」


少年は逮捕された時点で持ち物をほとんど持っていなかった。財布や携帯もなかったため、そこからの身元の特定も不可能だった。


「あの少年はどこから現れて、今までどうやって生きてきたんだ」


日本の警察や司法は優秀だ。今回は少年の現行犯ということで、検察側もそう事件が長引くことを想定していなかった。通常なら捜査範囲の聞き込みや、少年の通う学校の情報などから、すぐに成果が挙がっていいはずであった。まだ戸籍を洗えば分かるようなことも判明していない。


「今は防犯カメラの映像が唯一の手がかりっすね、難航してますが」


「県外からきてるってのも確かか?」


「はい、おそらく」


「捜査が滞るわけだ」


佐伯は事前の調書を眺める。ベテランの彼でも調書がここまで白紙というのは滅多にないことだ。なぜか一切何も話さない少年。犯行現場のコンビニから移動範囲を絞るのも苦労しているらしく、いくつかの余罪は他県にわたっている。暇じゃない警察は管轄区域で揉めたようだ。


「シンプルに考えたら家出っすかね」


杉本の発言は誰もが一度は考えることだった。

家族の元に帰りたくないから、わざわざ遠くまで逃げてきた。親とは仲が悪いのかもしれない。携帯すら持ち歩いていない様子からもそれは伺えるし、お金が尽きたから万引きで食いつないでいた可能性は容易に想像できた。


「しかし、情報ゼロってのは不自然だ。家族の捜索願は出てないのか」


「いま照合中です」


「家族、いるといいが」


「身寄りないパターンは考えたくないっすね、まだ若そうですし」


情報が挙がらないことを除けば、少年の万引きなんてものは日常的に発生している。佐伯も今まで何度か少年犯罪を扱ったことがある。両親がいなくて親戚中をたらい回しにされた挙句、なんて話は珍しくない。そして未成年の彼らがグレるのに、家庭環境は十分すぎる理由だ。


「そうかもしれないが、そうだとしたって罪は罪だ。……まぁ本当に頼れる人間がいなくて、生きるための万引きっていうなら、情状酌量の余地くらいはあるが」


「そうですね」


「あ、佐伯さん今時間ありますか。見てほしいものがあって」


ここで別の部署の男が室内に割り込んできた、彼によって聞かされた話は、この事件の展開をガラリと変えることになる。


「殺害未遂?」


「これ、四十番の特徴と一致してませんか?」


彼が差し出したのはプリントされた数枚の写真。四十番とは例の少年のことだ。素性が掴めないために、留置所の番号のまま呼ばれることになっている。


そして、その少年の動向を防犯カメラで探っていたところ。他に追っていた事件と偶然重なってしまったとのことだ。その事件の内容は、通り魔の殺害未遂事件。


「画素が荒いな」


「この日は雷雨の日でして、この画像しかないんです」


「刺された被害者の話は聞けそうなのか?」


「今はなんとか意識もあるみたいですが、犯人に心当たりはないそうです」


刺された男性は致命傷だったが、悲鳴で駆けつけた近隣住民によって助けられた。一方、犯人は逃走中で数日行方をくらましている状況だ。そしてこの事件の犯人が少年の特徴、及び行動範囲と一致していた。


「病院で被害者の話が聞けそうなら行くしかないな」


佐伯は病院の住所を手帳にメモした。


──少年逮捕から六日が経過。

この日は佐伯から少年の取り調べを開始した。


「おい四十番。この写真に見覚えは」


彼はさっそく通り魔事件のことを話題に挙げた。


「……っ」


少年は何かを悟り、佐伯も一瞬の顔の変化を見逃さない。


「知っているのか?」


「……その人どうかしたんですか」


少年が数日ぶりに口を開く。


「質問をしてるのはこっちだ。二週間前の雷雨の日、男が通り魔に刺された、なにか心当たりは」


「殺されたってことですか」


「なにかあるなら白状しろ。殺害未遂まで重ねてたとなれば、こちらも相応の態度がある」


「さあ」


「検察を舐めるなよガキ」


未成年の窃盗、検察側も少年の事情をできる限り汲み取ろうとしていたが、殺害未遂の発覚によって雰囲気は一変した。


「……検察には何もできません」


少年も逆に煽るような発言をする。彼はここに至るまで、確定した窃盗罪に対しても何かを認めることはなく、反省する色も一切ない様子だった。加えて、この検察を舐めきった姿勢がなにかメリットを産むはずもなかった。


