第11話 バランス

 作曲家との打ち合わせのために東京都下に出かけて戻り、地下駐車場に車を止めた信楽は、ビル入口のガラス扉から見慣れた人影が駆け寄ってくるのに気付いた。赤池である。彼は運転席のドアの前に立つと、窓を開けるよう手で合図した。

「信楽さん、今日この後、しばらくスケジュールが空いているでしょう。一緒に行って欲しいところがあるのです」

 早口でまくし立て、助手席に乗り込み、あっという間にシートベルトを締めている。

「小田原に行ってもらえませんか。私の妻を紹介しますから」

「つ・ま?」

「その発音は、さしみのつまのほうでしょう。私は去年の九月三十日に籍をいれました。妻の名はささらと言います」

「なんだってえ!?」

 信楽は叫びながら、アクセルを踏んでいた。


 赤池と、そのおかしな名前の女性との馴れ初めをぼそぼそと聞かされながら、東名高速を南に進んだ。

「そうか、青木は失恋だな」

「噂は知っていますが、彼女が以前好きだったのは信楽さんです。今彼女は信楽さんに愛想をつかして仕事一筋、個室をもらうのを目標にがんばっていますよ。彼女が突然やってきた坂巻さんに先を越され、個室を取られて、どんなに悔しい思いをしたか考えたことが無いのですか」

「本当か?」

「どっちがです」

「うー、個室の話」

 どちらかというとそちらのほうが重要だった。彼女が自分を思っていたなんてことはどうでもいい。ただのゴシップだ。

「本当です。一応私も上司らしく部下の相談にはのっていますから」

「どうして俺に言わなかったんだ」

「信楽さんが社員を評価する基準は私にはわかりませんから、口出ししたくなかったのです。小林さんも同じでしょう。信楽さんだって聞く耳を持っていない」

 確かにそうかもしれない。信楽にとっては、でき上がった仕事が自分に驚きや感動をもたらすかが大事なのだ。たとえ新規性を加えにくい下積み仕事であってもそれが完璧に仕上がっていた時、人に感動を与えるものだ。そんな意味で青木の仕事にはいつも感動していた。隅々にまで気が行き届いて、ミスがほとんど無い。メンバーを連携させる根回しのやり方も抜群だ。どうして彼女に役職をつけ個室を与えなかったのだろう。少なくとも坂巻と同等に扱ってよかったはずだ。

「女性にも野心はありますよ。仕事に対する執着も」

「女性云々より、利益分配をすれば役職とか個室とかどうでもいいと思ってた」

「分配比率が多いのに役職がつかないのは、自分に足りないものがあるからだと考えてしまう人もいます」

「そうか。そうだな」

 青木はそうやって自己研鑽にはげむ奴だ。今さらながら申し訳なくなった。

「八嶋さんは青木さんより、もっと純粋に仕事にのめりこむ人のようですね」

「八嶋とも話したんだな」

「はい。相談に乗りました。私は信楽さんの決断が正しいと思います。でも、彼女は止められない」

 赤池は暴走列車の映画CMみたいに言った。

「確かに。俺は見くびってた」

 苦々しく弱音を吐くしかなかった。

 あの日、美紗緒は信楽にすべてを差し出したようだった。心も、体も。けれども信楽がRTACの入力はタレントにやらせると言ったとたん、烈火のごとく怒りだした。私たちの関係のせいで、作品に妥協をはさむのですか、と。まさにその通りだったから、意地の張り合いで結婚話も膠着状態だ。それでも彼女はシナリオの進行は滞らせず、それどころか信楽の作った物語の中で、アヤナは今まで以上に生き生きしている。

「身から出た錆ですね」

「ああ」

「彼女の容姿が日本中にばらまかれても本当の彼女は信楽さんの妻で、揺るぎが無い。そう割り切るしかないのでは」

「八嶋、そう言ったのか」

「え?」

「いや、俺の妻になるって」

「えっ!そういう話じゃないのですか!?」

「もちろん、そういう話からRTACの話になったんだが。もうおまえに話したって、ずいぶん打ち解けているっていうか…」

「今更、嫉妬ですか。わけわかりません。えー、わが社における信楽さんの女房役は…つまり野球のバッテリーに例えてですよ?対人関係が大雑把な小林さんではなく、私だと自認しています。信楽さんの手が回らない社員のフォローを細やかにやっているつもりです」

