第17話

一先ず海凪の話は終わった。


「私があの子を虐めるようになった経緯、分かった?」

「——」


想像より遥かに複雑な動機だった。思考が停止し言葉が出ない。


「涼花の期待に応えられなかった自分が憎いよ」


そう言ってコップの取っ手を強く握る。握る手はプルプル震えていて、今にも割れそうだ。


「——ああ、なんか話し過ぎて眠くなってきちゃった。まだ時間早いけど先に寝ていい?」

「え、あ、うん——」


海凪の大きさ欠伸。完全にオフモードだ。


「階段を上がった先に俺の部屋があるので、そこのベッドを遠慮なく使ってください」

「ご丁寧にどうも」


握っていたコップを静かに置き、ゆっくりと立ち上がる。心なしか先ほどよりすっきりした表情になった。まるで憑き物が落ちた感じ。今まで溜めて込んできたものを発散できて楽になったのだろう。


「——すみません」

「ん? なにが?」

「何もアドバイスしてあげられなくて」


彼氏ならここは彼女に何か言って、励ますシチュエーションのはずだが、上手く思考が纏まらず呆然と聞くだけになってしまった。彼氏として失格。不甲斐ない自分が腹立たしい。


「別にそんな気に病まなくても大丈夫だよ。話を聞いてくれただけでも充分」

「ホ、ホントですか?」

「うん。逆に口出しされた方が角が立つ。こういういかにもややこしそうな話は聞くに徹するのが一番。そもそも彼女の愚痴を黙って聞くのが彼氏の役目でしょ」

「それはそうですが……」


海凪は軽快な足取りで階段に足を乗せる。不意に彼女の笑顔がこちらに向けられる。


「じゃあ、おやすみ。“勇磨クン”」

「あ、はい。おや……。え、んんんっ⁉」


流れるように下の名前を呼び捨て。危うくスルーしかけた。

俺は動揺のあまり目を泳がせる。


「なにその反応。狼狽え過ぎ」

「いや、さすがに急過ぎません? まさかこのタイミングで名前呼びされるとは思いませんでした」

「彼氏の名前呼ぶのにタイミングとかないっしょ」

「うぅ……。確かに」

「もしかして。イヤだった?」

「いえいえ、全然‼」

「ならいいじゃん。おやすみ、勇磨クン!」

「うぐっ……」


いつも俺の事を“アンタ”しか言わないため、突然の“勇磨”呼びは新鮮で違和感がある。名前を呼ばれる度に嬉しくて全身がむず痒ゆくなる。そろそろ俺のハートが持たない。もう一度、名前を呼ばれたら確実に失神する。


「ゆ・う・ま・ク・ン」

「グハッ……‼」


ダメだ。刺激が強すぎる。

結局おやすみが言えないまま、その場で倒れる。ハートはバラバラに撃ち抜かれ失神した。


◆◆◆


「——ハッ‼」


爽やかな小鳥のさえずりで目を覚ます。今、何時だ! 慌てて、壁の時計を見る。


「朝の七時……」


失神してからおよそ十時間。普通に熟睡していた。

何故か俺はソファーで寝かされている。おまけに布団もかけられている。恐らく失神する直前まで机の前にいたはず。ひょっとして、海凪がわざわざソファーまで運んでくれたのか。彼女には悪いことをしてしまった。後で謝ろう。

ほんの少し痛む腰を抑え、重い体を起こす。


『勇磨クン——』


不意に失神する前の出来事が脳裏に蘇る。あれは眠気による幻覚だったのかもしれない。寝たせいで記憶が朧気だ。


「早く朝食を食べて弁当を作らないと」


後頭部を掻きながら、のそのそと台所へ向かう。なんとなく卵焼きらしき残り香が辺りに漂う。


「お?」


シンクには水で浸されたフライパンと鍋が残されている。水面には油が浮いている。

使った食器やフライパンは昨日のうちに全部洗ったはずだが、記憶違いか。


「——なんだこれ?」


ふと食卓に視線を移すと、そこには紙切れが一枚置かれている。しかもその紙切れの横には皿がいくつか並べてある。上からラップがかけられていて、中身がよく分からないが何かの料理であるのは間違いない。

一旦、台所から離れ紙切れを手に取る。


『冷蔵庫の中から適当に具材選んで朝ご飯作っちゃった。これは昨日のお礼。美味しく頂いて。私は朝練にいってくる。

                          

藤春海凪より』


紙切れの正体は海凪の書き置きだった。女子にありがちな丸い字が可愛い。字面だけでも癒される。危うく紙切れにキスしかけたが、さすがにギリギリのところで踏みとどまる。セーフ!


「せっかく藤春さんが作ってくれた朝食。しっかり噛んで味わらせていただきます‼」


礼儀正しく椅子に座り心を込めて合掌。慎重にラップを外す。


「おお!」


こんがり焼かれた目玉焼きに、塩焼きされた鮭。味噌の香ばしい匂いを放つ豚汁——。見た目は抜群。メニューは実にシンプルだが朝食にはちょうどいい。いい感じに腹が満たせそうな量だ。

早速、目玉焼きから箸をつける。


「——ん?」


あれ――?

もう一口、目玉焼きを堪能する。


「――んん?」


あれあれ――?

もう二口。


「――んんん?」

もう三口。


「――んんんん?」

もう四口。


「――んんんんんっ!?」


何回食べても味がしない。食感は最高だが本当に味がしない。舌でいくら転がしても味がしない。嚙んでも嚙んでも味がしない。

一度目玉焼きから離れ美味しそうな豚汁をすする。


「——え?」


これも味がしない。そもそも豚汁のくせに味噌も豚の味もしない。安い天然水を飲んでいる感覚。


「さすがに鮭は——」


鮭もダメだった。塩の味どころか鮭の旨味も完全に消滅している。これに関してはほとんど焼くだけの既製品で味を無くす方が逆に至難の業だ。一体、どういうマジックを使ったんだ⁉


「マズいな……」


この味は熱中症で一週間、入院した小学生の頃を思い出す。あの時に食べた病院食と目の前の食事が重なって見えた。







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