第1話-3


 翌朝、占いの結果を話すまでもなく「いいことがあったって顔ね」と鈴鹿に言われた。

「イアンさんとの相性はどうだった?」

「ええっとね……」

 真理絵は頬をゆるませた。

「『大変なことはたくさんあるけど、2人で力を合わせれば大丈夫』だって」


 どうやら、その言葉のおかげで真理絵の不安は飛んでいったらしい──『そんなの私でも言えるけどね』という言葉を、鈴鹿と芽留は「ふぅん」とわらって飲み込んだ。




 夜、シャワーを浴びてパジャマ姿でくつろぎながら、真理絵はRINEに返信していた。

 絵文字やスタンプはないが、話すときよりわずかに砕けた口調に目のはしがとろける。土曜日にまた家で勉強を教えてもらう約束ができた。『では週末に』と表示された画面を、そっと胸に近づけて抱き締める。

 ──こんど会うときはもっと……。

 目の前に相手はいないのに、頬は赤らんでしまう。ピコン、と通知音がしてひたっていた世界から真理絵は目を覚ました。


「なんだ……健太か……」

『借りてた本を返したいから土曜日、家に行ってもいい?』

 と表示されたメッセージに

( 本を貰うだけなら短時間で済むかな )

 真理絵は『午前中なら』と返事し、短いやりとりを終えてスマホを閉じた。




(2)


 土曜日の11時ごろ、健太は家にやってきた。

 本の入ったトートバックを肩にかけ、すこし難しい顔をしている。真理絵は何かあったのかなと察して「久しぶりだから少し話さない?」と健太を部屋に招いた。


「きれいにしてんだな」

「それって褒め言葉? 人を部屋に招くときぐらいキレイにするよ」

「またあの彼氏が来るのか」

 言い当てられて真理絵は顔をあかくし、「ぜんっぜん可愛げがないんだから」と紅茶を注ぎながら言う。

「小さかった頃は、まり姉(ねえ)、まり姉って付いてきたのに。可愛かったのにな」

「………」

「ねえ、なにかあった?」


 言葉数のすくない幼なじみが気になって、真理絵はかれの顔をのぞきこんだ。健太は意識がどこかへ行っていたようで、真理絵との距離が近いことに気づくと、気まずそうに紅茶を飲んだ。


「あんまり不用意に近づいてくんなよ。高校生になって男を部屋に入れるとか……そういうの気にしないわけ?」

「気にするよ。でも健太だし」


 こう言うと健太は眉をすこし寄せた。紅茶が熱かったのかもしれない。

 真理絵が見守っていると、彼はコップを置き、トートバックから透明のラッピング袋を取りだした。

「……クッキー、焼いたんだ。食べて感想を言ってくれない?」

「え、すごいね」

 袋から取り出されたクッキーを受け取り、真理絵は警戒心なく口に含む。生地にラベンダーが入っていて、口の中にふんわりとラベンダーの香りがひろがった。真理絵は「すごく美味しいよ! 健太、お菓子作るセンスあるんじゃない?」とすこし大げさに褒める。

