§5-9. 作業に練習、そして充足感


 いつもよりも少し早く登校をしてみた火曜日の朝。朝練をしている部活もいくつかあって、桜ヶ丘高校は思ったよりも活気づいていた。もちろん、学校祭準備のときほどではないけれど。


 俺は玄関で靴を履き替えるとそのまま職員室に向かって放送室の鍵を借り、目的地へ直行する。


 誰もいない朝の放送室というのは、実は初めてだ。朝早く来ることがあってもそのときはじん先生や先輩たちが既に来ていて、もちろん入り口の扉も解錠済みだった。今回はその鍵も自分で借りるところからやってみたという次第だったが、目的はコレだ。


「……ふぅ」


 とくに意味もなく深呼吸をして、ノートパソコンを立ち上げる。まもなくして起動したパソコンを使って何をするかと言えば、昨日撮ったばかりの写真と動画の編集作業だ。


「ふつうの作業時間だけじゃ足りないからなぁ……」


 謎に独り言を言いつつ確認作業を進めていく。淡々とやればいいのだがさすがに誰もいない放送室という未体験ゾーンのせいで、何となく精神的に落ち着かないのかもしれない。


 だったらどうしてそんな落ち着かないような時間にひとりで作業をするのか、という話になるが、今言ったとおり時間が足りないからだ。


 今回の目的はまみちゃんと、さらにマナちゃんに見せる映像を作るための準備――と言ったところだ。どうしてマナちゃんも入ってくるのかと言えば、昨夜3人だけのチャットルームにマナちゃんからの依頼が入ったからだ。

 どうやらまみちゃんがぽろっと例の話を言ったところ『羨ましい! あたしも!』となったという実にシンプルな話の流れがあったそうだ。


 その流れはある意味予想通りだったのでそれ自体には問題は無いのだが、一転問題となって襲ってきたのはその作業時間が足りないというこちらもシンプルな展開だった。


 そりゃそうだ。そもそも今回の撮影にはそういう作業が含まれているとはいえ、個人のための映像を取っておくようなモノではない。要するに追加作業だった。


 したがって本来の時間では到底終われない。だったら『残業』するしかない。

 ところが学校の作業で居残りは認められない。

 ならば朝早く来てその時間を確保するしかない。


「シンプル……」


 いくつかのエフェクトをチェックしつつ、そんなことを言ってみる。


 何のことはない。話は至ってシンプルだった。


「……素人編集で申し訳なくなってくるんだけど」


 それでも、今の俺が出来ることはすべてやりたいと思う。




     〇




 挙手。


なん、いきまーす」


 即座に両腕で大きな丸をつくる審判役。


 それを見てゆっくりと助走を始める。


 助走路の半分くらいからほんの少しだけ速度を上げてコーナーリング。


 目標ポイントやや手前で大きく地面を蹴って――。


 ――跳躍。


「……あっぶね」


 背中を何かが掠った気がしたが、どうやら気のせいだったらしい。危ない危ない。


 走り高跳びは2年ぶりくらいだろうか。中学の授業でやった以来だとは思うがいつやったかは全然覚えちゃいない。3年の時は例の件のおかげで体育の授業参加を止められていた時期もあるのだが、それでも身体が覚えていたのは奇跡的かもしれない。


 ほっと息を吐きながら控えエリアに戻っていくと見知った顔がこちらに近付いてきていた。


「やるねえ、難波」


「ありがとよ」


 同じクラスのもりぐちだい。夏季体育祭では俺と同じく走り高跳びに加えて、100メートル走にも出場する吹奏楽部員だ。――文化系の部活所属だからと言って舐めたらいけない。コイツはダークホースだ。小学生までは陸上クラブにも所属していたらしい。


「さらっと良い記録出しちゃうんだもんなぁ」


「そっくりそのままその言葉を返すよ」


 訊けば守口は以前の練習で175センチを跳んでいるとか。それたぶん、陸上部からお声掛けがくると思うよ。本気で俺たちと全国目指さないか、って感じで。


「まぁ、一応はやってたからさ。難波の場合は体育以外ではやってないだろ?」


「だなぁ」


「だったらなおさら、あのフォームで飛べるのはイイ」


 経験者からのお墨付きをもらってしまった。ありがたいやら気恥ずかしいやら。


「前半の練習にも参加出来てりゃなー……、陸上部のコーチから教えてもらえたのに」


「放送局の仕事もあったし、……他にもいろいろと事情というか、理由はあったから。残念だけど無理だったな」


「なるほどな」


 それじゃあ仕方ないと守口は納得してくれた。


 彼はもちろん俺の身体のことを詳しくは知らない。体育は2クラス以上の合同で行われる都合上、隣のクラスくらいまでの範囲でならば『難波遼成オレはあまり身体が強くないので強度の高い種目の参加はあまりできない』ということは把握しているとは思う。


