第10話 何故彼女が?
「俺も社長が最後かと思っていたけど、吉崎さんはまだ調べられていないよ」
「いや、吉崎さんは三か月前には休職しているんですよ。彼女の犯行じゃない」
「うん。俺もそう思ってた。でも……。ねぇ、吉崎さんのことで何か思い出せない? 本当に小さなことでも何でも」
休職に入った時期から考えて、完全に不審者としてのリストから外れていただけに、遥の意見には少々びっくりした。
休職……そうだ。
「そういえば、吉崎さんが机の上に置いて可愛がってた招き猫をラッキーアイテムとして私に」
「どれ?」
「あ、そこからだと死角ですね」
私はペン立ての前に置いていた小さな黒い招き猫を手に取って見せた。
「これですよ。可愛いんですが——」
言い終わる前に遥が招き猫をもぎ取って、左手で握りしめた上から右手で抑え込む。
「俊郎さん、これはいつからここに?」
「え? 私が吉崎さんからもらったのは彼女が産前休暇に入る前日です」
「吉崎さんの机にあったのはいつから?!」
いつもより大きな声が人事部に響く。
「小野君が、吉崎さんに猫が好きなのかって言いながら手に取っていたことがありましたね」
「こいつだ!」
「遥君、落ち着いてください」
珍しく冷静さを欠いた遥に驚いていると、ノックもなく人事部のドアが開いた。
「お、なんだなんだ、パワハラの現場に遭遇しちゃった?」
そうヘラヘラ言いながら入ってきたのは小野君だった。
「違います」
毅然とした遥の声に、小野君の肩が跳ねた。
「なんだよ、二人して何してんの?」
「俊郎さんのデスクにあったこの招き猫、気に入ったのでもらおうかなって思ったんです」
すぐに機転を利かせた遥が招き猫を見せて説明し、私はそれに頷いた。演技に自信がないのもそうだが、遥が一連のことで糸口を掴んだ様子だから話を合わせることにした。
「あ、それな。吉崎さんがこのデスクに置いてたやつだよ。なんで俊郎が持ってたの? さては……」
ただでさえ酷い噂で疲弊している私に、変な疑惑を抱くのはやめてほしい。
……遥は再び招き猫をしっかり握りしめた。
「小野さん、ここに何か用があったんじゃないの?」
「あ、そうだ。予定がリスケになったんで、たまには俊郎と一緒に飯でもどうかなって」
手にしていたコンビニ弁当の茶色のビニール袋をガサガサ振った。しかし、そうは言ってもこちらは取り込み中だ。遥に視線を向けると小さく首を振る。
「小野君、申し訳ないけど今日はちょっと立て込んでいて無理なんです。また今度ぜひ」
「なんだよ、つれないなぁ」
言葉のわりにはそれほど残念がっていないような感じで部屋を出ていった。小野君が遠ざかった頃合いで、遥が扉に施錠して私に指示をだす。
「俊郎さん、俺のリュックから中和剤の瓶を出して」
招き猫を握りしめた遥の代わりに、背負ったままのリュックから黒いプラスチック製の瓶を取り出す。意外に重い。
「これであってるかな」
「うん。それのフタ開けて俺の正面に来て」
言われた通りにフタを外して、遥との立ち位置を調整する。
「今からこれを詠むから、合図するまでそのままで」
「わかりました」
遥の額に汗がにじむ。いつもならすぐにでも何らかの反応があるのに、この間は何だろう。詠んでいるけど何も出てこないのだろうか。
招き猫を握った拳が開くのと同時に、遥の瞳は鮮やかな金色に輝いて、その途端どす黒いモヤが噴出し、瞬く間に部屋に充満してあっという間に視界が奪われた。
「これは……!」
「俊郎さん、それを煙にかけて! 早く!」
「……くっ!」
片手に出した一握りを、上からまぶすように撒いても一向に変化がない。
「もっと! 煙が消えるまで振りまいて!」
言われた通り、何度も煙にむかって振りまいた。
薬瓶が空になるころ、煙が消えて視界が戻ると、床に手をついて汗だくの遥がいて、招き猫が落ちていた。
「遥君、今のは一体……?」
遥は招き猫を拾い上げた。
いつもなら詠んだ後には結晶があるはずだが、それが見当たらない。
「すべての元凶はこの招き猫。……これの秘密は北原さんが知っているはず」
「なんで北原さんが?」
少々ばつの悪いそうな顔をし、私の問いには答えない。
「さて……どうやって、話を聞き出そうかな」
遥は少し考え込んでから、自分のノートを一枚破ってそこに何かをサラサラと書いている。
「俊郎さん、今からあのビルの屋上に行きませんか?」
「あぁ、そろそろ昼休みだし私は構わないですが、遥君は大丈夫ですか?」
随分と顔色が悪いが……
「俺は大丈夫。そしたら、この手紙を北原さんに渡してから俊郎さんは先に行ってて」
遥は屋上の扉の鍵のついたキーチェーンと、今書いた手紙を折って私に手渡した。
「屋上についたら給水塔の陰で隠れてて。俺と北原さんが到着しても絶対に出てこないでね」
私は頷き、一足先に人事部を後にした。
すぐ隣の部署である営業部の北原さんに手紙を手渡す。エレベーターホールに出る時にそっと振り返ると北原さんは手紙を開いて読んでいた。
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