その肌のぬくもり

河野章

その肌のぬくもり

 ──胸が高鳴って死んでしまいそう。


 四二歳、旦那と二人暮らし、専業主婦。

 名前は橘瑠璃羽。

 今私は二十歳以上年下の、十九歳の青年の腕の中にいる。良い子良い子って背中や頭を撫でられながら一緒に彼のベッドの中にいる。

 涙は止まったけれど、抱き返すには勇気がない。

 ただただ彼のTシャツの胸元にすがって、安堵と安らぎとどうしようもない胸の高鳴りを必死で抑え込んでいる。

 ──好き。

 この気持ちが口から出てしまわないように必死で口を押えている。


 ことの発端は、義父の三回忌だった。

 夫は今年で四八歳。義理の家族は両親、弟二人に妹が一人。とても仲が良くて、どの親族も電車で三十分以内の場所に住んでいた。

 二年前に義父が亡くなった。まだ七十二歳だった。夫の悲しみ様は尋常ではなく、それは他の家族も同じだった。

 その日は受験だという理由で、義妹の息子、私からいうと甥の春佳くんだけが欠席していた。春佳君のことは彼が小さいころから知っていた。親族の仲が良く、彼が小学低学年のころくらいからバーベキューだの家族旅行だのをしていたからだ。

 ……少し、仲が良すぎるくらいの親族だった。

 けれどその中で、春佳君だけは異質で浮いていた。小学校高学年のころからは親族の集まりでも笑わなくなり、とうとう高校に入るとどの集まりにも顔を見せなくなっていた。私とも過去数度喋っただけで、記憶の中の彼は寡黙でいつも下を向いており、子供らしい無邪気さにやや欠ける印象を私の中に残していた。

 義妹は恐縮して、いや率先して、春佳君が家族の中でもいかに非協力的なのかを親族に話し、涙ぐむほどだった。「あの協調性のなさは将来が心配だ」というのが親族の中での彼の評判だった。

 私は夫に連れられて親族の集まりに顔を出すたび、春佳君の気持ちもわかるなぁと思いながら黙っていた。黙って、『嫁の役割』を果たしていた。

 そしてやってきた三回忌。春佳君は義妹に連れられてちゃんと喪服を着、前をまっすぐに向いて参列していた。

 やや細身の長身、真っ黒だがツーブロックの長目の前髪が今どきの若者っぽいなぁと久々に私は彼を見た。目が合うとぺこりと軽く腰を折る姿勢が以前とは違う柔らかな雰囲気に思えて、私もこんな場だというのに少し微笑んで礼を返した。

 法要はつつがなく終わり、親族で料亭に移動し酒席を囲むことになった。料亭の狭いフロントは私たち親族でいっぱいになり、夫と離れてしまった。ちょっと疲れていた私は近くの壁へと凭れて、ほっと息をついた。

「瑠璃羽さん」

 驚いた。すぐ近くに、春佳くんがいた。柱の陰に隠れて見えなかったのだ。

「は、春佳君。……お久しぶりね」

 近くで見る春佳君は、記憶の中の彼と全く違った。押し黙り不機嫌をあらわにして皆の端っこへ立ち尽くしていた彼。一人一人をにらみつけるように下から見上げていた彼は今、親族をぐるりと見渡しながら、私のことも上から見下ろしていた。

「背が、伸びたんだね……」

 その変化に戸惑って、またなぜ話しかけられたのかが分からなくて、私は当り障りのないことを話してしまう。

「高校入ってから一気ですよ。……しかし、まだ離婚していなかったんですね」

「え?」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「だから離婚ですよ。前からよく我慢できているなって思ってたんです。伯父さんはちょっと、というかだいぶ面倒くさいでしょう?」

 本来なら失礼なことを言われている筈だった。私は怒らなければならなかった。

 けれど、あまりに突然で、当然のように続けられる言葉に私はただ呆然と彼を見上げることしかできなかった。

「仲良しごっこ、反吐が出ますよね。……ほら、あそこの叔父夫婦はあんなに仲良さそうに見えて仮面夫婦で、両方が不倫してます。だから子供たちも両親を見限って、好き放題やっている。伯母夫婦のところは子供を、俺の従妹たちを虐待していた。今も恐怖で逆らえないって、従妹たちは言ってます。祖父さんが亡くなった時もひどかったなぁ……皆で、親族同士が少ない遺産を取り合って揉めてもめて。瑠璃羽さんのところは……よく頑張っていますよね、瑠璃羽さんが一人で、あのモラハラ関白主義の伯父を良く支えてる」