「お前はこのまま素知らぬ態度で乗り切れる、と思ってるのか。それとも、何も話さないことに意味があるとでも?」


黙秘に意味があるとしたら、この殺人未遂疑惑すらクロだと言っているようなものである。すでに窃盗の犯人としては確定しているのだから。より罪が重くなるのを避けるため、殺人については否定するなり、言及した方がいいに決まっていた。


「一応教えておくが、黙秘したところで捜査が停滞するなんてことは無いからな。お前はただ名前のないまま、留置所の四十番として処理されるだけだ。その場合、基本的には罪は重くなり、反省の態度もないってことになるが」


この段階で供述を拒むのは、普通ならおかしなことなのだ。仮に今後ありもしない罪をふっかけられても文句を言えないことになってしまう。検察側もこの町の未解決の窃盗事件がすべて少年の仕業と思っているわけじゃない。しかし彼は容認する訳でもなく、否定するわけでもない。せめて個人情報だけでも吐いてしまえば、少年法で守られるというのに。


佐伯は一瞬だけ、少年が二十歳を超えている可能性について考えてやめた。あきらかに若すぎるからだ。童顔にしても肌が綺麗すぎていた。


「興味ないので、自分の罪がどうとか」


少年は少し怯んだものの、常に佐伯と目を合わせようとしない。ヘラヘラしているようにも見えるし、開き直っているようでもある。仕方なく罪を受け入れるという態度にも感じ取れた。


「興味無いとかの話じゃない、お前のためを思って言ってるんだ。すでに罪は確定してる、お前の態度次第ではこっちの見方も変わるってだけの話だ……、お前はどこの誰なんだ」


「どこの誰でも、ないので」


少年は完全にこちらを舐めていたが、嫌に引っかかる言い方をした。


「もうお前が逮捕されて一週間近く経った、いなくなって悲しんでいる人間もいるだろう」


「いるといいですね、悲しむかもしれません。だから僕は口を割りません」


少年の発言たちはどれも滅茶苦茶なようだが、その目には絶対に折れない信念のようなものが宿っていた。


「そうかい、俺たちは必ずお前の情報にたどり着くからな」


結局、その日も少年からは何も聞けずじまいで、事件に進展があったのは次の日、逮捕から七日目の朝だった。


防犯カメラや駅の利用状況から、少年が県を跨いで都内まで来ていたことは分かっていた。かつ、少なくとも十日間ほど外を出歩いていたとの事だった。そして佐伯の考えていた通り、ついに彼の母親らしき人物に行き当たり、連絡がついた。


「肝心なときにいねえなあいつは」


杉本は別件で不在だったが、もうすぐ少年の母親と話せる手筈になっている。母親は愛知の方に住んでいて、そこで息子の捜索願を出していたようだ。逮捕されたのが東京のためか捜査や手配が少しずつ遅れをとっていた。


「あの……雅人は、雅人は無事ですか?」


やがて佐伯の元に母親が現れた。少年の名前は雅人と言うらしい。


「こちらの部屋で伺います、息子さんについて聞かせてください」


佐伯は空いている部屋に母親を案内する。彼女は酷くやつれているような雰囲気だった。整った顔立ちをしているが、髪はあまり手入れされておらず、化粧もほとんどしていない。疲れきって弱々しいという振る舞いだった。


「雅人くん。この写真の少年で間違いないですか?」


「はい、うちの子です……。窃盗って、何をとったんですか」


「主におにぎりや菓子パン類がいくつか、あくまで発覚してるものだけですが」


「ごめんなさい、思い当たることはあります。私のせいです。私が満足に子を養えなかったせいです」


「私のせい?詳しく聞かせてください」


「わたしは、今まで独りで息子を育ててきました。元々貧乏で十分に生活をさせてあげられなかったのに、去年から私が体調を崩しがちになってしまったので」


「話は分かりますけど、然るべき国の支援金なんかあったでしょう」


「ああ、ごめんなさいごめんなさい全部私のせいなんです」


「いや、お母さん責めてるわけじゃなくて」


「息子は……無戸籍なんです」


無戸籍、なんらかの事情で戸籍が存在せず、身分証明のできない状態。これは国の多くの公的機関の利用に不都合を及ぼす。日本において、戸籍が無いということはその存在を否定されるのと同義といえる。