「うーむ。確かに。小林はプレイヤーじゃなく監督だよな。そうか。おまえって意外に面倒見がいいし、社員とよく話しているんだな」

「基本、他人に興味が無い、脳がデジタル化された朴念仁ということにしておいてください。そのほうが話が入ってきやすいですから」

「やっぱりおまえは天才だよ」


 研究所から呼び出して路上で紹介された赤池ささらは、白衣の似合う清楚で普通の女性だった。目にとまるのは白衣についたなんだかわからない薬品のしみと、きっちり結んだ一本の太くて長いみつあみ、それから実験用のキッチンタイマーを首にかけているところくらいだ。だが確かに、赤池と並ぶと地味な紅白饅頭のようにしっくりしている。赤池がエクスプローラーの手伝いでぼろぼろになって、真夏の炎天下大学のベンチで寝ているところを、見かねて数時間日陰を作ってくれていた、という出会いの話も納得できた。赤池から提案されたシナリオの要素にバイオテクノロジーの知識が豊富に入っていたのは、彼女の入れ知恵だとも気づいた。

 ささらが赤池に耳打ちし、赤池が頷いて信楽を見上げた。

「あのう、信楽さん、私達はまだ新婚旅行に行っていなくてですね。つまりいちおうサウザンドトゥームスのアップに合わせて結婚したつもりだったのですが、RTACの開発がはじまってしまったものですから。九月に一週間ほど休みを取ってよろしいでしょうか」

「九月か。で、どこに行くんだ?」

「イタリアです」彼女が嬉しそうに言う。

「そうか。楽しんできてくれ。ちょうど俺がシナリオを推敲している頃だ。一ヶ月でも二ヶ月でもいいぞ」

「研究はそんなに休めません」

 ささら嬢はりりしい表情できっぱりと言い、赤池はいつもの無表情ながら、口の端が少しばかりにやついていた。


「結婚のこと、なんで今まで俺に隠してたんだ」

 小田原からの帰り道、秘密を打ち明けて、すっきりした顔の赤池に聞いた。

「飢えて死にそうな料理長の隣でうまそうな料理をつつけないと申しますか」

「なんだそりゃ」

 赤池の例え話と美紗緒のじゃがいもの話を聞き、感じ入った。やはり彼女は暴走列車だ。なら俺は彼女を暴走させる壊れたエンジンか。整備が必要なのは俺の方か。

「私たちは信楽さんの才能と超人的な仕事量のおかげで分不相応な報酬をいただいているという自覚があります。だから、遠慮してしまう。いろいろと」

 赤池の言っているのが、彼だけでなく、他の社員にも通じる感覚なのだとほのめかされているとわかる。

「そうか。うちの会社も脱皮の時だな」

「はい」

「あっ、分配利益の話、小林としたか?」

「ええ」

「なんかさ、俺をのけものにして重役で会議してんじゃないのか?」

「ときどき小林さんの部屋でお茶飲みながら、情報交換しています。若干、信楽さん対策会議的なところ、ありますね」

「若干じゃなく主に、だろ」

「はっはっは」

 赤池が楽しそうに笑った。こんなふうに笑うのをはじめて聞いた気がした。


 「自分の会社」の重圧にもがいていたのに、実は「俺たちの会社」だと思っている人間がたくさんいて、彼らの中心に自分が浮かんでいる模式図がひらめいた。俺は彼らを引き寄せる磁場ではあるが、彼らにバランスを取ってもらわなければ、存在していられない、不安定で偏った磁場なのだ。

 それをわかった上で、偏って、偏って、強い磁場を発生し続けるのが俺の存在意義なのだろう。

 そして八嶋美紗緒は、俺の磁場を強めこそすれ、決して打ち消しはしないに違いない。



 RTACの入力は君にお願いする(ごめん)。

 朝、出社するとキーボードの下に紙がはさまっており、引き出すと信楽からの手書きのメモだった。ごめん、の横にうずまき眼鏡をした下手な自画像が描いてある。あやうくカワイイ!と叫びそうになった。大ドンは絶対に絵を描かない、と聞いていたから、たぶん、大妥協して描いてくれたのだ。紙を抱きしめ、大げさなミュージカルの一シーンのように踊ることもできそうだった。

