第1話 気が付けば、異世界

何処までも晴れ渡った青い空。わたあめのような白い雲。燦々ときらめく太陽の光が、きれいなエメラルドグリーンの海に反射してきらきらと輝いている。

 どこまでも続く真っ白い砂浜は、今すぐにサンダルを放り出して裸足で走って行きたい衝動に駆られる位に見事なものだ。

 ……まあ、今は学校指定のローファーなんですけどね。

 ともかく、ギリシャのエーゲ海もかくやというパーフェクトにビューティフルな海だった。

 紺色のセーラー服に身を包み、赤いスカーフ、黒のハイソックスでビシッと決めた私こと暮島沙紀。今をときめく女子高生である私は今すぐにでもスパーン!と水着にでも着替えて砂浜を走り出してしまいたいところなのだが、今は残念ながらそうはいかない。

 それはなぜか!

 気温が低いから?

 NO!

 実は泳げない?

 NO!

 最近体重増えちゃった?お腹のお肉が気になってる?

 断じて、NO!

 では一体何なのか?どうして私はステキなビーチにトライアンドアタック出来ないのか。

 なぜなら、それは……

 「いいいいいやあああああああ!誰か助けてくださあああああいっ!というか離してえええええっ!」

 私が今、現在進行形で、大型トラックもかくやという馬鹿でっかい蛸?のようなものに襲われているからだ。

 え?何で地の文はそんなに冷静なのかって?そりゃあ人間っていう生き物は、ありえない事態に陥ってパニックが過ぎると逆に冷静になるってものなのだ。     

 

 「ってそんなこと考えてる場合じゃないいい!うわあやばいやばいやばいってえええ!」

 今、私は必死になって近くにあった椰子の木のような木にしがみついているところである。

 私を襲っている巨大なタコのようなものは、砂浜をとぼとぼ歩いていた私にノータイムで襲い掛かってきた。ざばり、と水の跳ね上げられる音がしたかと思えば、私の腰に何かの触手のようなものが巻き付いて、とんでもない力で水の中に引き込もうとしてきたのだ。

 それがでっかいタコのようなものだと私が認識出来たのは、私がとっさにその触手を振り払おうとして振り向いた時、波の間から太陽の光に照らされてぬらぬらと光る何かの生き物が覗いていたからだ。

 絶対に有り得ない、そう直感できる超巨大な生き物​──ううん、化け物が。

 私は引きずられながら逃げて、逃げて、どうにかこの椰子の木にしがみついている。

 ぬるりとした感触の灰色の蛸足が私の腰の辺りに巻き付いて、とてもない力でギリギリと締め上げてくる。

 痛い。痛いって。マジで痛い、っていたたたたたたた!?中身出そうなんだけど!吸盤が張り付いて取れそうにもないし!

 「うぐううえええ、た、タコってもっと小さいよね?おかしくない!?サイズがおかしいって絶対!え、一体何がどうなってるの!?現役JK をタコ(?)の触手で襲うなんてどんな特殊プレイですかあああああ!?」

 めくれ上がりそうになるスカートを気にしてももう遅い。海の中からまた灰色の不気味な触手が何本も、何本も伸びてきて、私の全身に巻き付いていく。

 「うぎゃあああああ!だ、誰か助けてえええええええええっ」

 私がもう一度声を張り上げたとき、ずるりと、触手の一本が私の首に巻き付いてきた。

 「──あ、っ」

 首が、締められる。ぎりり、ぎぎり。ぐるっと巻き付いたタコの足が、喉を、気管を押し潰すように。頭をもぎ取ってしまおうとするように。容赦無く。

 「っ、ぁ!?」

 咳込もうとしたけれど、それも出来ない。空気が、入ってこない。いきを吸えない。くるしい。目の前が、まっしろになっていく。

 からだに、力がはいらない。

 ずるっと私の身体が木から離れる。ぐん、と引っ張られる感覚。

 次の瞬間には、私は海の上にいた。逆さまに吊り上げられて、朦朧とする意識のまま見下ろすきらきらと太陽の光を反射する美しい海の下には、所々丸く青い紋様のある灰色の体表をもつ巨大な何かがいる。それは底が見えるほど透明な水の中で、てらてらと全身を光らせながらうごめいている。