「無戸籍ってことは出生届は……」


「出してないんです」


言うまでもなく、出生届を出していないのも犯罪である。しかし、これは事件の捜査とは特に関係がない、戸籍がないからと言って窃盗の罪が無くなるということはないし、これから新たに取得することも可能である。


「わかりました、わかりましたが、無戸籍で貧乏、それと盗みを働く理由には少しズレがあると思うんですが」


「ごめんなさい、だから全部私のせいなんです、雅人は悪い子じゃないんです」


「はあ」


「息子もちゃんと働いてたんです、本当に悪い子じゃなくて、動けない私の代わりに家計を支えてくれてて」


「いや、実際に盗んだ事実があるので、何故そうなっているかをこっちも知りたいんです」


母親は取り乱し気味で、所々に話の通じない部分があったが、言っていることは本当だった。この親子は貧しいことを言い訳に今日までやってきたわけではない。息子の雅人は高校に行くことを早々に諦め、働ける年齢になるとすぐアルバイトを探した。


「ある時から、私の代わりに夕飯を作ってくれるようになって、これからは給料も入って不自由しないで済むって言うんです。わたしも本当に嬉しくて、でも頭の片隅には大丈夫かなっていうのがあったんです」


この場合の“大丈夫かな”とは、初めてのバイトで心配という意味にもとれるが、どちらかと言えば、無戸籍で住所のない人間がバイトを申し込めるのかという問題だった。しかし母親も深くは考えなかった、考えたくなかった。


そして、それは案の定難しいことだった。

少年はバイトを辞めさせられることになったのだ。


「私は息子がバイトを辞めたことに気付きました。でもあの子は辞めたことをしばらく隠し続けたので、こっちから聞いたんです」


少年は無戸籍で定職につくのが難しいということを理解しつつあった。銀行口座すら作ることができないので、給与の条件はまず手渡しになる。最初は日雇いのバイトばかりを申し込んでいたが、それも探すのが難しくなると、個人情報をごまかすなどをして、騙し騙し生計を立てていた。最終的にはバイト先の店長から住民票の提出を求められ、辞めさせられることになった。


「息子は、貯金でまだ何とかなるって笑ってましたけど、その辺りから家に帰らないことも多くなってて」


「……働けないとか、そういう事情は分かりました。だと尚更、出生届が出てないのがおかしいと思うんですが」


「ごめんなさい、私が悪いんです」


「なにか戸籍を手に入れられない理由が?」


「うううごめんなさい」


しばらく事情を聞いていると、途中から母親は謝ってばかりになってしまった。佐伯も一通りの話を聞き終えたので、一旦休憩を挟もうと考えた。そして、最後に聞きそびれていた質問をした。


「この男性に見覚えはありますか」


「男性?え、あ……、この人は、えっと」


まだ少年との関連性がわかっていない通り魔事件の書類を見せると、被害男性の写真に対して彼女はとても驚いた様子で、何やら歯切れが悪くなった。


ここで机に置かれている佐伯の携帯から着信が鳴り響いた。電話をかけてきたのは杉本だ。佐伯は母親に断りを入れて、部屋のドアの前で電話に出た。


「なんだ杉本」


「佐伯さん、あとで会えますか」


「いま少年の母親と話してたとこだ」


「あ、そうか。手短に伝えます、こちらでも通り魔の被害者について調べてわかったことがあります。被害者の男性は、その母親の婚約相手でした。だからつまり、少年の父親です」


杉本は被害男性の話を聞くため病院へ出向いていた。それから彼の周りの人間関係を調べていたところ、婚約相手の女性が何年も前に失踪していることを突き止めた。さらに、当初をよく覚えているという知人の話では、二人はあまり仲が良くなかったこと、母親側が夜逃げするような形で消えたとの情報を入手した。そこにはDVの疑惑もあったという。


「それとこの被害者の運ばれた病院、行ってみて気付いたんすけど、少年が捕まったコンビニの目の前っすよ」


「なんだって?」


通り魔事件の被害者は少年の父親だった。

父親が運ばれた病院は、少年が万引きで捕まったコンビニの目の前。防犯カメラによると、通り魔事件の現場も少年の行動範囲と一致している。この二人の親子に接触がなかったと考える方が不自然だった。だが、父親は自分を刺した人間に心当たりはないと言っていた。


同じ日の夕方。佐伯は杉本と喫茶店で待ち合わせる。ここは個人経営の小さな喫茶店だ。店主も顔見知りで二人はたびたびここを訪れた。今日は後からやってきた佐伯が、いつものコーヒーを注文すると、お互いに持っている情報を共有した。