 そっか、ありがとう。健太は褒められたのに落ちつかない態度を示した。まるで感想を言ってもらうのが目的でなかったように。


「あのさ」そのまま話し始めた健太の口調はこわばっていた。

「まりえはあの金髪ヤローと付き合ってんの? あいつことが本当に好き?」

「え……? う、うん」

 とつぜんの質問だったが、真理絵の口はするりと答えていた。

「どこまでいった? ハグとかキスは?」

「キスはまだ……」


 あまり他人に話したくないことを吐く口を、真理絵は手でおさえる。なぜか質問には答えなければいけない気がした。深く考えられない。考えようとするほど頭がぼうっとする。

 焦点が合わなくなった真理絵に健太は近づいて、じっと目を覗き込んだ。

「……今からおれの言うことをちゃんと聞いて。

 今すぐあいつと別れるんだ。真理絵はおれと付き合うべきだ。ずっとそばに居て、お前を一番に見てきたんだから」


 遠くから声は聞こえ、暗く悲しげだった。

 こんなふうに健太は話したっけ。それに、あいつって誰だろう。──真理絵には健太しか見えなくなってコクンと頷く。

 ほんと? 健太は嬉しそうに言って、お人形のようにおとなしい真理絵を抱きしめた。そのまま熱っぽい眼差しで顔をかたむけ、唇をうばう──…。


「……!」

 キスされかけて真理絵の胸はずきりと痛んだ。心中をなにかがかすめて、健太の顔を押しのけた。

「あ……」

 頭がぼんやりしていた。だが、よくないものに意識を奪われかけたのは分かる。腕から逃れるため身動ぎしたが、男子高校生の力は真理恵より強かった。


「離して……」

「まり姉、あいつと別れろよ、おれがいるだろ!」

「やめて健太」

 明確な拒絶に健太の目がうるむ。だが腕の中からは解放されなかった。まるで離したら二度と会えないように必死で抱きしめる。また、頭がぼんやりしてきた。──なぜ抵抗しているのか分からなくなる……。


「そこまでです」

 頭上で声がして、ずるりと青年の身体が力を失った。腕の拘束から解かれるのを感じた。力強い手に引っぱられ、気が付くと心配そうな青い目が覗きこんでいる。

「……イアンさん……」

「遅くなって申し訳ない。大丈夫でしたか、マリエ」


 ぼうっとする頭のまま彼に抱き締められる。よくないものに支配されかけた身体は、イアンの温もりに包まれて熱を取り戻した。

「わ、たし……」

「よくないものに触れれば、どんな聖人でも毒される。支配されていた間の出来事はあなたの意志ではありません。気負ってしまったら心の力は弱くなってしまう。あなたはちゃんと抵抗した。そこが大事です」

「は、い……」

 ぎゅっと真理恵はイアンの身体にしがみついた。鼓動の音を聞いていると、ざらついた心は和らいでいった。



「健太は大丈夫ですか?」

 真理絵はぐったりした幼なじみを見た。倒れた健太はベッドに寝かされている。

「大丈夫です。正気に戻れば、先ほどの出来事も忘れてしまうでしょう。

 彼からは明らかによくない気配が感じられた。それを察知できたから、あなたのもとへ駆けつけられたのですが……」


 おそらく彼は発生源でなく分体のようなものです、とイアンは唇に手をやってつぶやく。本体がどこにいるのか考えているのだろう。

 テーブルの上に透明のラッピング袋があった。

 ──ふんわりと漂うラベンダーの香り。真理絵の脳裏に浮かんだものがあった。


「あのう、イアンさん。もしかするとなんですが……」




(3)


「また来てくださったんですね」

 占い師は真理絵にやさしく声をかけ、続いて入ってきた男性に片眉を上げた。「あら……?」


 真理絵が受付に電話をすると、運良く直前にキャンセルがあったようで今日中に予約がとれた。イアンを建物に案内して「どうでしょう?」と聞くと、

「まさに。ご名答です」

 とイアンは微笑む。だが次の瞬間から顔付きが真剣なものになって、真理絵に警戒をうながした。案内の人に呼ばれるまで、真理絵は深呼吸して待つ。

 ──そのうち、私にも良くないものが分かるようになるんだろうか。

 ──親切そうな女性だったのに……。


「マリエは、前にその占い師と対面しているのでしたね」

 イアンが心を見透かしたように言った。「どうして分からなかったのかと思うかもしれませんが、独特の気配には経験を積まないと分かりません。

 そして、悪いものはにこそ蔓延るもの。人間世界になじんで存在しているほうが奴らにとって都合がいいのですよ」

「普通の人に……」



 名前を呼ばれて部屋に入る。占い師はイアンを見てなにか感じることがあったのか、とまどいの表情を浮かべた。

「これはあなたの行いですね」

 イアンは真っすぐ占い師の前に歩み寄り、袋にはいったクッキーを差し出した。

「ラベンダーは古くから使われてきたハーブで、魔女の薬草としても有名だ。恋する相手に食べさせると効能があるのだとか。……もちろん普通に食べても問題はありません。

 あなたは相談者にまじないを教えて、食べた相手の意思を奪うように仕向けたのでしょう。〝相手の気持ちを自分に振り向かせる〟と言って」


 イアンの言葉に占い師はうなだれる。否定しない。でもひどく気落ちしているようだった。それを見て、真理絵はなぜ彼女がこんなことをしたのか気になった。


「マリエ、ここから先は私ひとりで行います。あなたは部屋の外へ出て、物音がしても他の人が入ってこないようにして下さい」

「はい……」

 真理絵は頷いたが、ドアノブに手をかけて立ち止まった。──どうして女性は〝おまじない〟を教えていたのだろう。人気を上げるため? 相談者の意思を直接奪うこともできたのに……。