 ──気持ち悪い。

 生理的な嫌悪感と本能的な恐怖。

 焼け付くように鮮やかなそれらを感じたときにはもう遅かった。

 鼻をつく潮の匂い。生臭い、死の臭い。触手に巻き付かれた自分の骨の軋む音が聞こえる。

 いつのまにか首に巻き付いていた足は外れていたけれど、そんなことはどうでもよかった。タコが餌を食べるところなんて見たことはないけれど、私は死ぬんだろうなと、そう思った。

 みっともなく喚いて、泣き出したいのを堪えて、私は諦めてぎゅっと目をつぶった。無駄なことをして、苦しい思いをするのは嫌だったから。どうせなら一息に食べてくれって、願うしかなくって。

 閉じた目の奥で、走馬灯が駆け巡る。

 保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校。初めて出来た友達、喧嘩した友達、楽しかった思い出。お父さん、お母さん、お姉ちゃん。

 ごめんなさい。

 「──おいてめえ!危ねーからそこ動くなよ!」

 遠くから、そんな声がした。

 え、と思う暇もなく。触手にぐるぐる巻きにされていた私の頭のすぐ下を掠めて何かがタコへと衝突した。

 「きゃああああああああああ!?」

 ばしゅんっ!と何かが炸裂したかのような音がして、その瞬間私に巻き付いていたタコの足が一斉に解けた。そして私は助かった、と思う間もなく万有引力の法則にしたがって海面にたたき付けられることに。

 「ユグド、そいつは頼んだ」

 バシャアアンッ。頭から海面に衝突して悶絶する私。衝撃で息が出来ないし、すぐ側にはまだタコのお化けがいる。しかも餌を逃がしたことにめっちゃ怒っているのか、ざばばばと海水を巻き上げて顔を出して来ている!

 私、まだピンチじゃね?

 助かって無くない?

 鼻とか耳とか気管に海水が入って超辛い。

 やっぱ私死ぬのかなあああああ!?

 げぼげぼがぼがぼと水面でもがいていた私だったが、そこに何かが近づいてくる。

 「ブルルルル」

 「げぼおおお、ぼ、う、ぶま!?」

 なんと、海の中で溺れている私を助けてくれたのは雪みたいに真っ白な馬だった。そのお馬さんはすいすいと海を泳いでくると、私のセーラー服の裾をぐいぐい引っ張って岸の方へと追いやっていく。

 え、馬って泳げたっけ?

 目を白黒させながら私はされるがままにお馬さんに引っ張られていく。

 恐ろしく長く感じた道のりを終えて岸にたどり着き、げっほげっほと咳込みながらお馬さんを見つめると、つぶらな瞳が見つめ返してくる。

 「……アリガトウゴザイマス?」

 何となくお礼を言うと、気にするなというふうに首を振られた。

 何これイケメンかよ。ちょっと惚れそう、馬だけど。

 うっかりときめいてしまった私と入れ違うように、黒い人影が走ってくる。

 「よくやった、ユグド」

 擦れ違いざまにお馬さんに声をかけ、その人影はざぶざぶと海の中に入っていく。その人は、マントと貴族の服のような、例えればRPGに出てくる人のような、黒一色の装備を身につけていた。声を聞く限り、多分私より年上だろう。

 膝下まで水に浸かって向き合っているのはさっきまで私を襲っていたお化けダコだ。

 それだけならただのコスプレ不審者みたいに見えていたのかもしれないけど、ふと目に留まったのはその男の人の右手に握られている昼間の光の中でも分かるほどの、透き通った青い光を放っている細長いもの。

 「ようやく見つけたぞこのクソクラーケン。あっちこっちに出没しやがって……!てめえのせいでどんだけ俺が迷惑を被ったか分かるかよああん!?イカ焼きにして食ってやろうか?!いい加減に観念しやがれ!」

 「いやそれ多分タコですうううっ!!」

 「どっちでもいいだろ?取り合えず食らえや!」

 渾身のツッコミをサラっと流しつつ、男の人は右手に持っているものを両手で振り上げた。

 「食らえ必殺青ビーム!」

 「名前が雑ゥ!!」

 私渾身のツッコミも哀れ届かず、その男の人は化け物に向かって青い光を振り下ろす。

 と。凄まじい風が、衝撃波が波間を揺らして──まるで、映画のワンシーンのように青い光が海を裂く。

 ミチ、ミチと巨体を引き裂く青い斬撃。苦痛に悶えるように化け物蛸はその触手をのたうたせ、巨大な水しぶきが上がる。ぶよぶよとした体が青い光を押し返そうと盛り上がり、蠢いているのが見える。

