第5話 女スパイ誕生

 あの誘惑ゲームに完敗した時に、人間であることを忘れようと思った。少なくともこの作品を作っている間は現実の自分を奥深くに押し込めておこうと。

 書きなぐった企画用のメモは、現実の自分に見とがめられる前に、煮詰め、不純物を取り除き、結晶化しなければならなかった。

「俺にできることはそれしかない」

「俺がやりたいことはそれしかない」

 ぶつぶつとひとりごとを言っているのにも、気にする余裕はない。聞きとがめるものもいない。

「今やるべきことはなんだ」

「俺が決めるべきことはなんだ」

「人にやらせるべきことはなんだ」

 自問自答は延々と続く。時間の感覚は無くなり、どこにいるかも忘れていく。書いて書いて書いて、並べて、階層化して、図式化して、省いて、付け加えて、先送りにして。ひとりでやっていると、限界を感じる。しかしひとりでなければ濁ってしまう。

「がーっ!!」

 つい、叫んでしまった。よくあることだ。

 驚いたのは、閉め切っていた社長室のドアを開け、彼女が飛び込んできたことだ。

 八嶋美紗緒が、おびえた顔でこっちを見ている。

「あ、あの。大丈夫ですか?」

 社長室のドアが閉じている時は絶対に入るなと皆に命じてある。だが、そうか、彼女にはまだ伝わっていないのだ。自分の取り乱した無様な姿を見られたという羞恥心と、集中を中断されたいらだちは、だが、一瞬で吹き飛び、充満していたガスに引火するかのように自分の創造物を燃え上がらせる彼女の存在に息を呑んだ。

「お聞きしたいことがあって、ドアの前に立っていたら、叫び声がしたので…」

「聞きたいこと?」

「過去の私をご存じだって、伝え聞いてしまって」

「過去?」

「私が、昔自分で作ったゲームを…」

「ああ、君がKOGUだったことか」

「どうして!?どうしてご存じなんですか!?」

 彼女の剣幕に、まずい手の内を明かしてしまったのだと後悔すべきだったが、むしろ混乱する姿を目の当たりにして興奮していた。俺はとんでもない奴だ、と思いつつ、今この瞬間を目に焼き付けずにはいられない。

「それは秘密だ。この会社の存在に関わる大きな秘密。興味があるなら、さぐってみたらどうだ」

「はあ?」

 何言ってんの、このオッサン、という反応にさえ胸が高鳴る。

「すまないが、僕がそこの扉を閉めて仕事をしている時には、絶対に入ってきて欲しくないのだ。全社員に厳命してある。君とのミーティングの予定は明日の午後5時のはずだ」

「…はい」

 美しい目をしばたいている。

「申し訳ありませんでした」

 食い下がってくるかと思いきや、しおらしく引き下がった。しかしドアを閉める前にさぐるように信楽をねめつけた。信楽はわざとらしく目の前の束になった書類を持ち上げて机に叩きつけた。早く出ていけ、と言うように。彼女はびくっとしてそれでも鋭い視線はそらさぬままドアを閉めた。

「ふふふふふ」

 笑いがもれる。

「はーはっはっは!」

 まだ扉の向こうにいるであろう彼女に聞こえるように高らかに笑った。美紗緒がどんな行動に走るのか、楽しみでしかたがない。わざとらしい笑いは本当の笑いに取って代わった。

 


 たとえば社員を雇う前に身上調査としてブログやホームページを調べることはあるかもしれない。としても学生時代にさかのぼってまで、消したホームページを調べられるだろうか。KOGUのホームページには美紗緒の個人情報につながるヒントはまったく無かった。写真もなかったし、プログラムやHTMLの中に署名が残らないよう細心の注意を払っていた。レンタルサーバーだからIPアドレスから漏れるはずもない。蛇の道は蛇というけれども、まさかレンタルサーバーの会社から情報を盗むほど、信楽が犯罪じみたことをするとも思えない。

 ましてや会社の存在に関わる秘密とはどういう意味なのだろう。考えれば考えるほど、わからなくなった。

 しかし次の日、目覚めると、ふいに妙案が浮かんだ。美紗緒が社長室から追い出されたときの彼の高笑い。彼は面白がっている。美紗緒がむきになって真相を探ろうとするのを楽しんでいるのに違いない。

