第2話


「——というわけなんです。これは事件ですよ。ジュースに毒物が混入されていたに違いありません」と、おれは言った。


 するとパソコンに文字を打ち込んでいた、白衣姿の江刺家えさしか先生は、大して興味もなさそうにため息を吐いた。


「ねえ、聞いてます? 先生」


「ああ、聞いています。聞いていますとも——」


 先生は椅子をくるりと回すと、おれに視線を寄越した。


「これは事件なんです。事故ではありません。密室の中で起きた事件なのです」


「なぜ、そう思うのですか? というか、そんなお喋りしている元気があるなら、教室に戻りなさいよ。中村くん」


「準備室は全て、内側から鍵がかかっていたんですよ。密室と言わずして、なんというんですか。防犯対策が徹底されている部屋、とでもいうつもりですか。先生。——そしておれは、元気ではありませんよ。お腹が痛むのです」


「それだけでは事件であるという根拠にはなりませんね。中村くん。お腹ってどこですか。僕の邪魔をするつもりなら本気で診ますよ。仮病だと断定し、教室に戻ってもらうことになると思いますが」


「痛いよ。痛いんですよ。ああ痛い。まだまだ痛い」


 おれは両手を腹部にあてがって「うう」と唸って見せる。江刺家先生は大きくため息を吐いた。


「あのねえ中村くん。棒読みで『痛い』と言われても、信ぴょう性がないんですよ。キミはどうして、こう頻繁に保健室に遊びに来るんでしょうね」


「先生と話すと面白いから」


「僕に懐かないでください」


 先生は顔をしかめると犬でも追い払うかのように、手を「しっし」と振った。先生が嫌がる様子を見ていると悪い気がしない。おれのせいで嫌な思いをするなんて、ざまあみろって思うわけだ。おれは枕を抱きしめてから、ベッド上でゴロゴロと横になる。


 先生は「やれやれ」と文句を言いながら、机の隣にある電気ポットのところに行って、マグカップにインスタントコーヒーを作り始めた。


「それよりなにより、事件の話ですよ。金田先生の密室殺人事件——」


「救急隊は死人を運びません。無事に病院に運んでもらったんですから。金田先生は死んではいないですよ。殺人事件というのは言い過ぎです」


「じゃあ殺人事件だ」


 マグカップから立ち込める湯気とともに、コーヒーのいい匂いがした。


 江刺家拓郎——。それが先生の名前だ。年齢不詳。プライベートは一切謎。銀縁の楕円形の眼鏡に長い前髪のおかげで、どんな顔をしているのかわからない。身長は恐ろしく高い。190センチはあるだろう。理科室に飾ってある骸骨模型みたいに痩せていた。


 クラスの女子たちの間でファンクラブができているみたいだけど。先生のどこがいいんだか、さっぱり理解できない。女子っていうのは、年上の男に惹かれる時期があるものだ。きっと一時の気の迷いに違いない。


「この件を『事件だ』と判断した理由は三つ。救急隊が駆けつけ時に『薬物』という言葉を使っていたということ。それから、準備室が『密室』になっていたということ。そして最後の理由は『動機』があるということ。金田先生は生徒たちから嫌われてました。特に女子にね。小太りだし、髪の毛がもじゃもじゃだし」


 江刺家先生はボールペンをくるくると回した。


「見た目だけで嫌われたのでは、金田先生も気の毒ですね」


「見た目だけじゃありません。金田先生は機嫌が悪いとすぐに怒り出すそうです。部員たちはいつも先生のご機嫌を伺っていたそうです。顔を真っ赤にして怒る先生は『タコ助』ってあだ名がついていたくらいですよ」


「タコ助だなんて、可愛らしいあだ名じゃないですか。本当に嫌われていたのでしょうか」


「それだけではありません。落ちていた楽譜は、モーツアルトのレクイエムです。この曲はいわくつきの曲です。作曲者であるモーツアルトは、嵐の夜に訪れた謎の男から、このレクイエムの製作依頼を受けたのです。身元もわからない謎の男を、彼は冥土からの使者だと思った。そしてその暗示通り、この曲を完成させることが出来ずに、この世を去ったんです。

 その曰くつきの楽譜が先生の周囲に散らばっていたのです。これは金田先生のメッセージです。『自分が謎の人物に狙われている』と我々に訴えたかったに違いないのです」


 江刺家先生は少し肩を竦めてから、コーヒーを一口飲んだ。


「キミの仮説に基づいて話を進めてみましょう。金田先生は生徒たちに嫌われていた、という理由で命を狙われた。先生は残された力を振り絞って、楽譜の中に込めたメッセージを残した。——すると犯人は生徒……合唱部員だということになるんですが。薬物と密室の件については、どう考えるつもりですか」


 おれは「待ってました」とばかりに身を乗り出した。


「毒物は多分、先生のそばに落ちていたジュースに仕込んであったのではないでしょうか。レシートを見る限り、ジュースは先生が出勤前にコンビニで購入したものだとわかりました。犯人は先生に用事があるふりをして、ジュースに近づき、そこに薬物を混入。先生はジュースを飲んで、そしてうめき声をあげて——これは、話を盛り上げるために入れておきます——、床に倒れ込んだ。

 先生が倒れた後、犯人は事件をかく乱するため、内側から鍵をかけ、そしてなんらかの方法で外に出て密室を作り上げたのです。ところが、先生は死んだわけではなかった。自分が狙われているということを、周囲に知ってもらうために、楽譜を床に散らしたのです」


「その『なんらかの方法』というのが肝だと思うんですが、そこは説明を割愛するつもりですね。中村くん」


「割愛などしませんよ。ええ、しませんとも。ちょっと今すぐには思い浮かばないだけです。現場を見れば、すぐに密室の謎については解明できるはずです」


 おれの推理に耳を傾けていた江刺家先生は「ぷ」っと吹き出した。




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