 それでも。

 奔る光は、その先にある地平線を化け物ごと真っ二つに引き裂いた。

 断末魔はない。後に残ったのは、引き裂かれた海が元に戻ろうとうねる潮騒の音だけだった。

 いや、まあ、タコだからまだ足がウネウネ動いてるんですけどね。うわあ……新鮮だなあ……。

 あははははは、はぁ……と心底疲れ果てて、ぐったりして砂浜に座り込めば、太陽に温められた砂の感触が案外心地好くて、ついつい眠気が……。

 「って、そんな場合じゃなかったああああ!!」

 ガバッと、へたりこんだ状態から跳ね上がる。

 「すみませんここってどこですか!?助けてもらって本当にありがとうございます!!でもここがどこか教えてもらってもいいですか!?何か気づいたらここに居てっ!何か変なのいるしものすっごいびっくりしてたとこなんです!取り合えずでいいので、ここがどこか教えてくださいっ。私っ●●の○○の****に住んでるんですけど!!」

 「いや、分からん。聞こえん。というかセーラー服かそれ。まだ生き残ってたのか。三百年振りに見たわ」

 ばさばさと砂を蹴り飛ばしながら戻って来た黒ずくめの男の人が、何だか感慨深そうに私を見下ろしてくる。

 「え、あ、はい?何のことですか?」

 ぱちぱちと瞬きをしながら聞き直す。

 あれ、結構背が高いなこの人。私の頭二つぶんはあるんじゃない?

 「何でもねーよ。それよか落ち着け。混乱してるのは分かってるから。良いか、ここはお前の居た世界とは違う世界。分かりやすく言えば異世界だ。お前は何でかはしらんがこの世界にやってきた。以上だ」

 「え、あ、はい。ご親切にどうも……って違ああああああああう!教えてくれるのはホント嬉しいんですけどっ。そこじゃない、そこじゃないですうううう!!」

 「うおおおおお!?」

 私はぺたんとへたりこんだまま、やけに豪華な男の人の黒ズボンの足をがくがくと揺さぶって訴える。

 「異世界!?異世界ってなんですかソレ!?アナザーワールド!?鏡の中に入っちゃった系のアレなんですか!?おっきいタコとか鳥とかドラゴンとかエルフとか魔王とか勇者とかが出てくるようなのに今いるんですか私!」

 「ズボン脱げるだろ良いから落ち着け。セーラー服着たままクラーケンの触手に絡まれてキャーキャー言ってる特殊プレイを嗜んでたハレンチJK」

 「とんでもない風評被害なんですけど!?毒を吐くのも大概にしてくださいって。か弱いメンタルかつ思春期真っ盛りの女の子に言っていい台詞じゃありませんよそれ!?」

 がくがくと私に揺さぶられながら、けだるげな様子でポリポリと頭を掻く男の人。心底面倒臭そうにしゃがみ込んで私に視線を合わせると、淡々とした口調で続けた。

 「だからな?ここはお前が住んでた世界とは違うんだよ。神様が住んでる神界、人類種の多くが住む人界、魔族の住む魔界。三層に別れた異界からなる多重世界。全部を纏めてアルベスって呼ぶんだよ」

 「……、つまり、私ってば最近流行りの異世界トリップってやつをしたんでしょうか?」

 「流行りかどうかは知らねーが、大体合ってると思うぞ?」

 首をコキッと鳴らしてさもあらんと頷く男の人。私はそんな彼を見て落ち着く──ことなんてなかった。むしろ大いに仰天して、ゆっさゆっさと彼の身体を揺さぶることになってしまった。それはもう、とんでもない絶叫と一緒に。

 「──は、はああああああああ!?ちょっとちょっとそれはないでしょう!?今時異世界トリップなんて流行りませんよおおおぉぉぉ!!」

 これが、今回の顛末である。絶叫する私に、怪訝な顔をする黒騎士さん(仮)。私こと暮島早紀が、異世界にトリップしてしまったなんていう到底信じられないような現実を受け入れられずに混乱することから全てが始まったのである。

 