「なに、を……」

 言っているの、とは言えなかった。親族間でぐるりと回る噂で、皆知っていることだった。目を瞑り、耳を塞いでも入ってくる話の数々。肌を侵食して、内側まで入ってくる毒。

「だから俺はね、家族は作らないようにしようと、結婚なんてしないでおこうと思ってるんですよ。これ以上、この家族たちの餌食が増えないように」

「春佳君──」

「……辛くなったら、連絡ください。瑠璃羽さんを、壊されるのだけは嫌だ」

 彼はそういうと、一方的に連絡先を書いたメモを私の手に握らせた。掌の中に押し込んで、耳元で囁く。

「瑠璃羽さんは、俺の憧れだった。……今でも、とても奇麗で……伯父さんには勿体ない」

「!」

 ビクンと背筋を何かが駆け抜けた。淡いシダーウッドと柑橘系の香水の匂いが春佳君からは漂ってきて、私の胸はカッと一瞬で燃えるようだった。

「瑠璃羽!」

 𠮟責のような夫の声。私を呼んでいる。そちらへふらりと歩みだした私の腕を再度掴んで、春佳君は言った。

「忘れないで、俺の言ったこと」

 声は背後からだった。私は振り返ることができずに、その腕を振り払って、夫の元へと駆け寄った。


「なんだ、さっきは誰と話してた」

 酒宴の会場に通されて、皆が席に着いていた。女性陣が、──私も含めて、酒を注いで回る。席に戻ると夫が不機嫌を隠そうともせずに私をちらりと睨みつけてきた。昔はこの態度が頼もしかった。優柔不断な私を助けてくれる、心配性で頼もしい彼。

「うん、ちょっと春佳君と……」

 私は何となく話を濁した。できれば夫と春佳君のことは話したくなかった。けれど夫はそんなこと知る筈もない。

「はぁ? あいつと? 何を話してたんだよ、そんなに仲良くなかったはずだろ?」

「え、うん。ただ挨拶しただけ」

「ったく。それなら良いんだけどな。金輪際あいつには近づくなよ、一族の恥だ。今日もちゃらちゃらピアスなんぞして。久々に顔を見せたと思えばあれだ」

「……うん」

 私を、うまく導いてくれる夫。そう、春佳君が言ったことなんて真に受けちゃいけない。こんなおばさんを相手に、本気な筈ない。しかも夫の悪口を言うなんて……これまで上手くやってきたんだ。これからも私たち夫婦は上手くいく。

「分かったんなら良い。ほら、そろそろお前も食べろよ。これなんて美味かったぞ」 

 笑顔に戻った夫にほっとする。この人の隣で生きていく、私はそう誓ったんだから。


 朝は平日だろうと休日だろうと、夫より早く起きる。

 本当は布団に潜ってぐずぐずと眠りたい日や、体調の悪い日もあったけれど、いつもきちんとした嫁を、私を夫は好いていたので一日たりとも休んだことはない。

 俺は、仕事を。お前は家事を。お互い分担してしっかりやっていこうな。

 ……子供のできない体の私と結婚するにあたり、親族の風当たりは強かったと夫は笑う。そんな私を、お前を守ってやるからなと笑った過去の彼に感謝こそすれ、不満を持ってはいけない。

「母さんはとてもきちんとした人だったよ」

 そう度々言われるので。その日の気分で朝食に食べたいものをリクエストする夫に合わせて、準備万端で私は朝に挑まなければならない。

 今朝はパンが良いと言われてほっと胸をなでおろす。和食と言われた日には時間との戦いになるからだ。彼が身支度を整えて洗面所から出てくるまでに、朝食セットを食卓に並べておかなければならない。