 立ち止まった真理絵に、イアンが不思議そうな目を向ける。出ていかなくちゃと思いつつ、真理絵の胸に言葉がたまる。

 いま私が何か言っても、この女性は忘れてしまうだろう。だからこそ言っておきたい気がした。真理絵は思い切って口をひらいた。


「あの……お礼を言いたくて」

 女性は真理絵の言葉に顔をあげる。

「占いのとき、色々言ってくださってありがとうございました。すごく励まされて元気になりました。

 私は、占って貰えて良かったなって思います」


 真理絵は頭を下げて、急いで部屋から出た。イアンの仕事を邪魔して気まずかった。ドアを閉めるとき、イアンの背中で女性は見えなかった。




(4)


 しばらくして出てきたイアンは、お待たせしました、と言っただけで、真理絵に対する注意はなかった。「無事に終わりましたか?」と控えめに聞くと「ええ、おかげさまで」と返される。


「あなたが思い当たってくれたおかげで被害を減らすことができました」

「………」


 雑居ビルの外はまだ明るい。街にはたくさん人がざわめいていて、日常の世界に戻ってきたことを象徴しているようだった。

 門限を守るため急いで帰る必要はなさそうだ──真理絵は勇気を出して質問した。


「イアンさん。悪いものに取り憑かれちゃう人って、どんな人でしょうか」

「………」

「あの占い師さん、とてもいい人だったんです。私がお客さんだったからかもしれないけど、親身に相談にのってくれました。健太のことも幼なじみだからよく知っています。……悪い人ではないと思います」


 たぶん、と小さく真理絵は付け足した。すこしだけ前を歩いていたイアンが振り返り、真理絵を見つめる。その表情はふだんと変わらずおだやかで、真理絵はホッとした。


「マリエの言うとおり〝悪い人間だから〟そうなるわけではないのです」

 歩きながらイアンは答えた。

「人間には誰にでも、『ああしたい』『こうしたい』という欲望がある。それを自分の努力で叶えようとする人間は〝心の力〟を得ます。逆に、自分の努力でない力で叶えようとすると、悪いものを引き寄せやすくなる。違いはそれぐらいです。

 私が特別良い人間だから、聖騎士になったわけでもないように」


 もちろん私からみてマリエは良い子ですが、とイアンは柔らかく笑った。行きましょう、と真理絵の手をとってじぶんの隣に引き寄せる。人どおりの多い場所で手を握られ、心臓が跳ね上がった。

 好きな人とならんで歩ける幸せに、真理絵は恥じらいながらも微笑みを浮かべた。





 ──悪い人だから、悪いものを引き寄せるのではない。

 占い師の女性は、まるで意識が一瞬だけ遠のいて、白昼夢をみていたかのように目が覚めた。いつもの小部屋で手元にはホロスコープ(西洋の占星術)表がある。

 ただなんとなく、何を考えていたか思い出せなかっただけで。


「あ……」

 目元がすこしだけ濡れていた。でも、直前に見ていた白昼夢は悪いものではない気がした。じんわりと胸が温かったから。

 ──お客さんが笑顔になって、感謝されたときみたいに。

 久しぶりに心がすっきりしていた。溜まっていた悪い感情が吐き出されたようだ。

 ──自分は占いで人に感謝されるのが嬉しいのだ。昔から、ずっと。


「次の方、どうぞお入りください」




<第一部終わり>



「ラベンダーをクッキーに入れて恋する相手に食べさせる」のは魔女のおまじないを扱うサイトで拝見しました。良い香りで美味しそう。効果のほどは存じ上げませんが。


次話は1.5部です。イアンさんの秘密がすこしだけ明らかになります…!

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