 拝啓、お母様、お父様。お姉ちゃん。お元気ですか?そちらでは夏の暑い日が続いていることと思いますが、体調などは崩されていませんか。怪しげな化粧品やダイエット器具を通販で買おうとしていませんか。そして何か違うとか思いながら、ちょっと邪魔になってきたそれをおばさんに押し付けようとしていませんか。今度そんなことしたらおばあちゃんが自宅に乗り込んでやるって息巻いていましたよ。

 閑話休題。

 お母様、お父様。かわいいかわいいあなたたちの娘である私が突然姿を消してしまいとても心配させてしまっていると思いますが、安心して下さい。私は生きてます。さらにいえば──

 私は今、異世界に居るようです。

 

 ▲▲▲

 

 ぱちぱちと薪の爆ぜる音。ゆらゆらと揺らめく赤い炎。じんわりと心地好く身体を暖めてくれるたき火の炎をじっとみつめていれば、リラクゼーション効果がありそうな感じがする。

 いやあ、たき火っていいものだ。現代人は自然から離れて暮らすが故に、こういうアウトドア的な物に憧れるらしいけどその気持ちが分かる気がする。たき火で沸かしたコーヒーをふーふーしながら飲んで、ハムエッグとかをこんがり焼いたパンに挟んで頬張ったり、ハイジのチーズを真似してみたり。ああいうの絶対においしい食べ方だと思う。

 暮島沙希。十六歳。現役JK。ただいま絶賛現実逃避中です──。

 「まあ落ち着いたのは良かったな。あのままぎゃんぎゃん騒がれてたらいくら俺でもお前を放って行ってたかもしれねーし」

 「それ、マジで言ってます……?いいやマジで言ってますね!?」

 向かいで適当な木の枝でたき火を突っつきながら、怪しい黒ずくめの男の人があんまりに薄情なことを言う。

 私は今、その人が手渡してくれた穀物バーのようなものをかじっているのだった。

 

 あのあと──私が訳わからん化け物に襲われていたところを助けてくれたこの人は異世界に来たとかなんとか混乱する私にスンッと鼻を鳴らして一言、「お前、磯臭くね?」なんて言いやがり、「水浴びて来い」と川の方に追いやった。

 あのすみませんけど私着替えとか持ってないんですけどー!?と叫んではみたものの、聞く耳は持たないといった感じで全く聞き入れて貰えなかった。辛い。気温は春並にあるとは言ってもずぶ濡れじゃちょっと寒いのに。

 「磯臭い方が問題あるだろ」

 「だ・か・らぁ!年頃の女の子に臭いっていうのやめてくれませんか!?いくら私の心が海みたいに広いからっていっても許容しかねますよ今の発言はっ」

 「だったらさっさと臭いを落として来いっての。俺にぎゃーすかぎゃーすか喚き散らして何の意味があるんだよ。もう少し建設的に生きてけよ」

 やれやれと首を振る黒づくめの人。

 そのあんまりな言い方に私は大人気なくもカチンと来てしまう。

 「あーのーでーすーねー!!建設的に生きるってなんですか。そんなことを毎分毎秒考えて実行出来るよく出来た人間がいると思ってるんですか。というか言葉きつくないですか!?というかそんなに私を着替えさせたいとか、さては私の裸を覗く気ですね!?」

 「いやお前みたいなちんちくりんの裸見て欲情するほど盛ってねーよ俺。お前の着替え覗くくらいなら飯食いに行くほうが人生楽しめると思ってる」

 「あ、あ、ああああ~!!あなたって人はー!」

 年ごろの繊細な女の子になんて酷いことをー!

 心にクリティカルアタックを食らい、しくしくと泣きながら渋々川の方へと向かう。

 案内をしてくれるのは、さっきも私を助けてくれた真っ白なお馬さんだ。あの背の高い黒い人を乗っけているだけあって、お馬さんも中々大きい。鞍や手綱(?)を取り払って、しずしずと歩く様子は何だか気品に満ちあふれている。

 「ユグドに変なことすんなよ。したら〆る」

 そういうふうにあの男の人は言っていたけども、こんな綺麗なお馬さんをどうこうしようとか、そんな大それた考えを私が持つはずない。せいぜい機会があったら背中に乗せて貰いたいなーとか、ブラッシングとかさせて貰えないかなあとか、その位だ。

 ていうか、私が臭いならあの人もやばいでしょ。あの人も海に入ってたじゃん。

 私だけ言われるのなんか納得いかないんだけど!