「ああ、厄介なことになった」


佐伯は書類を眺めながら考える。内容はここ一ヶ月で未解決の窃盗事件をまとめたものだ。捜査線上に挙がった窃盗の被害は、みんな生きるために必要な食べ物ばかりで、一部には風邪薬なんかが含まれていた。母親のために盗んだであろうことが推察された。


「厄介ですね」


「俺の職権でうやむやにならねえか」


普段は気を張っている佐伯が、椅子にもたれかかりながらボヤく。


「何言ってるんですか佐伯さん、私情に流されるなんてらしくないっすよ」


「私情じゃねえよ」


「なら、どうしちゃったんすか」


「あの母親はDV男から逃げ隠れして暮らしていた、だが婚約関係が解消されていなかった。だからその状態で出生届を出すってことは、戸籍上あの子の親権は夫にもあるってことになる。だから届けが出せなくて無戸籍なんだ、あいつは」


「そうですね……でもそれと事件は別問題じゃないですか?戸籍が無くても罪が軽くなるわけじゃないって、そういう話だったじゃないですか」


戸籍を持たない者が犯罪を犯したとしても、日本で起こった犯罪は日本の法の範疇である。いくら名前が分からないとしても、留置所の番号呼びのまま裁判にかけられることになるか、仮の名前を発行することも可能である。特に悪質な犯罪ならこういった手段で受理することになるだろう。


「そういう厄介さだけじゃないんだよ」


「それに彼は父親を刺したかもって話で」


「あぁそうだ。だから嫌な予感がするんだ」


逮捕から八日が経過。この日の佐伯は重い足取りで取調室に向かい、扉を開けた。俯いて座る少年は、少し痩せたように見えた。


「お前の母親が尋ねて来たぞ、もう知ってるな」


「……会わせてくれませんか、母親に」


「ダメだ、お前がもう少し協力的ならな」


「名前は才内雅人。十六歳、家は愛知県にある。戸籍上はなんもないけど」


一転して少年は態度を変えていた。しかし、この反応は佐伯にとっては想定の範囲内だった。


佐伯は彼の目的について、二つあると考察していた。一つは何よりも母親に迷惑をかけたくないという思いだ。可能なら事件を隠し通して母親に知られないようにする方向性で、現状それは不可能になった。都合の良い話ではあるが、今は取調べに協力する方にシフトした。そして彼のもう一つの目的については後述する。


「通り魔殺人の件は」


「それは知りません」


「はあ、俺にはお前の魂胆がなんとなく分かった気がするよ」


「お前ここを出たら親父を殺そうとするだろ」


「親父?なんですか?」


一応とぼけてみる少年。


「もう大体のことは挙がってんだよ、お前が認めようが認めまいがどっちでもいいが、とりあえず俺の考えを聞いてくれや」


「……?」


「罪をいくら重ねようがお前には関係なかったんだ、母親には迷惑はかけたくないが、それを自分が背負う分には構わなかった」


「何を言っているのか分かりません」


「お前が今後、才内雅人として戸籍を取得することになれば、父親との接触はほぼ避けられない。母親側に充分な生活能力がない以上、そっちに預けられるかもしれない。だが、こちらも今のお前を父親と会わせるわけにはいかない。だからお前は今後の流れがどうであれ、高い確率で親の元じゃなく、施設に送られる。本来は素性が割れないままの方が良かっただろうが、それで母親に負担をかけずに暮らせる。これがお前の目的の一つなんだろ」


「そこまで分かってたなら、もう話すこともないですよね」


「いいや、貧乏だからとか、生きるためとか結局は言い訳なんだよ。法律を破ったやつは相応の罰を受けなきゃいけない。その辺りお前がどう思っているか、こっちとしては今後の判断に関わる」


「そう言われても、どうにもならないので、今もこれからも」


「なにも独りで背負うことはないだろう」


「これは僕の問題なんです」


「理由があってもやっちゃいけないことがある、母親に心配かけたくないんだろ」


「僕にはこういうやり方しかないので」


「どうしてそんな風に考えるんだか」


「……母さんと話したんですよね」


「ああ、ある程度はな、お前を心配してたぞ」


「ずっとそうです母は、今までもずっと身を削って僕を育ててくれました」


この親子は、暴力を振るう父親から逃げながら生活していた。もっとも少年に父親の思い出は全く存在しない。母親も幼い少年に嫌な思いをさせないため、家庭の事情に触れることはしてこなかった。少年は自分の家庭についての理解が遅れていた。