「うん、良い匂い」

 ご機嫌な夫が食卓に着く。

「今日は会議があって、そのあと飲みに行くから。けど一応何か作っておいてくれよ、部下の選んだ店に行くんだ。最近の若い奴らの選ぶ店なんかじゃ食えないかもだからな」

「そう……お茶漬けとか、軽いもので良い?」

「いや、そうじゃないだろ。ちゃんと作っておいてくれよ。旦那を腹空かせたまま眠らせるつもりか?」

 彼が苦笑いする。しまった、答え方を間違えてしまった。私はすぐに撤回する。

「うん、分かったわ。ごめんなさい、何か作っておくわね」

「俺がちゃんと言わないと何もわからないんだなぁ、お前は」

 夫が機嫌よく笑いながら珈琲を啜る。なんとか不機嫌は回避できたようだった。

「お前はちゃんと俺のこと見とけよ。そうすれば、俺はお前を守るから」

「うん」

 それはまるで暗示のようなものだった。夫が事あるごとに口にする言葉。私は刷り込みの雛のように必ず『うん』と頷く。


 夫を送り出したら、私はさっと部屋を片づける。散らかった部屋を嫌がるくせに、自分は何もかもを脱ぎ捨てる夫は、寝室から洗面所までにパジャマや肌着を転々と落としている。それらを拾い集めて洗濯機へ。昨日洗っておいた洗い替えのシーツを取り出すと、寝室に行き、ベッドをまっさらな状態にする。よどんだ空気を逃がすために窓を開けて、お香を焚いて……まるでホテルのベッドメイクだ。

 そこまでやるの? と友人に言われたことがある。ここまでやらないといけないのよ、夫が望むから。そうでないと愛されない守ってもらえない。

 家じゅうをピカピカにして軽いおやつを取ったらもう昼前だ。

 お前は良いよな、専業主婦で。暇だろうなと夫が笑う。しっかり家を守ってくれよと付け足してくる。軽く頭を撫でられる。それが私の幸せだ。

 ……買出しに行かなくては。

 夫はどんな店で食べてくるだろうか。和食? それともイタリアン?

 和食の店だと、夕飯も和食だった場合がまずい。洋食だった場合も同じだ。被っていたら機嫌を損ねるだろう。

 それならばと知恵を絞って、ハッシュドビーフにポテトサラダ、ガーリックトーストにしようと決めた。家庭で作るカレーやハヤシライス系ならば飲み会で出にくいのではないかと思ったからだ。……カレーだと手抜きだと思われるかもしれないので、あえてのハッシュドビーフ。実際は作る工程は後者のほうが簡単なのだけれど。

 買い物を終えると、薄曇りの空からぽつぽつと雨が降り出した。

 雨宿りのつもりで近くの喫茶店の庇に入る。

 カレーやピザ、珈琲の香りが店内から漂ってくる。途端に昼食がまだなのを思い出した。提げている荷物が重く、体が凍えているのを自覚するとつい衝動で店内へ足を踏み入れていた。少し薄暗い、心地よい暖かさの店内。古き良き喫茶店という面持ちで、カウンター席から店主が『お好きな席にどうぞ』と笑顔で迎え入れてくれた。

 手から引きはがすように買い物袋を隣において、ドキドキしながら四人掛けの席に一人で座る。一人で外食なんて、夫が側にいない外食なんて結婚以来したことがなかった。

 すぐに温かいおしぼりと水が運ばれてきて、私はメニューを開く。本日のおススメ珈琲とピザトーストのセット。七百八十円。すぐに決めて注文をした。

 待つ間に、ふと春佳君のことを思い出して財布から彼に握らされたメモを取り出す。

 一度くしゃくしゃに丸めたものを、後から思い直して皺を広げて畳みなおしてしまっておいたのだ。あれから一カ月が経とうとしていた。

 と、店主の奥様らしい店員さんが手元にピザトーストと珈琲を運んでくれた。ピザトーストの表面はチーズがカリリと焦げて、見るからに美味しそうだった。行儀悪く両手で持ち上げてサクッと一口噛り付く。無心で咀嚼し飲み込んで次の一口を口へと運んだら、今度は珈琲を飲み下す。自分で作った、どんな凝った料理より美味しかった。今までの食事が砂のように思えて、私は一人でがつがつとトーストを食べ終えて、口の端についたピザソースも舐めとった。

