恋、落としました
蕎麦 うどん
〝恋〟は落ちるもの
「すみません。〝恋〟落ちてませんでしたか?」
時刻は夜の10時。
繁華街から外れた場所に建つ交番……の裏側に、ひっそりと佇むボロボロなトタン屋根の店。
そこに一人の若い女性が訪ねてきた。
普通、「落ちてませんでしたか?」と落とし物の有無を聞くなら表側の交番だろう。財布とか、鍵とか、運転免許証とか。
しかし、女性は〝恋〟を落としたらしい。
思わず聞き返したくなる〝恋〟という言葉に警察官どころか、きっと通りすがりの野良猫までも疑問の表情を浮かべて首を傾げるだろう。
女性は頬を赤くして店主が口を開くのをじっと待っていた。
「いらっしゃい。もちろん落ちてるよ」
と店主もまた、当たり前のように返事をする。女性は少し肩の力を抜いた。
「そんなとこ立ってないで、ここ座りなよ。5月といえど夜は冷えるからね」
と、壁に立て掛けていたパイプ椅子をテーブルの前に組み立てた。
「失礼します」とお辞儀をしながら、女性はゆっくりと腰かけた。
ギシギシと、パイプの軋む音が薄暗い店内に響き渡る。
「さっそくだけど、きみ〝恋〟を落としたの?」
女性に背を向け、カーテンの紐を下に引きながら店主は訊ねた。
「それが……〝恋〟を落とすってどういうことなのかよくわからないんです。自分で言っておいてあれですが……。何言ってるんだ私……みたいな? すみません」
女性自身も、おかしなことを言っている自覚があるようだ。しかも、自分で自分の発言をまったく理解していないとのこと。
「なるほど。よくわからないでここに来たわけだ」
クスッと微笑みながら、店主は振り向いた。
「質問を変えよう。きみはどうしてここに来たの? 僕の店、通称『〝恋〟の落とし物センター』に」
すると女性はスッと顔をあげ、お腹に力をこめて答えた。
「友達に相談したらここを紹介されて。きっと私の悩みを解決してくれるよって……」
「ふむ、きみの友人は優秀だね」
今度はニヤッと悪だくみをするような笑みを浮かべる。
「きみの悩みを当ててあげよう」
「……はい」
「きみは恋愛感情がないのではないかい?」
「そうです、そうなんです」
「生まれてから一度も〝恋〟をしたことがない」
「です」
「それがきみの悩みだね」
「はい!」
「だが、きみは間違っているね」
「……」
「きみは〝恋〟をしたことあるよ。きみの友人も言っていただろ?」
「じゃあ、なんで……」
「きみは〝恋〟を落としたんだ。〝恋〟を落としたから恋愛感情を失ったってこと。そして、恋をした記憶も……」
女性はゴクンとつばを飲んだ。
「詳しく聞いてもいいですか?」
「ああ、もちろん」
店主は女性と向かい合って椅子に座った。そして、静かに口を開く。
「『〝恋〟に落ちる』って言葉を聞いたことあるかい?」
「……ええ」
「『〝恋〟に落ちる』。つまり〝恋〟という場所に落ちると、人を好きになるんだよ。これが〝恋〟をするってことさ」
「はあ……」
「じゃあさ、その〝恋〟ってのはどこにあると思う? 僕らはどこに落ちるんだろう」
女性は、少し困った顔を見せた。
〝恋〟の場所など考えたこともなかったからだ。
そもそも店主の言っていることが、さっぱり理解できない。
〝恋〟というものが臓器の一部であるかのように訊ねるのもおかしな話だ。
だが、しばらくじっと考え込み、そっと胸に手を当てた。
「……ここじゃないですか? 『〝恋〟に落ちる』と胸が締めつけられると聞いたことがあります」
「ふむ、概ね間違いではない。では、ここにあるであろう〝恋〟そのものが、もしもなくなったら……もしなかったら、どうなると思う?」
もし〝恋〟というものが何らかの形として存在し、それがなかったらとしたら………。
女性は首を傾げながら胸に当てていた手をギュッと握った。
「〝恋〟に落ちる場所がない……だから〝恋〟に落ちない……?」
店主は縦に大きく首を振った。
「まあ、そのとおりだね。つまりは、人を好きになれない、〝恋〟をすることができないってこと。それが〝恋〟を落とすってことさ」
「信じられません」
女性の声が静かな店内に響き渡る。
「これを見てもかい?」
店主はテーブルの下に手を伸ばす。
取り出したのはダンボールだった。横にはネット通販会社のロゴが書かれてある。
開けると、淡いピンク色をした板状のまるでチューインガムのようなものがびっしりと詰められていた。
「これは?」
女性は不機嫌そうな口で訊ねる。
「〝恋〟だよ」
「……」
「きみが落としたっていうね」
「はー」とため息をつき、
「……帰ります。真剣に話を聞いて損しました」
と女性は勢いよく席を立った。パイプ椅子がパタンと背から倒れる。
「待って待って、最後にちょっと、これだけ……」
そう言うと、またテーブルの下に手を伸ばした。
今度は小さな箱を取り出した。指輪か宝石かでも入れるような高級そうな箱だ。
開けると、先程ダンボールに山ほど詰められていた〝恋〟が今度は一つだけ入っていた。
「最後にこれを食べてほしい。……きみの〝恋〟だ」
言葉を聞かずにこの場面を見ると、それはまるでプロポーズしているようだった。
店主は片膝を地面に立て、それまでの冗談交じりの表情から一変し、口角を下げた真面目な顔でそれを差し出す。
「……これをですか?」
あからさまに嫌そうな顔を見せる。
「大丈夫、毒は入っていない」
「信用できません!」
拒絶されてもなお、店主は引こうとしなかった。
それは、女性も同じ。
「食べて!」、「食べない!」と互いに言い続ける。
埒が明かないと思った店主は、大きく息を吸って一方的に話しだした。
「これはきみのためなんだ。
これを食べれば〝恋〟はきみのもとへ帰る。
恋愛感情ももとに戻る。
また〝恋〟をすることができるんだ。
だが、きみは僕を疑っている。
でも、よく考えてごらん。
うちの隣、交番だから。
お巡りさんいつもいるんだよ。
それなのにこの店やれてるんだ。
つまり、悪いことはしていないってこと。
悪いことしてるならすぐにばれちゃうからね。
これが信用できるという何よりの証拠さ。
どう? 少しは信用できた?」
気がつくと、店主の顔は女性の鼻先10cmくらいのところにあった。
その距離から、女性は店主の頭をめがけて頭突きした。
「痛っ!!」と店主は頭を手で覆いながらその場にしゃがみ込んだ。
その間、女性が何かを言っていたが店主の耳には届いていなかった。
頭の痛みが少し和らぎ、ゆっくりと立ち上がると女性はもうどこにもいなかった。
そして、手に持っていた〝恋〟もなくなっていた。
翌日、アヤと名乗る女性が店を訪ねてきた。
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