「僕は八歳の頃に自転車事故で大怪我をしました、この意味わかりますか」


「ああ、戸籍がなきゃ保険にも入れないから、医療費がかなりかかるだろうな」


「母は仕事で家に居ないことが多くなりました。でも僕には何も分かりませんでした」


莫大な医療費はもちろん、ただでさえ大きくなる子どもの養育費が必要になるため、母親は夜の仕事をすることになった。夕飯を作れない日もしょっちゅうで、幼い少年は駄々をこねるばかり、母親と喧嘩することが多くなった。


息子が成長するにつれて、母親は肉体的にも精神的にも苦しめられていった。最終的には生活保護に頼って暮らしていた。


また生活保護についても、息子は書類上存在しないため、母親の分のみの受給である。それどころか未だ婚約が破棄されておらず、配偶者を頼るのが優先ということで役所とは何度か揉めたようだった。このご時世で窓口が混雑していたというせいもある。


「僕は欲しいオモチャを買ってもらうよう強請ったり、何度も我儘を言ったと思います」


「当然だろう、子どもなんだから」


「大きくなって僕はその過ちに気付きました。なのに僕は体が大きくなっただけで働くこともできない。母さんを助けたかったのに負担になるばかりで」


家庭の事情も社会の仕組みも、十六歳には理解し難いことばかりだった。


「しだいに母は体調を崩すようになりました。僕には、何もしてあげられなくてごめん、とばかり言ってました。本当は芯の強い人なんです、慣れない夜の仕事に就いていただけでも」


「僕は、どうしたらよかったんですか」


少年の目には涙が浮かんでいた。


佐伯はこの会話の流れを想定していた。昨日の母親や杉本の話から大体の察しはついていた。それでも実際に彼の抱える問題に直面すると、言葉に詰まってしまう。


「……いいか雅人、もう二度と罪を重ねないって言うなら解放してやる」


「お前はこのあと施設送りになる。そこでしばらく暮らすことになる。それでお前の目的は果たされる。それでいいだろう。父親を殺すことなんて、母親が望むと思うか?」


「ごめんなさい」


元来、子どもは何も悪くなかった。生まれた環境が悪かったと言うしかない。母親を責める訳にもいかないが、これは大人が解決すべきことであって、未成年には重すぎる問題だった。


「お前が今後の人生をどう考えてるかは知らんが、もし再犯で父親を殺すようなことがあれば、もう後戻りはできない。次は今回のような生ぬるい処置にはならない」


「ごめんなさい何も言えません」


少年のもう一つの目的、彼が思いついたこの状況の打開策とは、婚姻関係を解消して、母親の子として戸籍を取得できる抜け道。


「夫が死ねば、嫌でも親は離婚したことになる。そういうことなんだろ」


少年にも迷いはあった。突発的に起こした通り魔事件とはいえ、愛知からわざわざ都心まで出向いてきたのは、父親に会えるというのが視野にあった。結果は殺人未遂ということになったが、父親の生死を確認できなかった彼は、運ばれた病院まで突き止めた。しかし、病室に乗り込む前に窃盗罪で捕まった。


この後、少年は一時的な自宅待機を命じられ、やはり施設に送られることになった。事件は終息し、佐伯と杉本は次に担当する仕事の準備を始める。書類の整理が一段落した頃、杉本がその話を切り出す。


「佐伯さん、例の事件はどうして不起訴になったんすか」


佐伯も作業を中断するが、少しバツが悪そうにする。


「大した事件じゃなかったんだろう。不明瞭なとこも多いからな」


現行犯で明らかになった最初の事件に限っていうならば、盗まれた額はそう大きいものではなかった。コンビニの店長も未成年の犯罪ということで「反省しているなら目をつぶる」と言っていた。実際には、「めんどくさそうだから不問にする」という思惑も透けて見えていた。残りの事件は彼に繋がる明確な証拠が少なく、捜査が進展しなかった。しかし、それは大したことないで片付けていいのだろうか。


「不明瞭ってそんなはずないですよ。何件もの窃盗の事例と殺人未遂、監視カメラの映像と、被害男性の証言もあったじゃないですか。いや別に佐伯さんや自分の判断が誤ってたとは思いません。でも、何よりあのDV親父が不起訴で納得すると思いますか?」