 珈琲をあと一口というところでようやく手が止まり、ほうっと満足のため息をついた時だった。魔が差したとしか言いようがなかった。

 気づくと、春佳君へあててメッセージを送っていた。

『今、喫茶店で一人でランチです。春佳君は元気ですか?』

 返事はすぐに来た。

『喫茶店素敵ですね。僕は元気です。今学食にいます。瑠璃羽さんはお元気ですか?』

 お互いに絵文字もスタンプもない素っ気ないやり取りだった。けれど何だか安心できて、私は微笑んで返事を書く。

『元気ですよ。今日は夫が仕事で遅くなるというので……少し気が楽です』

 思わずそう打っていた。本当は、寂しいですと打たなきゃいけないところなのに。夫がいなくて気が楽です。妻失格の発言。妻の……私の、本音。

『そうですか。たまには息抜きが必要ですよね。僕もよく学校の息抜きで喫茶店行きますよ』

 返事は『私』を肯定するものだった。私は安心して雑談を続ける。

『学校、どこだっけ』

『〇〇駅の近くですよ』

『思ったより近いんだ』

『部屋は××駅から十分です。今度遊びに来ます?』

『行きません(笑)』

『なんだ、ちぇ』

 本気だろうか。私相手にまるで若い女の子を誘うような文面で春佳君は返してくる。それがおかしくて、思わず笑ってしまった。声が漏れないように肩を小さく揺らす。

『授業だ。もう行かなくちゃ。……名残惜しいな』

『そんなこと言わないの。いってらっしゃい』

『ん。連絡くれてありがとう。今度は俺から連絡しますね、瑠璃羽さん』

 それで終わりだと思った。スマホをカバンに入れようとした時だった。手の中でスマホがまた震えた。なんだろう。タップして画面を開く。と、とたんに飛び込んできた文字列。

『瑠璃羽さん、好きです』

 私は思わず手で口元を覆った。顔から火が出る思いだった。ストレートな告白の言葉。黒目がちな、春佳君の顔がちらつく。年齢に似合わない落ち着いた物腰、若者特有のイントネーションに低い声。

 そして同時に、ざっと血の気が引いていく。

 何を、何をしているんだろう私は。こんな若い子相手に……しかも血がつながっていないとはいえ甥を相手に。

 連絡なんて取っちゃいけなかった。

 会話を楽しんでちゃいけなかった。

 春佳君が遊びだろうと本気だろうと関係ない。私には夫がいるのに。

 震える手でカップを握り、すっかり冷えてしまった珈琲を飲み干す。

 もう連絡はしない。返事もしない。私は震える手を自身の胸に抱いた。


 けれど私のその決心はすぐに揺らぐことになった。春佳君からの連絡はもう一週間もない。そうなると、

『今度は俺から連絡ししますね』

 そう打ってきた春佳君の文面を、日に何度も何度も読み返してしまう。夫を送り出した後、掃除を終えた後、昼食を一人でぼんやりと取りながら。

 連絡はいつだろうと……ついスマホを触ってしまっている。

 さすがに夫の前では耐えられたが、気づけば常にスマホを身に着けているようになってしまった。

 その日は日曜で、夫は上司の付き合いでゴルフに出かけていた。帰りは何時になるかわからない。一応、夕飯はよろしくと言って出てて行った。

「家を頼むな」

「うん」

 何が起こるわけでもない。ただ口癖のように夫は言う。家を頼む。それはつまり、俺のいない間も俺の世話を頼むということだ。

 夫を送り出したのを見計らったように、スマホが震えた。

 私はとっさにスマホを開いた。アプリを立ち上げると、目を疑うような文字列がそこにあった。

『連絡なくて、寂しかった?』

 第一声がそれだった。私は頭に血が上って、すぐに返信をした。

『大人を、私を揶揄って楽しい?』

『揶揄ってないよ。ねえ、寂しかった?』

 ──寂しかった、待っていた。

『寂しくなんてないわ。もうこういうのは止めて』

 ──寂しくて寂しくて、どうにかなりそうだった。

『自分に噓をつくのは止めなよ。ついでに伯父さんの奥さんも辞めちゃいなよ』

 ──……そんなの無理。私は一人では何もできない。夫を愛して……。

『夫婦の問題に口を出さないで。私は十分幸せだから』

『幸せなら、どうして俺と話してくれるの?』

『それは、連絡を止めてくれるように説得しようと』

『それなら、無視すれば良いよね?』

 その通りだ。私は言葉に詰まってしまった。スマホを今すぐ置いて、何を言ってきても無視すれば良い。連絡先をブロックしたって良い。けどそれができない。ただスマホを握りしめて、リビングの中央に立ち尽くす。

