過ぎし日の優しい思い出 離別

 養子に迎えて二年。幼さが抜けはじめた少年が不安そうに抱きついてきた。


「義父上! お気をつけて! 父様もしっかり義父上をお守りしてくださいね」


 そう言って体を離した少年はエリアスの後ろで控える彼の実の父に手を差し出した。

 大きな垂れ目がちの目と薔薇色の頬、ふっくらとした唇を持つ優しげな容貌は人懐っこい子犬のようだ。

 葡萄酒のように深い色味の赤髪と琥珀色の目の色、強いていえばキリッとした眉以外は自分の後ろで控える強面の男にあまり似ていない。


「シュミットメイヤーとお呼びください。殿下」


 肩を落とした義理の息子の姿を見て、エリアスは口を挟んだ。


「頑固は美徳じゃないぞ。他ならぬ私が赦すと言っているんだ。何度も言わせるな、リヒャルト。気にせずに呼ばれてやれ」


「ここは我々だけではないでしょう」


 ハンバー港に停泊した船団を背に沢山の人間が慌ただしく支度をしている。今回の外遊に同行するエリアスの腹心達もそれぞれ家族とつかの間の別れを惜しんでいた。


「誰も気にしないさ。皆、一年近くは会えないんだ。それぞれ別れを惜しむ方が大切だと分かっている」


 そう助言するとリヒャルトはためらいがちに、だがしっかりと少年を抱き寄せた。


「私がいない間、皆様をしっかりお守りするんだぞ」


「俺はこいつに守られるほど弱くないがな」


 横から茶々を入れるヴィルヘルムにリヒャルトがどこか自慢げに応える。


「最近はとみに強くなっていますからね。ヴィルヘルム様の背中ぐらいは守れるでしょう」


 飛び上がるかのように、少年が顔を上げた。


「本当ですか…!」


 喜びに目を輝かせ、尻尾があるなら振りちぎりそうな顔をして実の父親を見上げる彼の頭をリヒャルトが荒っぽく撫でた。


「だが、鍛錬は怠るな」


「毎日、よく食べて、よく寝て、身体も作れ、でしょう」


「そうだ。それとヴィルヘルム様が冒険をしたがらないようしっかりと見張っているように。間違っても一緒にフラフラするんじゃないぞ。かならずお止めしろ」


 ただでさえエリアス様が無茶をするのだから、とため息混じりに続けられてエリアスは苦笑した。

 まだ、リヒャルトは納得してなかったらしい。


「ウォーレスが拓いた航路は安全だよ。ディフォリア大陸で無理に勢力を広げるよりも、新大陸リベルタの開拓と資源の確保をして、ハンバーを中継点にして交易を行い、国を富ませる方がはるかに効率的だ。だが報告と実際が違っている可能性もある。即位する前に自分の目で見ておきたいと話したろう」


「意義と時期は今しかないということは理解していますよ。即位されたら、そう簡単に新大陸まで行けないのも事実ですし。ただどうにも胸騒ぎがするのです」


 彼の父である王は、ヴィルヘルムと皇女イリーナの婚姻前に、近いうちの譲位とエリアスの王位継承を公表し、その実権と職務を息子たちに振り分けている。本当ならばとうの昔に譲位してもおかしくないのに、少しでも自由に動きたいという王子達の意思と国の利益を慮って譲位を伸ばして猶予を与えてくれたのだ。


「胸騒ぎなんて不吉なことは言わないでくれ。普段机にかじりついているんだから、怖さが染みるじゃないか」


 冗談半分で身を震わせるとヴィルヘルムが真面目な顔で言った。


「今からでも代わってやるぞ」


「バカを言うな。私はお前が羨ましかったんだ。自分で決めて好きなところに行って、生きた見聞を身につけて。一度ぐらい夢を見させろ。それにお前は新婚だ。少し腰を落ち着けて新妻との関係を深める時期だろう」


「嫁と娘を置いて冒険に飛び出す人間の言うことか?」


「婚姻を結んでからずっと、忙しい執務の間の時間をすべて家族に使ってくれていたのです。一度ぐらいのお願いは聞いて差し上げないと。まして、国の利益になるための試しを、妃の身で留める事はできないでしょう?」


 言葉に詰まったエリアスを妻のオディリアがさも当然といった表情でフォローした。


「義姉上がこれをかばうとは思いませんでした」


 ヴィルヘルムが意外そうに鼻を鳴らしたが、エリアスも同じ気持ちだった。今回の計画に対して正直ここまで理解を得ていたとは思わなかった。

 オディリアは親戚筋にあたる国内の有力貴族の娘で幼なじみだ。

 自分より少し年上の彼女は自分が物心ついた時から共にいて、幼少期には自分にもヴィルヘルムにも姉のような態度を取っていた。

 結婚後は慎ましく後ろに下がって自分を立ててくれるようになったが、王子という身分を隠し腕試しと称して色々な土地を歩き回るヴィルヘルムは常に小言をもらっていた。

 なので、自分の新大陸訪問も内心良く思ってないと推測していた。


「ヴィル、あなたはもう少し城に落ち着くべきです。イリーナもこんなのに気を遣わず、自分の意思を主張なさい。躾は最初が肝心ですからね」


「躾…! 犬ころみたいに言わないでください……」


 やんちゃで自由気ままな次男坊だが、オディリアには頭が上がらない。

 肩を縮こまらせて言葉尻弱く言い返すヴィルヘルムと、困ったように微笑むイリーナの手をエリアスは取った。


「国同士の都合で娶合わせられて、とまどうこともあるだろうが、これも縁だ。ヴィル、私のいない半年は城を開けず、お互いに絆を深めてほしい」


 やや強引に二人の手を触れ合わせ、かわるがわる二人の目を見つめて笑顔を作った。


「イリーナ。あなたの故郷のノーザンバラ帝国と違ってメルシアは小国だ。だがその分、身軽で皆が近しい。そういう生き方をしてきていない事は分かっているが、家族として打ち解けて欲しいと思っているし、国のしがらみの事など考えず、自分の幸せのために生きてほしいと思っているよ」