「あとは十六歳じゃ責任能力が欠如していて、裁判にかけてもどうしようもないから。そんなところに落ち着いた。表向きはな」


「そりゃそうですけど……ん、表向き?」


「前に言ったろ。俺たちの考える以上にこの事件は厄介だ」


「厄介?」


「今回の事件は法で裁きにくいことになってる。法の力が及ばない状況にある」


「法が及ばないって、いくら彼が無戸籍でも、日本で日本人が起こした事件じゃないすか」


「ちょっと違うな」


「ちょっと?」


「そう、彼は日本人だ。戸籍がなくても日本に住んでいるからな。だけど日本には刑法より上のルールが在るだろ」


「刑法より上ですか?そんなの……あ。いや、まさか」


杉本は何かに気付いて深く考え込んだ。


「日本国憲法。その三大原則、国民主権と平和主義、もう一つは」


「えーっと、基本的人権の尊重」


「そう、基本的人権の尊重。そこには国民全員に最低限の生活を保障することが記されてる。だが、あの親子にはそれが保障されていなかった。特に少年の方はな」


極端な話、母親だけなら一人で生きていくことは可能だった。今の状況になるまで自分を追い込むくらいなら、息子と暮らすことを諦めて手放してしまう選択もできた。産まれた子には何の罪もないが、生きる術もない。法を犯さなければ、自立して生きていくことができなかった。


「もちろん、有耶無耶になったのは殺人がギリギリ未遂だったからだ。でもこれ以上、あの少年が罪を被る意味があるのか」


二人の間に重い沈黙が流れた。


「……ってのが法的に見た今回の事件なんだが。やはり俺の私情かもしれんな」


少年は本来なら親権を持つ父親の元に送られるはずだったが、事件の背景を考慮して自立支援センターに送られることになった。これはあくまで一時的な措置であり、根本的な問題解決には至っていない。自立支援センターの期限は基本的に十八歳までとなっているため、問題を先送りにしただけだ。しかし、佐伯を含め検察にできることなどは限られていた。少年がこの後どうなろうが、佐伯たちには関係のないことなのだ。彼らは法に従って判断を下すだけで、すでに事件は不起訴となった。これ以上のことに関与するわけもなく、彼らは起こった事件について調べるだけだ。


「このことは忘れろ、俺も色んな事件を担当してきたが、何が正しいかなんて分からん」


少年釈放後、とある総合病院の個室にて、療養中の男のところに来客があった。

引き戸が勢いよく開かれ、男はそこに立っている客人の顔を確認する。


「お前……!!どこ行ってやがった」


「どこへ行こうが私の勝手」


そこにいたのは少年の母親。しかし彼女は以前の弱々しい印象とは様子が違っていた。覚悟を決めた者の目をしていた。


「ちょうど良かった、話したいことがあったんだ」


「そう」


まったく男に興味のない母親は、声のトーンを一切変えずに淡々と応答する。


「あっ、いやこれなー、痛かったぜ」


男は包帯や点滴を見せつける。


「日頃のバチが当たったんじゃないの」


「いやいや、俺を刺したやつ、あの子だったんだろ。堕ろせって言ったのに」


「……クズ野郎」


「あ?なんだって?」


「ぃ、命をなんだと思ってるの」


「あぁそういうの面倒臭いからいいよ、もう許すから。それでさ、また俺と暮らそう。あの子は施設送りで多目にみてやるからよ、な?」


「離婚届を受理して」


「おいおい、冗談やめてくれよ。その歳でバツイチの女なんて誰も拾ってくれないぜ」


「離婚届、受理して」


「ちっ、うるせーな。こっちが下手に出てりゃ調子に乗るなよ。退院したら息子の親権は俺にもあるんだからな。お前が言うこと聞かないなら、お前の周りの人間から傷付ける、お前がどこ逃げようが追っかけて……」


横暴な男の態度に耐えかねた母親は、おもむろにバックから何かを取り出した。男は目を見開く。


「おい、なんのつもりだよ」


彼女は手にナイフを握りしめていた。この男と対話が成立しないことは最初から悟っていたようだ。


「離婚届、出さないならあんたを殺す」


「は?落ち着け、落ち着けよ!」


病み上がりの男はベッドから動けない。


「出さないなら殺す、今すぐ」


「わかった、わかったから!やめろ!」

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