 入社の日、サウザンドトゥームスのエンディングがいくつあるか教えてあげようかと言った時の彼の顔。彼は謎を作って、その答えを教えるのが大好きなのだ。


 午後5時。時間ぴったりに社長室を訪れると、信楽は昨日とはうってかわってさっぱりした姿でホワイトボードにメモをはりつけミーティングの用意をしていた。昨日は、髪は逆立ち、服は着崩れ、目が血走って狂人のようだった。他の社員に見せない姿だったのだと思うと、少しだけ得をした気分だ。本当は七転八倒しながら仕事しているのに社員にはその姿を見せない。決して姿を見ないでくださいと言って機を織るおつうみたいに。夕鶴の一場面に彼を融合してみて、くすりと笑ってしまうと、信楽は不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。

 美紗緒も昨日ここに飛び込んだことなど忘れたようにふるまった。

「この作品を端的に表現するなら、マルチストーリー型アドベンチャーゲームだ。たどる道筋、時間により、プレイヤーの性格も、ヒロインの性格も、設定さえ変化し、プレイするたびに大きく異なるストーリー、そして結末を楽しむことができる。RTACによって作られるムービーはイベント各所で操作画面とシームレスに融合し、あたかも映画の画面転換のように再生される」

 今までの悪く言えばゲームのオマケのようだった信楽のストーリーテリングが凝縮されたような作品になるのだろうか。美紗緒にはそれだけでわくわくするものがあった。

「よって何度も周回するアドベンチャーゲームという性格上、エンディングまで到達した記録を踏まえれば、二度目、三度目と繰り返しても、同じストーリーは繰り返されないしくみを作る。よほど無駄な動きをしない限りは、エンディングまで約2時間。むしろ無駄な動きをしていると、ヒロインに怒られたり、嵌められてバッドエンディングを迎えたりする。重要なのはプレイヤーが主体的に動いたからこのストーリーとなったのだという臨場感。つまりプレイヤーの行動と結果にはっきりした因果応報感があることだ。定められたストーリーの中をうろうろするだけでは、ゲームのインタラクティブ性が生かせない」

 突然、説明が途切れ、信楽は美紗緒をじっと見つめた。

「ここまでで、何か意見は」

 ぎくりとした。あまりにスピードが速くて追いついていない。それは彼の説明が速いのと同時に、転職してアメリカに出張し、帰って数日でもう新作の企画をしているというスピードについていけていないのだ。

 美紗緒は唇をかんだ。

「信楽さん、このゲームは恋愛を疑似体験する作品だとおっしゃいましたね。そのために女の視点が必要だ。だから私をデザインに参加させるのだと」

「ああ、そのとおりだ」

「でも、私には今のような説明を聞いて、有用な意見を言えるような経験はありません。KOGUのホームページをご存じだったのは驚きましたが、逆にそれならおわかりいただけると思います。あんなものは経験とは呼べません」

「だから?」

「ですから、私…」

「この仕事から逃れようっていう話かな」

 どう考えても無謀なのだ。すでにRTACという機材に投資しているし、この会社は一作の比重があまりに大きい。次の作品が始まらなければ遊んでいるしかない信楽組の社員たちの存在もプレッシャーになる。

「もし怖気づいたというだけで仕事を投げ出すなら、試用期間を待たずに辞めてもらう」

 美紗緒は言葉を失った。突如として己の前にふたつの道が現れた。なら辞めます!このまま未熟な私が関わって信楽さんの作品に泥を塗るくらいなら、関わらない方がましです。と言って席を立つ道。ひどいです。そんなに簡単にやめろだなんて。私、とまほーくに転職するのに大変な思いをしたんですよ。縁故で入った銀行や紹介してくれた父と大喧嘩して、父の顔に泥を塗って。と抗議する道。

 だが、そのふたつの道をつかのま頭の中でたどった時、それらとは別の地平が開けたのである。

「わかりました。もう、弱音は吐きません。私ができることをやるまでです。私、信楽さんの作品に関われるなら、なんでもやるつもりで転職したのです。そもそも信楽さんだって、どの作品も経験のないところから立ち上げてこられたんですよね。最初のエクスプローラーもたった二人で作り始めたって読んだことがあります。次の作品も今までのゲームとは似ても似つかない、経験が役に立たないゲームですね。だから私のような新人でも、できることがあるって、期待してくださっているのですね」

 彼はこちらが恐縮するくらい呆然としていた。というより、美紗緒に見惚れているように頬を紅潮させ、目を輝かせていた。

「うん… ありがとう」

 美紗緒は好機とみてたたみかけた。

「きっと私、KOGUの活動をしている時、オフ会かなにかで信楽さんのお知り合いに会ったのでしょうね。それともS工大のパソコンサークルに参加していたから、その会誌でもごらんになったのかな。信楽さんたら、私がKOGUだったことが大きな秘密だなんて。持ち上げてくださらなくてもよかったのに」