 愛玩人形のような優しい無表情だったイリーナが考えるように首をかしげ、確信をもってふわりと笑った。


「家族として打ち解ける? 幸せ……? ああ、殿下、わたくし……ヴィルヘルム様のお役に立てる事がわたくしの幸せです」


 その瞬間、エリアスの背を薄寒い何かが這った。取り返しのつかない間違いを犯したのではないか、という疑念がわだかまる。

 ちらりとヴィルヘルムを見ると舌を打つ音が聞こえた。


「何度言ってもこれだ。俺は役に立って欲しいなんてこれっぽっちも思ってない」


「そんな……」


「ヴィル、お前を思って言ってくれた言葉を頭ごなしに否定するものではないよ。イリーナ、ヴィルは口下手でぶっきらぼうだが、心根は優しいんだ。二人でいい関係を築いて欲しい」


「ええ、ええ。殿下、もちろんです。ヴィルヘルム様のお優しさは分かっています。まだ、お役に立っていないのにおそばに置いてくださってるんですもの。この婚姻で両親からはじめて、役に立つ良い娘だとお褒めの言葉を賜りました。なので私が弁えておつかえしてお役にたてれば、わたくしのこと、ヴィルヘルム様にもわかっていただけると思っているんです」


 17歳という年齢の割に、幼さの抜けきらない印象の少女は、ふわふわとした甘い声で夢見る瞳を夫に向けて思いを無邪気に語っている。だが、その内容は空虚で人格を感じない。


「……イリーナ。私も役に立つというのは夫婦の関係で重要ではないと思うよ。それよりも二人で毎日顔を合わせる機会を設けて、ささやかな景色の移り変わりや日常のあれこれを話してみるのはどうかな。そうだな……ヴィルヘルム、私が帰るまで可能な限り毎日二人でお茶か散歩の時間を取りなさい。いいね」


 言われている意味が分かっていなそうなイリーナと、いかにも嫌そうなヴィルヘルムの様子に不安を覚えながら、エリアスはオディリアを抱き寄せ、二人に聞こえないように取りなしを頼む。そして、すこしわざとらしく耳元に唇を落として顎を持ち上げると優しく触れ合わすように唇を重ねた。


「自分で決めた一人での外遊とはいえ、君としばらく会えなくなるのはつらいよ。リア。我が最愛の妃。いない間苦労をかけると思うが、頼む。父上は無理のきかない御体、王妃たる母もいない状況で王太子妃として留守を預かる重責は理解している。だが、君を信頼している」


「最善を尽くすわ。エリアス。あなたの旅が順調でありますように」


 もう一度固く抱き合いくちづけを交わして、エリアスはオディリアを離し、彼女の後ろに隠れた少女に視線を向けた。


「さて、そろそろ船に乗らないといけない時間なんだが、父様は最愛の娘に別れを告げられないまま出発することになるのかな?」


「嫌い……父様のことなんて嫌いだから良いもん!」


 顔を背けてオディリアのドレスの影に身を隠したユリアの前髪を、伸ばした指先でそっと漉きエリアスは静かに言った。


「そうか。でも私は大好きだよ。ユリア。母様は父様の分もお城のことをしなくてはいけなくなって大変だから、言われたことはちゃんと聞いてあげて。皆とも仲良くするんだよ」


「嫌! 父様が行かなければいいんでしょう! そうすれば母様だってお城のお仕事しなくてすむもん!」


「ユリア。行かないでって言ってくれる気持ちはとても嬉しいよ。私を心配してくれているんだよね?」


「やだ、父様、行っちゃうのやだ……」


「おいで」


 エリアスは飛びついてきた娘を、膝に埃がつくのも構わずにひざまずいて抱きしめた。


「ちょっと前までは軽々と抱き上げられたのにね。半年会えなかったらどれだけ大きくなってしまうんだろう。私も寂しいよ。でも大切なお仕事だから行かないといけないんだ」


「やだぁ……」


 しっかりしてきたと思った娘だが、まだまだ子供だ。柔らかな髪を撫で、頬にキスをして立ち上がる。


「新大陸にはこちらにはない色々な物があるらしい。菓子や果物もこちらと全く違うそうだよ。色々お土産を手に入れてくるからね。楽しみにしていて」


「いらない」


「ユリア」


「おみやげなんていらないから早く帰ってきて!」


 ユリアの大きな瞳から涙が溢れてこぼれ落ちる。


「パパ、大好き……。パパとずっと会えないのやだ。寂しいよう……」


「ユリア、愛しているよ。君が楽しそうに宮を駆け回る姿を見られないのは身が切られるようだ。なるべく早く帰るようにするから。その間、君は明るく輝いて母様を笑顔でいさせてあげて」


 小さくうなずいたユリアのやわらかな髪を撫で、エリアスは微笑んだ。

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