「まぁ、俺たちには映像資料っていう武器があるから」


 走り高跳びの練習映像もしっかり撮れている。もちろんそれは同じクラスの守口がこの練習に参加しているからという理由だ。


「あ、それけっこうアド取れてるじゃん。良いなぁ。俺にも見せてくれよ」


「残念。秘蔵映像なんだよ」


「ケチだなぁ」


「ケチとかじゃあないんだよなぁ。外出しできないんだよ」


 言いながら『あれ? それに反することをしようとしてないか?』と自問自答してしまうが、一旦その辺りの話はどこかへ投げ捨てておこう。


「おーい! リョウくーん! 守口くーん!」


「ん?」


「よく通る声だなぁ……」


 不意に俺と彼を呼ぶ声が聞こえてきた。――声の主は、すぐわかる。守口も言ったとおりだ、あれだけよく通る声で俺のことを『リョウくん』と呼ぶのは世界70億人探したって現状ひとりしかいない。


 ――たかどうまな、その人だ。


「はい、差し入れー!」


「ありがと」


「くーっ! たまらん!」


「飲むの早いな」


 一気にこちらへ駆け寄ってきたマナちゃんの手にはよく冷えたペットボトルが2本。それぞれ受け取って俺が礼を言うより早く、守口はそれに口を付けてすでに半分ほど空けていた。


「ウマい! もう1本!」


「まだ半分くらいあるでしょー。あと、ひとり1本だからねー」


 ノリのイイ守口に、同じようなノリで返すマナちゃん。順応性が高いというかなんというか。オーディエンスの扱いの巧さはこんなところでも役に立つということなのかもしれない。


「あれ?」


 そういえば。マナちゃんが来るならばと思っていたのだが、もうひとりの彼女の姿が――。


「もー。愛瞳ちゃんホント早すぎー……!」


 予想通りだった。タオルを持ったまみちゃんが小走りでこちらへ駆け寄ってきていた。――それにしても、どれだけぶっちぎってきたんだ、マナちゃんは。もしかしなくても、ウチのクラスの女子の短距離部門はイイところまで行きそうな気がしてきた。


「ハイ、こっちはタオルねー」


「ありがと」


「くーっ! たまらん!」


 ――さっきの焼き直しか。こうこつの表情でタオルに顔を埋める守口。そのまま昇天しそうだ。


「リョウくん、リョウくん。もしかして、さっき跳んだのってリョウくん?」


「あぁ、うん。一応」


「スゴかったよー! 本番はめっちゃ近くで応援するからねっ!」


「う、うん。ありがとね」


 マナちゃんにはめちゃめちゃに接近されて、両手をがっちりと握られて、全力で褒められた。


「陸上部とか経験者じゃないんだよね、遼成くんって」


「だね」


「やっぱり地の運動神経が良いんだね」


 対照的にまみちゃんには柔らかく微笑まれながら、それでも全力で褒められた。


 あははとマヌケな笑顔を返しつつも、俺は少し周囲が気になった。


「……ああ、なるほどな」


「アイツがそうだったのかぁ」


 薄らと聞こえてきたのは少々の妬み嫉みを含んだ声と、それを覆うような視線。このふたりのことを少なからず知っている生徒がよく俺に向けてくる2点セットだ。


「どれだけ前世で徳を積んだらああなれるんだろうなぁ」


「オレらは来世に向けて今からがんばるしかねえだろ」


「だなぁ」


 とはいえ、数週間前ほどはよく感じていた殺伐とした雰囲気は消えていた。


 これでも元サッカー部、ポジションはボランチ。周りを見る視野の広さにはそこそこの自信はある。そんな俺でも気付かないくらいに、本当に、いつの間にか――という感じで消えていっていた。


 許容されているというか、受容されているというか。決して認められているというわけではないのだろうが、生温い視線を送られるという回数が圧倒的に多くなってきていた。


 誰かが何か言ったからとか、そういうことなのだろうか。俺はとくにやることを変えたわけではないし、このふたりもとくに俺に対する行動を変えたというわけでもない。


 とはいえ、暮らしやすくなったのはありがたいことこの上なかった。



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