 それにこのうずまき眼鏡。”お泊り”をした時に初めて知ったのだが、彼は近眼で、普段は使い捨てコンタクトを愛用している。コンタクトを外して度の強い眼鏡をかけた姿は、とんでもなく美紗緒のツボだった。誘惑ゲームをしたあの夜、もしその眼鏡姿で迫られていたら私が負けていました、と言うと、滅法くやしがっていた。

「RTACのこと、お話ししてくださって、ありがとうございました」

 内線で赤池に礼を言うと、おかげさまで私もようやく休暇がとれそうです、と意味深に含み笑いをした。聞き返すと信楽さんに聞いてくださいと、そっけなく電話を切られた。つかみどころの無い男である。ただ、一心に信楽のことを気遣っている親友であることは確かで、たぶんそういう男の友情には一生かかっても割り込めないのだろう。


「お父さん、お母さん、私、結婚します」

 八月のお盆休み、皆でスイカを食べているリビングルームで、美紗緒は宣言した。察するところがあったようで、とうとうきたか、という反応である。

「で、相手はどういう奴だ」父がぶすっとして聞く。

「今の会社の社長なの」

「社長?年寄りか!?」

「三十四だけど。見た目は若いわ」

「三十四!見た目どころか十分若いじゃないか!父さんは五十、六十のバツイチ男かと…」

「そうなのね。私にとっては雲の上の人だったから、すごく年上のような気がしてたのだけど。何才だと年寄りで何才だと若いなんて、考えたこと無かったし」

「うわー、お姉ちゃんの天然ボケ炸裂。相手の人、かわいそう」

 かように頭はいいが若干ずれている美紗緒は、妹に天然ボケとからかわれること頻繁だが、全く気にしていない。とにかく打ち明けられて良かったと胸をなでおろした。

「ねえねえ、社長ってことはお金持ちなの?」

「お金のことは、話したことがないからわからないけど。会社の借金の保証人にはなっていると思う」

「美紗緒」

 父は声を荒げない男なのだが、静かに怒りを露わにすることがある。

「おまえらしくないぞ。下調べはきちんとしなさい」

 手放しでおめでとうと言ってもらえるとは思っていなかったが、金の話で釘をさされたのには内心むっとした。

「そうね。ちゃんと調べます。でもひとつだけ知っておいてください。彼は破天荒な社長ですけれど、そういうところも含めて愛しているの」


 お盆休みがあと一日残っているが、昨晩、その話で電話した結果、会社に呼び出された。今は坂巻組の発売に向けた追い込みの時期であり、床で寝ているものもいれば、頭に氷嚢をのせているもの、扇風機を最強でパソコンにあてて仕事しているものもいる。そんな作業風景を少し羨ましく横目で見ながら社長室に行くと、信楽は肉体労働者のように首にタオルをかけてキーボードを打っていた。髪が濡れている。

「それ、うちの会社の今の財務状況」

ぶっきらぼうに言い、顔を上げない。会議机の上に書類が置いてあった。

「見ていいのでしょうか。私みたいなペーペーが」

「WHY NOT?」

 軽いもの言いに反論する気にもならず、書類を通読して唖然とした。とまほーくはとんでもない優良企業だ。売り上げからコストを引いた利益率が50%を超えている。それも年度の中途でだ。坂巻のゲームが売れたらとんでもない数字になる。おまけに最後のページには信楽個人のとんでもない預金額が無造作にメモってあった。