 「ヒヒン」

 「うおっとおっ」

 石に躓き、よろけたところをお馬さんが頭で支えてくれる。

 気をつけて、といった感じで頭を振られたけれど、このお馬さんものすごく優しくて賢いなぁ!

 飼い主とはホントに違う。

 ペットは飼い主に似るって言うけど、これはむしろ飼い主がペットに似るべき案件じゃないかな。

 「おおう、なんか凄いのがいるぅ……」

 さらさらと流れる小川を覗き込むと、見たことのない植物が水底に揺れているのが見える。水草の一種何だろうけど、ハートの形をした葉っぱは透き通った金色で、銀木犀のような銀白色の小さなかわいらしいお花をつけている。良く目を凝らしてみればゆらゆらと揺れているその水草の間には赤と黄色のカラーリングをした魚?の姿もあった。

 うん、多分魚だとは思う。なんか足が生えてるけど。見間違いじゃなかったら羽も生えてるけど。

 というか今更なんだけどこの川に入っちゃって大丈夫なの?

 入った途端にジョーズみたいな巨大魚に食いつかれたりしないよね??

 私さっきとんでもない化け物に襲われた直後なのに、あの人私をほったらかしって酷くない??

 そりゃ年頃の女の子の水浴びとか見るのは犯罪者じみてるけども!

 多分人としての良識に則ってるんだろうけども!

 でもちょっっっとでもいいから思いやって欲しかったなぁ!

 はあ、とため息をついて濡れた髪をかきあげる。その途端に何ともいえない生臭さというか、磯の香りがふわぁと漂って来て……。

 凹んだ。

 いや、疑ってた訳じゃないんだ。でも、ほら流石に冗談……とまではいかなくても大袈裟に言ってると思うじゃん?でもわりと臭いなって、自分でも感じちゃった……。

 あー……。何か、自覚したらめっちゃ凹むなぁ……。

 黄昏れてしまう精神を何とか振り切って、私は気を取り直した。

 磯臭いってか気持ち悪いのは確かなのだ。あの化け物タコの触手が巻き付いた太ももや首はヌルヌルしていて、更に言えばちょっと痒い。

 「あー……よく見たら鬱血してるなぁ、これ」

 びしょ濡れになった制服のプリーツの間から覗く足には、くっきりと紫色の跡が残ってしまっている。化け物タコの触手の跡だ。多分同じようなものが私の首や胴体にも付いているだろうことは想像に難くない。締め付けられた跡には所々血が滲んでいて、あの時の私はかなりまずい状態だったであろう事がよくわかる。

 「助けてもらえたんだ、私」

 今になってゾクゾク寒気がしてきた。

 私は確かに、あの時死にかけていたんだ。この世界で、たった一人で、誰にも知られないまま。

 それは怖い。お母さんにも、お父さんにも、お姉ちゃんにも友達にも誰にも分からないで死ぬのは怖い。恐ろしい。

 誰にも見つけてもらえないのはかなしい。

 身体の芯がすうと冷える感覚に身震いする。

 運が良かった。私はただ、運が良かっただけなんだ。

 偶然あの人が通り掛かってくれなかったら、私は……。

 「やっぱり、きちんとお礼、しなきゃね……」

 深く息を吸う。ギュッと拳をにぎりしめ、気合いを入れる。

 余りに突然のこと過ぎて、異世界に来たとか、何が起こったかとか、何をしたらいいのかとか。そんなことすら分かってはいないけれど、私は私なりに出来ることをやらなくちゃ。

 後悔なんてしないように。自分を誤魔化さなくてもいいように。

 

 と、言う訳で仕方ない。覚悟を決めよう。女は度胸だ。

 ぱちんと頬を両手で叩いて、水面を睨む。

 多分、大丈夫だ。あの人だって流石に、さっきまで化け物に襲われてた女の子を化け物がいるような場所に追いやったりしないだろう。──しないよね?うん、大丈夫だよね?