「持ち上げたつもりはないが…、まあ、パソコン雑誌の編集部で君を見かけたなんて、確かに秘密とは言えないか」

 彼は苦笑した。そして、美紗緒はこぶしを口にあてて、悲鳴をおさえた。

「あの時?」

「う、もしかして…」

 そう。オフ会に参加したことはないし、パソコンサークルにも入っていなかった。謎が、たいした謎ではないと偽ることで、彼から真実を引き出したのだ。



 参った。なんていう女スパイだろう。

 どうやって?どうしたら彼女に惹かれる現実の自分を押しやって仕事を進めることができるのか。信楽はことあるごとに、体の奥から飛び出してくる現実の自分が、まるでびっくり箱から飛び出すピエロ人形のように思えた。いっそのこと現実の自分をさらけ出して、彼女に理解してほしいとまで思う。だが、もしそれで彼女に受け入れられたら? 自分に憧れている新入社員だとわかっている。アメリカでの一件で少なくとも自分を疎ましく思っていないことも確認済みだ。

 もし、彼女と恋人同士になっても、この作品を作り続けられるか?

「無理だ」

 声になってしまった。

「いやあ、まんまとひっかかった。だがこれ以上は明かさないぞ。さあ、美紗緒ちゃんのいさましい宣言も聞いたことだし、企画会議に戻ろう。なんでも思ったことを言ってみてくれ」

 彼女は手に入れた情報だけでは満足いかないという顔だったが、追及するのは今ではないと踏んだらしい。女スパイの顔から、社員の顔に戻ってホワイトボードに立ち向かった。

「これまでのアイデアをお聞きする限り、技術的に難しいところは思いつきません。ムービーのデータベースとそれを呼び出す操作系と履歴保存の組み合わせです。問題はシナリオです。大量のシナリオ。RTACはシナリオができなければ動画作成に移れません。人員の配置も気になるところです」

「いいぞ。ふたつのジョブの卵が発生した。一つ、メインの操作系。フローシートの

たたき台を作ってあさってまでに僕にメールしてくれ。二つ、大量のシナリオをどう作るか。まず僕から君に設定とメインストーリーをプレゼンする。そうだな、三日欲しい。三日後の夜だ」

「はい」

「じゃあ、解散」

「イエッサー!」

 美紗緒の敬礼と美しくも勇ましい声と、上官への敬意のこもったまなざし。なによりこういう場をしめくくるユーモア。

 その時、自分がどんな顔をしたのか、己のこととて見ようが無いが、信楽の反応を見た美紗緒がぽかんとするくらいにはデレデレしてしまったらしい。

「私のこういうの、好みなんですね」

 いや、言ってみれば全部が好みなんだが、確かにツボなしぐさってのはありそうだ。彼女は信楽の目を見ながら、ずいっとこちらに近づいた。

「いえ。たぶん、私が信楽さんの好みだったのでしょ。だから編集部で私を見かけて、編集の人に私のことを聞いたのですね。でもおかしいわ。私、編集の人に名前も住所も電話番号も教えなかった。取材の時はメールだけでやりとりして、編集部に行ったんです。つまり…」

「ストーップ!」

 まいった。去年小林に彼女がアマチュアの頃を知っていると言った一言からここまで追いつめられるとは。

「言っておく。僕は違法なことはしていない。僕の好みを理由に誰にも迷惑はかけてない。君にも、迷惑はかけない。僕がこういう奴だってのは認める。だから、ほおっておいてほしい」

 すると今度は美紗緒が顔を真っ赤にしたのである。



 君が僕の好みだって?何しょったこと言ってるんだ、うぬぼれにもほどがある、と、馬鹿にされると思って言ったのに、こういう奴だからほおっておけ、で済まされるとは思わなかった。こういう奴ってどういう奴?

 知らないわけがない。

 彼は美紗緒が大事にしてきた作品を作った男だ。エクスプローラーも、虹の鍵も、サウザンドトゥームスも。全部、「こういう奴」じゃなきゃできなかったはず。究極のロマンチスト。ストーリーテラー。ああ、だめ、何かを告白してしまいそう。私があなたにとっての「何か」なのだったら、私にとってのあなたは、この世界で一番好きなクリエイター。一番、近づきたい人。

 だめだったら!ありえない!

 たぶん、私は彼にとって、エヴァの綾波とか、カリオストロのクラリスとか、そういう「好ましい女の子」のひとつにすぎないのよ。

「はい。ほおっておきます!」

 美紗緒は、ばたばたと社長室をあとにした。



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