 と、アプリが電話の着信を知らせた。

 春佳君だ。

 この電話に出なければ良い。無視するんだ。無視して普段の生活に戻るんだ。夫に支配され愛される、いつもの生活に……。

「──もしもし」

「ねえ、寂しかったでしょ?」

 確信に満ちた、春佳君の声。落ち着いたその声は私を素直にした。

「……うん、寂しかった」

 言葉にしたらもう駄目だった。涙があふれ出て、声が震える。それを隠して私は告げる。

「寂しくて、ずっと連絡待ってた」

「はは、瑠璃羽さん可愛い」

 ちょっとはにかむように電話口で春佳君が囁く。

「……俺も、待ってた。どれくらい待ったら、瑠璃羽さんが俺の方を向いてくれるかなって。こんな子供っぽいことして呆れられないかなって思いながら、待ってた」

「春佳君……」

「けどね、俺のほうがもう限界だった。ねえ、会いたいよ。瑠璃羽さん。今すぐに会いたい」

「私も会いたい。けど……」

「待ってて、会いに行くよ。住所教えて。迎えに行く」

 力強い声だった。私は首を振って、答えた。

「ううん、私が行く。駅で待ってて」


 そうして私は、駅前で春佳君と会った。

 春佳君は私の手をすぐに掴んで、それから照れくさそうに笑った。

「ごめん、余裕がなくって……」

「ううん」

 こんなおばさんと手をつなぐのは恥ずかしくない?

 そんな言葉が喉まで出かかったけれど、柔らかに手を握りなおしてくる春佳君に、そんなことは言わなくても良いんだと、そう思った。

 部屋までの数百メートルが果てしなく感じた。

 こじんまりしたアパートの二階の端っこの部屋に案内されて、中へ入る。1Kのアパートの部屋はベッドにソファ、小さなローテーブルでいっぱいの広さだった。コンロには自炊の跡が見えて、ソファには脱いだシャツがそのままになっている。生活感のある部屋だった。

「散らかっててごめん……少しは片づけたんだけど、今日会えるなんて思ってなかったから。急いで出てきたし」

 恥ずかしそうに言う春佳君が可愛い。

 振り返ろうとすると、後ろから両腕が伸びてきて抱きしめられた。

「今日も奥さん業、頑張ってきたの?」

 髪をかき分けられて、うなじへ鼻先を埋められる。

「ここでは、何も頑張らなくて良いからね……」

 手は優しくゆるく私を抱いている。囁く声は耳をくすぐる。きっと私が嫌だといえば、すぐにでも放してくれるに違いない、その腕。

「……うん……」

 けれど私は、その腕を抱きしめた。 


 ──胸が高鳴って死んでしまいそう。


 四二歳、旦那と二人暮らし、専業主婦。

 名前は橘瑠璃羽。

 今私は二十歳以上年下の、十九歳の青年の腕の中にいる。良い子良い子って背中や頭を撫でられながら一緒に彼のベッドの中にいる。

 涙は止まったけれど、抱き返すには勇気がない。

 ただただ彼のTシャツの胸元にすがって、安堵と安らぎとどうしようもない胸の高鳴りを必死で抑え込んでいる。

 ──好き。

 この気持ちが口から出てしまわないように必死で口を押えている。

 けれど春佳君はきっとわかっている。

 私のこの気持ちを。私が気持ちを抑えられなくなるまで待っていてくれる。

 急かさない。

 命令しない。

 ……嘘をつかない。

「あの人……今日は外で女の人と会ってるの」

「そう」

「もう何年も、いろんな女の人と……」

「うん、噂になってるよね。親戚の間でも話題になってた。あいつは男気があるから、モテるんだって」

「うん、私も聞いた」

「……そう、頑張ってきたね」

「もう頑張らなくても良いかな……?」

「良いよ」

「これから、どうしよう」

「ずっとふたりでいようよ」

 穏やかな声だった。上向くと、微笑んだ春佳君が見えた。そっと指で唇に触れられて、そのまま唇で唇が塞がれる。短い、緩やかなキス。

「……うん」

 私は頷く。手を伸ばして、春佳君の指先を握る。掌を合わせて、指を絡ませた。

「うん、一緒にいよう」

 春佳君が覆いかぶさってくる。私は目を閉じる。その先は、知らない。

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その肌のぬくもり 河野章 @konoakira

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