 

 せーので飛び込もう。

 せーのっ。

 

 どっぼーんっ。ざばしゃっ。びしゃびしゃ……。ぱたぱた……。

 勢いよく巻き上がる水煙。飛び散った水滴がびしびしと無情にも肌を打つ。

 後悔しても時すでに遅し。少し考えれば分かることだ。底が見えるくらいの水深の川なのに……ダイヴする必要性、全くなかったや……。

 

 

 「お前ってさあ、馬鹿なの?」

 「いや、違います。違うんです、これは、その、気合いを入れようとしただけで……!」

 「それがドアホだって言ってるんだがな?」

 「うぅ、否定出来ない……」

 ひとしきり身体を川の水で洗い流してしまった後、私は濡れた制服をどうにかこうにか絞って乾かそうと努力してみた訳ですが……。川に飛び込むアホな場面をバッチリ見られて居たらしく、只今鼻で笑われています……。

 「着替えをどうにか手に入れたと思った矢先に川に飛び込んでてびっくりしたぜ。色々嫌になって自殺でもしようとしたのかと思ったわ」

 もそっとした感触の穀物バー(多分保存食のようなもの)をかじりつつ、男の人は私を半眼で見つめた。

 「あー、ご心配をおかけしました?」

 「いや全然。それならそれで仕方ねーと思うし」

 「アッ、意外と達観してらっしゃる感じですね」

 「ぶっちゃけあのまま置いていこうかとも思ってた」

 「それは流石にひっでえですよ!?なんで最後まで助けてくれないんですか!?中途半端に助けちゃうのは一番残酷なんですよ??雨の中拾った野良猫を洗って乾かしてまた雨の中に帰す位の残酷さです!」

 「助けたんだからそれで終わりでも良くね?」

 「良くねーです!」

 スパコーンと膝を打って抗議する私に、男の人はジャーキーのようなもの(干し肉かな?)に手を伸ばしてかじりはじめる。

 「でも……まあ、その、助けてもらったことは、もうめっちゃくちゃ感謝してます。本当に、本当に、ありがとうございました」

 「ん。気にすんな。お前はただ運が良かっただけだよ。俺が間に合わなかった可能性もあったし、五体満足で助かったのも含めてな」

 頭を下げる私に首を振る男の人。

 あっけらかんと告げる態度もさることながら、口にくわえたままの干し肉がぴょこぴょこと上下する様に行儀悪いですよ、と思わず肩を落とした。

 誰も見てる奴いねーし、って返されても困りますって。私が見てますよ、もう。

 

 「そういえば名前、聞いてませんでしたね。お名前伺ってもよろしいでしょうか」

 お腹も満たされ、大分落ち着いてきた頃。

 ふと思い出した私は目の前の男の人に問い掛ける。

 「あー……。そういやそうだったな。……レオンだ」

 「レオンさんですか?何というかどこかのゾンビハンターみたいな名前ですね」

 「いきなり何いってんのお前。というか人に名前を聞くなら先に名乗るのが礼儀じゃねーか」

 むう、と唇を尖らせる男の人──レオンさんに、私は膝を打って居ずまいを正した。やっぱりこういうのはきちんとしないとね。

 「あ、そうですよねすみません。私は──です。────。って、あれ?」

 「ん?」

 「──!私の名前は──って言うんです、ってあれやっぱり声が出てない??」

 「……あー、異世界から来たってのは本当らしいな。疑って悪かったよ」

 頭をポリポリ掻きながらレオンさんが、ちょっと申し訳なさそうに眉を下げた。

 「なんでそこで謝るんですか意味分かりませんよ!?というか私疑われてたんですか!?って、そうじゃない!……あのう、何か、自分の名前が言えないんです。ちゃんと声を出してるはずなのに、何か声が別の音に変わってるみたいで……」

 「世界の理が違うからな。仕方ねーさ。この世界のルールに従わないものは全部消えるか消されるかだからな」

 あっけらかんと放たれる言葉にぞくりとする。

 け、消されるって……。余りにも物騒な響きじゃないか。

 さっと血の気の失せた私にレオンさんはいやいやと首を振った。

 「そんなに怖がるこたねーよ。今みたいに認識できないってだけってことのが多いだろうし、消された例だって精々記憶くらいのもんだ。……とは言え名前が無いのも不便だよな……」

 記憶を消されるってさらって言いましたけど、それクソ怖いんですけれども。

 及び腰になった私を尻目に、うーむ、と顎に手を当てて考え込むレオンさん。

 「近くに神殿でもありゃ名前をつけてもらえるんだがなぁ……」

 ネーミングセンスがアレって言われたからなーとかボソッと零すのやめてください。超怖いですよレオンさん。なんだろ、めっちゃドキドキする。

 「……シマコ、レナール、フルェフル……違うな。もっとこう、端的に。……んー。……サキ、これでどうだ?」

 「はい?」

 「だから、サキ。これでどうだ」

 思いついたぞと言わんばかりのレオンさんに、私は驚くしかなかった。

 だってそれは私の名前だ。

 私の名前は暮島沙紀。そう、サキ。声も出ないし、何も言ってないのに

 見事に当てるなんて、さてはこの人エスパーなの???