「いやだろう」

 美紗緒の顔色を見たらしい信楽がぼそっと言った。

「金がいっぱいあると、もっと人が雇えるはずだ、もっと製品を開発できるはずだ、機材に投資できるはずだ、そんな考えなくていいことを考えなくちゃならなくなる」

「私、軽々しく迎合もできないし、提案もできません。ただ…」

 そこまで言って、大きなため息をついてしまった。

「なに?」

「アンバランスです。父に説明したらたぶん…あの、私この資料は見なかったことにして、信楽さんに借金が無いことだけ確認したことにさせてください」

「どうして」

「父と会社のことで議論したくないから…」

「その議論、聞きたいな」

「申し上げておきますが、父は、後藤さんより…厳しいです」

「大丈夫。僕は君が思っているより大人だよ。いいかげんクローゼットから出してくれ」

 そんなこと知っています、と言いかけて、彼にされた大人な所業の数々が頭をよぎり、顔が熱くなって目をしばたいていると、それを察した信楽も視線をさまよわせた。

「では、今晩、我が家にいらしてくださいますか」

「今晩と言わず、今すぐにでも」

「でも、お仕事は…」

「僕がこういうときにできることは、社員の周りをかぎまわって、臭いやつを銭湯に連行することぐらいなんだ」

「それだけ?じゃないですよね」

「ああ、君こそ本当に鼻が利くな。風呂につかりながら、建前じゃない進行状況を聞き出す。本当の危機はそうやって見つける。臭いってのはそういう意味もある。言葉通りの意味も、ある」

「で、見つかったのですか?」

「小さいのはね。今、坂巻と青木にメールしておいた。う…その、社長ス・テ・キみたいな、ぽわんとした顔、やめてくれ。僕をいい気にさせるな」

 美紗緒は信楽に背を向けた。そして家に電話し、これからふたりで帰ることを告げた。



 つくづく八嶋美紗緒は魔女なのだ。抱いたからといってその魔力は失われない。むしろ俺の腕の中からその魔力で俺という存在を変えてしまう。俺の首にしがみついて耳元にかかった吐息。あれは強力な呪文だったのに違いない。

 今まで後藤の、社長ならこうあるべきだ、会社はこうあるべきだという説教を全部聞き流してきた。製品が売れれば文句はあるまいの一点で押し通した。

 今は彼女の父からおこごとがあれば真摯に聞こうという気になっている。どんな面倒も引き受けられる。そんな自信に満ち溢れている。

 お盆休みの東京の道はガラガラで、あっという間に美紗緒の自宅についてしまった。車が門前に停車した音を聞きつけたのだろう。広い玄関ホールには美紗緒の母と妹、その後ろに父が立って待ち構えていた。

「ただいま」

「お邪魔します」

「いらっしゃい。お名前は?」

 将来の義母から、小学生の友達の家に来た時みたいに聞かれた。美紗緒の上品でおっとりした面はこの人から受け継いだのだとわかった。

「信楽武司と申します」

「大きい人ね。身長なんセンチですか?」

「185です」

 彼女の妹は美紗緒に明るさ調整バーがあったとすれば、暗いほうから明るいほうに最大限振り切ったような女性で、コントラストは若干浅いかんじである。

「とにかくあがりなさい、ふたりとも」

 興味津々の女性ふたりの後ろから将来の義父が言った。証券会社の重役というだけあり、後藤の二倍くらい威厳がある。そんなことを言ったら後藤は、わしに威厳なんていらんからな!と吐き捨てるだろうが。ただ、この家は女三人男一人だからか、発言の立ち位置も後ろからを心がけているような穏やかな声音である。