 「そ、それです!!それでお願いします!」

 「はあ?」

 レオンさんは私の勢いに押されて驚いたのか、若干後ずさっている。

 「や!だからそれ!私の名前です!」

 「えー?」

 「とにかく、私の名前はサキです!よろしくお願いします!」

 「あ、ああ。わかった」

 ゆっくりと姿勢を戻しながら頷くレオンさんに、私はふと頭に浮かんだ質問を投げかける。

 「ちなみに由来は何なんです?」

 「え、さっきからうるさい女でサキだが?」

 「うわあああ最低ですねっ。ちょっと見直してたのに好感度ダダ下がりです!」

 「はは、冗談だっつの」

 「冗談にしてもやめてくださいよ!?」

 口元に手を当てて肩を震わせるレオンさんにもう!と、青筋を立てつつも私は少しだけ意外に思った。

 案外朗らかに笑うのだ、この人は。

 何もかもが擦り切れたような目をしているくせに、目元を緩ませて快活に笑う。

 そんな風に笑っている所を見ると、なんだか毒気を抜かれてしまう。

 ああ、そうか。そうなんだ。

 いい人なんだ、レオンさんは。見ず知らずの私を助けてくれるような凄いお人よしなんだ。

 なんだか無性に寂しくなって、私は顔を膝にうずめる。

 おい?と少し困ったような声がする。ああ、この人はやっぱり私を気遣ってくれているんだ。

 その優しさに甘えたいと思う。

 でも、私は。それは駄目なのだと、いけないことなんじゃないかと思ってしまうのだ。

 「……レオンさんは、私をなんで助けてくれたんですか」

 思わず口からこぼれたのはそんな言葉だった。

 うなだれて、膝を抱えながら、私は言った。

 「なんか不思議なパワーで私を助けてくれましたけど、もしそういうパワーがなかったら私を助けてくれましたか?」

 意味の無い問い掛けで、良くない質問だった。

 レオンさんを傷付けるだろうということはよくよくわかっていたはずなのに、止められなかった。

 ただの八つ当たりだ。

 情けなくて、狡くてひどい、八つ当たり。

 

 「まあ、助けてたんじゃねーの。俺はやれることはやる主義だからな」

 「えっ」

 あっさり告げられた言葉に思わず顔を上げてしまった。

 真面目な顔でレオンさんは続けた。

 「後悔先に立たずってな。お前を助けたいって思って助けなかったら、それは後悔になっちまう。そういう後悔はひたすら辛いんだよ。ふとした瞬間に脳みその中からじくじく染み出してきて、その苦しさに身もだえるみたいな。そんな感じだ」

 ふうと息をつくレオンさん。その視線はどこか遠くを見ているようだった。

 「身体が動くなら、この手が届くなら──そう思っても、何も出来ないことだってある。過程を悔いるくらいなら、俺は結果を悔いたい」

 これはつまり助けられたかはわからないってことだけどな、なんて付け加えるレオンさん。

 いやいや、そこは何が何でも助ける!くらい言い張って欲しかったなあ!

 くしゃりと笑えば、レオンさんは「俺は真面目だぞ」と拗ねてそっぽを向いてしまった。

 その様子が何と言うか、余りに幼い仕種だったものだから。

 「レオンさんって、ちょいちょい子供みたいですよね。何歳ですか?」

 「うん?さんび──22だ。っておい、誰が子供だ」

 「なんか今急に誤魔化しませんでした?」

 「うるせー、ほら乾いたなら行くぞ。今日は近くの村で宿をとる予定だったんだ。夜になるとやべーから急ぐぞ」

 ぶっきらぼうに言いつつざかざかと焚火に砂をかけ、荷物を纏めはじめる様子に慌てたのは仕方の無いことだと思う。

 いくらか軽くなった胸で大きく息を吸い込むと、潮の匂いと太陽の匂いが混ざった味がした。

 「待ってくださーい!」

 靴を履き直して、お馬さんに荷物をくくりつけているレオンさんの後を追う。

 太陽が背中を焦がすように、私の──私達の旅は始まった。

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