 リビングのソファに美紗緒と並んで座り、向かいに父母が、妹が横に座った。

「話は聞いているし、娘をやるやらないという話をするつもりもない。娘は私の所有物じゃないからね」

「はい」

「美紗緒の明るい顔を見ると資産の話も問題ないのだろう。だからそれ以上は聞かない。変な勘繰りをして申し訳なかったね」

「いえ」

「だから、ひとつだけ聞きたいのは、君はこの子が、ただ若くて見栄えがいいってだけじゃなく…その、ちょっと変わった子だってことを知っているのかってことなんだが」

 信楽は、美紗緒の個性をもちろん知っているであろうこの男性の両手を取って握手したくなったが、ぐっと抑えた。

「私が彼女を心の中で形容する言葉がいくつかあります。女スパイ、魔女、それから…暴走列車」

「はっはっは」

 美紗緒の父は愉快そうに笑った。たぶん彼にとっては自分の聡明さと頑固さを受け継いでしまった箱入り娘が、そういう意味で心配だったのだろう。

「ああ、わかってくれていて嬉しいよ。出会って数ヶ月のスピード婚だろう。誤解が無いか心配でね。時々テレビゲームって奴を一生懸命やってることも…」

「ねえねえ、じゃあ、お姉ちゃんは彼のこと、心の中でなんて呼んでるの?」

 さすが明るさMAX娘。いい具合に割り込んでくる。

「そうね。謎かけ大好き男、新幹線の時刻表、それから、おつう」

「最後の、なに?」

「鶴の恩返しのおつうよ。社長室のドアを決して開けるなって言って、ボロボロになるまで仕事するの」

「ああ、一度、君に覗かれたんだっけ」

 美紗緒がふふっと笑った。周りの家族も納得した顔で頷いている。まあ、いいか。

 その時、信楽のポケットで携帯が振動した。見ると青木からである。

「申し訳ない、ちょっと話してきます」

 玄関の外に出て受けると、さっき送ったメールのことで窮地に陥っており、すぐ会社に来てくれとのことだった。小さい問題だと思っていたのがそうではなかったらしい。信楽は皆のいるリビングにばたばたと戻った。

「お義父さん、お義母さん、私は会社に戻らねばならないのですが、かように日々多忙に過ごしておりまして、このままでは美紗緒さんと仕事以外ではほとんど会えないまま何か月も過ぎてしまいます。いろいろすっとばして彼女と暮らし始めたいのです。結納とか、婚約とか、結婚式とか、八嶋家としてすっとばせないものは何か、お教えいただけないでしょうか」

「美紗緒はどうなんだ」と、義父。

「私は何も必要ないわ」

「だそうだ。どうせ何か言ったって暴走列車は止まらんから。あとは二人で決めなさい」

「ありがとうございます。では美紗緒さん、車で話したいからもう一度一緒に来てくれるか」

「はい」

「ん、あ、違うな。今日はお盆休み最終日だ。ご家族にとっても。連れ出しては申し訳ない。僕たちの話はまたにしよう。明日、一緒に夕飯、食べに行こう。20:20ニーマルフタマル、ビルのロビー、北側出口。いいか」

「はい」

「それから、うちの会社がアンバランスだって話、お義父さんがどうおっしゃるか、僕に教えてくれないか。財務データはおおまか頭に入っているだろう」

「はい」

「では、お邪魔しました」

 あまりにあっさり結婚が承認されたので、舞い上がりそうだが、青木の口調を思い出すと、こういう浮足立っている時こそ最悪の問題が持ち上がる、と嫌なジンクスに気を引き締めざるをえなかった。



 怒涛のように信楽が帰って行った後、八嶋家は大騒ぎになった。

「まあ、すぐにでも一緒に暮らすって、彼の家はどこなの?」

「お姉ちゃん、すごく恰好いい社長じゃない。でもなにあの無駄が一切ない話し方。あれが新幹線の時刻表のいわれなの?」

「財務の話ってなんだ?お前の会社、何をやっていて、どういう形態なのだ。転職の時あまりに腹がたっていたから調べなかったんだが。帝国データバンクで出てくるか?」

 美紗緒は一呼吸おいて、皆にも冷静を促した。

「彼の家は都内だけど行ったことが無いの。倉庫みたいなところって言っていたわ。一緒に暮らすとしたら新しいところを借りると思う。あの話し方は…むしろ私が始めたの。じゃないと彼が仕事中なのにでれでれしちゃうから。お父さん、会社の状況についてご意見いただきたくて。今晩一時間くらいお話しさせてくれる?休日なのにごめんなさい。それから、私の勤めている会社は、前にここでやっていたテレビゲームを作っている会社よ。さっきの彼が作者です」

 三人はまた口々に質問を繰り出そうとしたが、美紗緒はさえぎって立ち上がった。

「私、着替えたいから」

 二階に駆け上がって、部屋に入ると、声にならない叫びをあげながらベッドに倒れこんだ。私、本当に彼と結婚するんだわ!それもすぐにでも!どうしよう、嬉しすぎて正気を保っていられない。ごろごろ転がって足をばたつかせ、両頬を両手で痛いくらいつねってみた。

 そうだわ、仕事よ。そもそも今結婚して新作が失敗したら私はとんだお荷物ということになる。アヤナの入力は私がやると言い張ったのも笑い草だわ。絶対に成功させる。いえ、絶対はありえない。成功させるためにできることをとことんまでやりつくす。たとえ失敗しても、その履歴を糧として失敗の要因を分析し、将来に生かせるように、考えて考えて、試して試して、時間が許す限り努力するわ。

 美紗緒は、信楽と結婚し、共に暮らせるという嬉しさと、仕事に対する新たな決意のバランスがとれたことに満足した。

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